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7.嵐の訪れ

ぷうぷうと音を立てながら、小さく丸まって眠るその愛らしい姿を、つい未練がましく見つめてしまう。躊躇いがちに伸ばした指先で喉をくすぐると、こそばゆそうに口元を緩めて身を捩るその姿が愛おしくて、苦しくて、胸が張り裂けそうになった。ノエルは他に人が──────否、アダンがいると素直に眠りにつこうとしない。だから一度部屋を出て見せて、完全に眠りについた頃に部屋に戻るなんて情けないことを繰り返していた。ノエルにとっては騙し討ち同然であることは分かっていても、どうしてもこれだけはやめることができないでいる。


寝ている時にだけ見せる、ノエルが無防備に甘える姿。猫は夜行性の筈だけれど、眠そうな表情をするのが人間とそう変わらない時間なのは、他の誰かと暮らしていた証明である気がしてギリ、と唇を噛む。例え、アダンに向けられたものではないとしても……幾度八つ裂きにしてもまだ足りないほど、狂いそうなほど妬ましい、ノエルの前の飼い主と勘違いしているのだと、しても。それでもこの世の何よりも愛おしい番の気を許した姿を、どうしても手放すことができなかった。後で後悔と罪悪感と嫉妬で押しつぶされそうになると分かっていてなお、止めることができない。獣人の王としてノエルを縛ったあの日から、無駄だと判断したのか賢いノエルはここから出ようと暴れたり、むやみに威嚇してくることはなくなった。その代わりに向けられるのは、透き通った硝子玉のような視線と、無関心。──────愛しい番に、嫌悪すら、感情を見せることすら、諦められてしまった。そう思うと臓腑が焼け爛れていくような恐怖と不快感に襲われて、何度呼吸の仕方を忘れそうになっただろう。部屋を出るたびに視界が眩んで脂汗が噴き出すのを、ジスラン達に世話をされてなんとか保っている有様だった。これで王だなどと、笑い話にさえなりはしない。


思わず指先に微かに力を込めてしまったのか、ノエルが瞼をほんの少し動かしたのを見て、慌てて手を引いた。命令して無理に取らせているような睡眠を、アダン本人が邪魔することがあってはいけない。名残惜しい気持ちをなんとか押し殺して、最後に一度だけその小さな額を優しく指先で撫でると、アダンは音を立てないように番の眠る部屋を出た。見張り番と少しだけ言葉を交わし、すぐ隣の己の寝室へ足を運びながら、少し前まで頑なにアダンも食事も拒絶し、衰弱していった小さな体を思い返す。ノエルが少しずつ弱っていくたびに、アダンの心臓も共に削られているようだった。毎日恐ろしくてたまらなくて、あの時自分はよく正気を保てていたものだと思う。このままノエルが、なんて思考が掠めるたびにおかしな呻き声が喉をついて、手が震えて仕方がなかった。それにだけは縋らないと最初に決めておきながら、獣人の王としての命令という最終手段があると毎日自分に言い聞かせていなければきっと、己は──────


「……ダン様、アダン様、」


「っ、ああ、……すまない」


気遣わしげにかけられた声に、思考の淵から引き上げられてはっと顔を上げた。己の寝室に寝酒を運んできてくれたらしいジスランは、躊躇いがちにアダンが腰掛ける寝台の横のサイドテーブルにそれを置いた。元々寝る前に酒を入れるような性質ではなかったけれど、ここ最近では習慣となってしまっている。一分一秒でも、いつ自分から逃げ出してもおかしくない番と離れていると思うと寝つけそうになかったから。同じ部屋で眠ると、アダンのそばでは意地でも眠ろうとしないノエルに負担がかかる。何とか残った理性で番を思いやる選択をして、それでもせめてと真隣の部屋で生活しているというのに、不安感が消えることはなかった。……いや。ノエルと出会ってからほんの少しでも、それが消えたことはないかもしれない。


「番様は……お変わりなくお過ごしでしょうか。必要なものがあれば、いつでも私共にお申し付けください」


答えが分かっているからなのだろう、躊躇いがちに臣下の舌に乗せられた言葉に、アダンは無意識に目を伏せた。……ジスランは、誰よりも長く自分に仕えてくれている臣下で、アダンとノエルが良い関係を築くことを、きっと当事者以外ではこの世の誰よりも望んでいる。それを少しでも手伝いたいと思っているから、こう言ってくれている。ちゃんと分かっている。──────分かっているのに、他の男の口から己の番についての言葉が出ただけで、一瞬不快感が胸をつくほどには、己は追い詰められているのだ。差し出された杯を一息に煽ってから、アダンは深い深い、酒精を帯びたため息をついた。虚しい一人酒の肴に選んだのは、あり得ない空想の話だ。夢想するように語るその声は、情けないほどに掠れていた。


「……ノエルは、俺が竜だから、嫌なのかな。猫には恐ろしく感じるのかも。ノエルが望むなら、体中の鱗を剥いでもいいのに。それで一生人の姿でいたら、ノエルは俺にも自分から近付いてくれるかな。懐いて、あの可愛い声でご飯をねだってくれる?」


「、アダン様……」


「それとも、俺も猫に生まれたらよかったのかな……そうしたら、ノエルと話をすることもできる。それで仲良くなって……きっと死ぬほど頑張ってアプローチするから、ノエルも振り向いてくれるんだ。……ああでもノエルはあんなにも可愛くて美しいから、ライバルの雄が沢山いるのかな。いいや、全部八つ裂きにすればいい。そうして、ノエルにいちばんに愛されて……何をしてでも絶対に、二度と、手放さないんだ……」


分かっている。こんなものは全て、酒に浮かされた戯言だ。ノエルの心を得るのは、長い長い時を経て、狂気の果てに死を選ぼうとするほどにあの小さな黒猫を求めた、ここにいる竜人のアダンでなければいけない。そうでなければ許せない。そうでない者は己ではないから、ノエルを求めようとするなら殺してやる。八つ裂きなんて生ぬるい、生まれてきたことを後悔させてやる。……ああそうだ、でも、ノエルの方はそうじゃない。ついノエルが心を傾けているらしい前の飼い主にばかり意識が行っていたけれど、ノエルは、番として生涯を共にするのなら同じ種族である猫の方がいい?もし、いつか外から春の陽気に浮かされた雄猫の鳴き声でも聞こえてきたら。それに、万が一、万が一ノエルがあの可愛い声で、甘く鳴いて応えたりしようものなら─────────……駄目だ。狂う。今度こそ、己は本当に。


想像だけで自棄になって入れた酔いなど醒めていく心地がして、思わず呼吸の仕方を思い出すように喉元に手をやった。ありもしない空想を語ったかと思えば突如冷や汗を流し顔色を悪くした主人に、当然忠実な臣下が気が付かない訳が無い。不敬と承知の上でその背に手をやり、宥めるように体温を分けた。その手つきにもはや躊躇いがないのは、番に拒絶され不安定になったアダンの対応に慣れているからだ。


「アダン様、」


「ジスラン……この周辺に、動物一匹でも、近づけるな。特に、絶対に、雄猫は駄目だ。もしもノエルが……番として他の雄を求めるようなことがあれば、俺は……俺は、今度こそ……ッ」


背に当てた掌にすらも震えが伝わってくるほどに追い詰められた様子のアダンに、ジスランは痛ましげに眉尻を下げた。そもそも竜の血の檻に囚われていて不在であった頃ならいざ知らず、獣人の王が座すこの場所に好んで近付きたがる獣などいない。アダンの番である子猫が迷い込んでこれたのも、王が不在であったうちに深く寝入っていて王の接近に気が付かなかったことと、王の絶対的な実力から警備上の懸念が排除されていたおかげで、比較的簡単に入れるような場所に王の寝室があったからだ。ほんの数刻時間が違えば、ほんの少し条件が変われば、出会うことなど叶わなかった。それは今歪な形に見えていても、確かに番としての運命と言ってもいいのかもしれない。勿論、番以外の獣が近付けないなんてことはアダンだって理解しているはずだ。それでも、あり得ない想像に恐怖を抱くくらいに、ジスランの主人は憔悴していた。


「───────勿論。王の座すこの場所に、そのような不届き者は近付けさせません。ご心配とあらば、今からでも再度周知いたします。……ですから王よ、今はどうか、少しでもお休みになってください」


「…………」


「番様は、すぐ隣にいらっしゃいます。会いたければ、いつでもお会いすることができますから」


「………ああ、すまない、……取り乱した。……そうだ、例の件は」


ふと思い出したように顔を上げたアダンに、ジスランは首肯して返した。─────あの小さな黒猫を見た瞬間に、ジスランの胸のうちにすら浮かんだ「不吉の象徴」という言葉。建国神話として伝わる話から来る黒猫への忌避感は、長年命を懸けて探し求めていた主の番というだけでとうにジスランの心には無くなっていたけれど、民衆達にはそうもいかない。そしてその現状を、当然アダンは良しとしなかった。元々王は一切そういった迷信や伝承を真に受ける性質ではなかったのだから、それが番であるとわかったら心無い声を排除するために動くのは当然のことだ。─────いや、もしも本当に黒猫が不吉を運ぶ存在であったとしても、この王であれば喜んでその身に受けるのだろうけれど。


「……世間一般に浸透する『黒猫』への忌避を覆す準備も、勿論進めております。そもそも黒猫が不吉を運ぶなんていう話がただの迷信であることは、一般的にも理解している者が多いでしょう。滞りなく行えるかと」


応える声はなかったが、それでも微かに瞳に安堵を浮かべ頷きを見せると、アダンはゆっくりとその身を横たえた。どうやったってその意識は隣の部屋に向いているようだったが、やがてそれが浅いながらも規則的な呼吸に変わるのを見届けると、ジスランは空になった杯を手早く片付け、音一つ立てることなく部屋を辞した。


最も忠実な臣下であるジスランが、主人を支えなくてはならない。動揺を見せてはいけない。そうと分かっていても、焦りを覚えているのはジスランだって同じだった。アダンの番─────種族としてただの猫であるはずの相手が、こうも頑ななのはジスランにとっても予想外のことだったのだ。突然慣れない環境に放り込まれたのだから、威嚇するのも暴れるのも懐かないのも、アダンには可哀想な話ではあるもののある程度は理解できる。ただ、衰弱死寸前まで食事を拒んだり、アダンがいる前で意地でも眠ろうとしないと聞いて、漸くジスランもおかしいと思った。飼い猫であれ野生であれ、その本能は生きること、ただそれだけに向いているはずなのに、それすらも脅かすような行動を自分でとることなどあり得るのだろうか──────竜王アダンの唯一の番が、本当にただの黒猫であることなど、あるのだろうか。そうして己の番は賢いと繰り返し言うアダンの言葉が、ただの番贔屓ではないと察した頃にはもう、アダンと番様の間には大きな溝ができてしまっていた。取りなすことができなかったのは、当然臣下としての責だ。


最近は暦の巡りの影響か、収穫も良く国が豊かになりつつあるというのに、その国の最も貴いお方だけがなぜこうも上手くいかないのか。思わず重いため息を吐きそうになり、ジスランは慌ててそれを飲み込んだ。後悔しても先を憂いても、いいことなどないと長い生の中で知っている。まずは手の中にあるものを見つめて、次に己が今できることを。少なくとも、あの日絶えるはずだった王の命は今繋がれているのだから、これ以上を一息に求めるのは性急というものだ。ひとまず、王に言ったことを嘘にするわけにはいかない。今からでも門を見張る者により動物を警戒するよう伝えに行くことに決めて、ジスランは音も立てず足早に磨き抜かれた廊下を進んでいった。





──────夢を見る。それは、王宮に戻ってきてから毎夜のことだった。自らを繋いだあの檻の中では、夢も現も曖昧で、そしてその全てが永遠に続く地獄のようだったことをぼんやりと思い返す。何せ番の色すら知らなかったから、とうとう番を見つけたなんてあまりに幸福な夢に浸ることすらもできなかったのだ。………けれど、今は違う。色どころか、その姿を、声を、瞳を、もうアダンは知っている。この世の何よりも美しく愛らしい、語る言葉などどこを探しても見つからないほどに愛しい番は、起きていようと眠っていようと、アダンの心の全てを占めていた。見る夢は、日によって様々。ノエルもアダンのことを愛してくれて、種族が違っていても番として認めていると全身で示してくれる、あんまり都合が良くて恐ろしいほどに幸福な夢を見ることもあれば、現実よりも手酷く拒絶されて、血反吐を吐く思いをすることだってある。──────けれど、その全てが。ノエルという番に出会わなければ見ることができない夢の全てが、アダンは眩暈がするほどに愛おしかった。


眠っている間に、己を厭う番がどこかへ行ってしまうんじゃないかと恐ろしい。けれど、眠っている間にも会える君が、待ち遠しくてたまらない。水面に顔を出しては沈むような微睡みの中で、今日の夢では受け入れてもらえるのか、それとも現実と同じように拒絶されるのだろうかと微かに残った思考で考えていた、その時だった。



『─────……に、にーーーー!?』



夢か現か、分からないほどに微かに響いた声。それでも耳に届いた瞬間、微睡みに落ちようとしていた意識は瞬時に浮き上がった。がばりと音を立てるほどに勢いよく布団を剥ぎ、転がるようにして寝台から降りる。その全ての動作が、意識を介在せず反射的に行われていた。敷かれたカーペットに足の裏をつけてから漸く、先ほどの声を脳が反芻する。普段よりも少し高い、まるで悲鳴のような、愛おしい番の声。聞き間違いかもしれない。微睡みの中で、夢と現を混同してしまった可能性だってある。けれど、確かめないという選択肢が、己の中にあるわけがなかった。例え、漸くアダンから離れたことで安寧の眠りについている番を起こすことになってしまったとしても。ノエルに対する万が一は、全て消しておかなければ安心できない。ただの一つも、残してはおけない。


躊躇いなく踏み出した足で廊下へと飛び出ると、ノエルの部屋の前に常につけている複数人の臣下が目を剥いてこちらを見つめていた。突然の物音に驚いたのか、臨戦体制を咄嗟に取ったものまでいる。その獣人は相手がこの国の王その人であったことに気がつくと目を見開き、すぐさま剣を収めたが、アダンはそんなものに構っている暇はなかった。狼狽えたように話しかけられるのさえも、今はどうにも煩わしい。


「陛下、いかがなさいましたか」


「─────入れろ」


「はっ」


竜王としての命令を下すまでもない。この王宮において、王の言葉に逆らう者など存在しなかった。何より、アダンの番は王の命そのもの。仮にもその見張りを任されている、この国でも選りすぐりの教養も腕も随一の精鋭達が、否やを唱えるはずもない。それに普段アダンは、臣下に対しても決して横柄な態度を取ったりはしない。それがこの一言ということは、それくらいに可及の用件だということだ。そう理解してからその道を開けるまでの動作は迅速なものだった。重厚な扉には取手はなく、代わりに浮かぶのは竜王アダンを示す権威の紋章。手をかざして魔力を流し込めば、重い音を立てて扉が開き始める。番の部屋に繋がる扉が頑強なのは当然のことだが、心が逸って仕方がない今だけはその重さが煩わしかった。扉の先にはほんの短い廊下と、その先に今度こそ番が眠る部屋に繋がる扉がある。半ばこじ開けるようにして重い扉を抜けて閉めると、内側からまた念入りに魔力でもって鍵を掛けた。アダン以外の誰も開けることができないこの扉が、侵入者を防ぐためであるよりも、小さく無力な黒猫を逃さないためだと言って一体誰が信じるだろうか。けれど心が逸って仕方がないこの瞬間ですらも、鍵を掛けないなんてことはできなかった。


今度こそと焦れた手つきで番の座す部屋の鍵を開け、ノブに手を掛ける。ノエルが穏やかな顔で寝入っていたことを知っているせいか、焦っているのにその手つきは嫌になるくらい慎重だった。極力音を立てないように。何もなければそれでいい、また可愛いノエルの顔を見て夜を明かせばいいだけだ。それを心から願っていたのは、胸騒ぎがしていたからかもしれない。あの時とは状況が全く違うはずなのに、開いていく扉に全ての始まりの日を思う。死に場所になるはずだったあの場所で、アダンの命の火種が、酷く平和な顔をして寝入っていたあの日を。あの日もこんな風に、慎重なくせに性急な手つきで扉を開けて─────……


けれど、その先の光景は。あの日のようにアダンが望んだ、幸福なものではなかった。



「─────……ノエル?」



愛しい番の眠りを妨げないためにほとんど落とされた照明の中、どうやったってまず目が吸い寄せられるのは、この世の何よりも愛らしい小さな姿。こちらに気が付いたそのルビーのような瞳が驚いたように見開かれて、艶やかな濡羽色の毛が逆立った。その姿も苦しいほどに愛らしい、アダンの番である黒猫。言葉など浮かばないほど愛しい竜王の掌中の珠に、アダンの命、生そのものに─────……誰かの手が、伸ばされている。


その光景を目にした瞬間、背筋に怖気が走った。瞳孔がぐわりと開いて、ちらちらと光が視界の端で拡散する。反射的に手のひらに魔力を込め、その腕を千々に吹き飛ばそうとして、この距離ではノエルが巻き込まれてしまうかもしれないと気がつくまでに一秒もかからなかった。その間に、吐き気がするほどに思考が渦巻いていく。その場に居たのは線の細い人間の女のようだったが、そんなことは全てどうでもよかった。ノエルに。ノエルの近くに、アダン以外の人間がいる。呼吸をしている。入ることを許していない、アダンとノエルだけのこの部屋で。殺してやる。いやそんなものでは生ぬるい。生まれてきた証全てをこの世から抹消してやる。親類縁者、全てに至るまで竜としての全てで呪い尽くしてやる。


「はあ……だから言ったじゃない、見つかったら色々面倒くさいって」


闖入者である女から発せられた、呆れたような声が耳に届くのと、アダンのどこか、切れてはいけない琴線が切れたのは同時だった。常に、何より愛しい番を怯えさせてしまわないように、竜としての矜持を捨てないように、張っていたはずのどこかの線。それは多分、理性だとか、倫理だとか、そういうものを繋ぎ止めているものだった。体にゆっくりと鱗が浮かんでいく。正気が半ば擦り切れていた時とは違い、これは身体が己の意志に従った結果だった。


「─────……ノエルから、離れろ」


相手は人間だ、獣人の王としての命令が意味を成さないのは分かっている。それでも喉から、地を鳴らす竜の唸り声のような音が零れ落ちた。ノエルが尾を膨らませ、全身の毛を逆立てるのが見えたけれど、番を威圧してはいけないなんて考えはとうにどこかに行ってしまっていた。そうだ、ノエルが危ない。あの女、ノエルに手を伸ばしていた。連れ去る気だ、アダンにとっての全てを。だから、だから助けないと─────……嗚呼、でも。ノエルは、何故こちらに来てくれないのだろう。ノエルがその女から離れてくれたのなら、次の瞬間には粉々にしてやるのに。灰すらも、この世から消し去ってやるのに。ノエルは目を見開いたままこちらを見つめているけれど、その女のそばから動こうとはしなかった。アダンが威圧してしまったから、驚いて動けないのかもしれない。違うのに、ノエルに怒っているわけがないのに。だからこちらへおいでと、できる限り優しく王としての命令を含ませて口を開こうとしたのは、未だ呆れたような顔をした女に遮られた。


「離れろっていうけれど、先にこの子を連れ去ったのはそっちでしょう?私は迎えに来ただけよ」


「─────……は、」


言葉が意味を持って頭へと入る前に、掠れた吐息のようなものが漏れた。王宮に無断で立ち入るような相手の言うことなど何一つ聞く必要はないと分かっているのに、早々思考を失えやしない脳が勝手にそんなことが可能な人間を割り出していく。竜王としての力も、獣人のよく効く五感も全てすり抜けてこの部屋へとたどり着くなんて芸当ができるのは─────……脳裏に浮かんだ考えを裏付けるように、女は派手な色をした髪を煩わしげに払って腰に手を当てた。


「私は魔女。……この子は首輪を着けたあの日から、私の使い魔であり眷属よ。魔女の使い魔に関しては、不可侵の掟があるはず。魔女の許可なく使い魔を連れ去った場合、どこであろうと魔女が連れ戻しに行っても罪にはならない。この黒猫は魔女の集合知の一つなのよ。先に手を出したのはそっちなんだから、文句は言わせないわ」


─────ざ、と、身体から血の気が引いていく。魔女の、使い魔?魔女自体がそもそも謎の多い存在ではあるけれど、その使い魔の話は耳にしたことがあった。魔女が己の魔力と、相手の名を持って縛る隷属契約。その間の主従関係は重く深く─────……時には眷属の命さえも思い通りに操ることができると言う。何をしようと外れなかった、ノエルの胸元に輝く首輪。それが薄明かりの中でも、アダンが贈ったレースの間で存在を主張するように光を反射していた。魔女の使い魔はその姿こそただの獣だが、人間と変わらないほどの知性と感情を備えていると言う。賢く気高く、何を差し出してもアダンと居ることを拒んだ愛しい番の姿が脳裏を過ぎった。動悸が先ほどとは比にならないほどに早くなっていき、背筋を冷たい汗が幾重にも連なり伝っていく。


……ノエルの命が。アダンの全てが。隷属契約によって、他人の手に委ねられている?


気がつきたくないのにそう理解した瞬間、奈落に落ちていくような感覚を覚えた。ただ排除すればいいと思った。ノエルに触れようとするその薄汚い手を、跡形も残らないほどに。けれど、この女とノエルの間に結ばれた契約の詳細も分からないのにそんなことをすれば─────……最悪、主従として魔力で結ばれたノエルにまで累が及ぶ。そんなこと、できるはずがなかった。ましてや今この瞬間にでも、ノエルの命を盾に取られたりしたら─────……想像だけでも狂気が足元を這い上がり、視界がぶれて歪んでいく。やっとのことで絞り出したその声は、酷く掠れていた。


「……何が、」


「?」


「……何が、望みだ。富か、名声か、……いや、何でもいい。何だってくれてやる、俺の持つもの全て。─────……そうだ、使い魔だって、新しく用意する。どんな希少種だって連れてくると約束、するから……だから。だから、……頼む。ノエルを、解放、してくれ」


仮にもこの国の王である存在として、交渉の際に「何でも差し出す」などと口にすることがどれほどに愚かなことか、分からないはずがない。それでも、そう口にせずにはいられなかった。竜の王は、武において絶対的な力を持っている。魔術にも一定の耐性があり、少なくともたかが魔女一人、どのような手段を用いてこようと相手にもならない。─────……でも、ノエルはそうじゃない。柔くて、ちいさくて、可愛くて、たかが人間の女一人にも簡単に傷つけられてしまう、何よりも護るべき存在だ。他者と他者の間で強固に結ばれた契約となれば、竜王ですら干渉することは難しい。例え何を差し出すことになろうとも、この魔女の意思で契約を手放させなければならなかった。祈るような、血を吐くような震えた声に─────……しかし女はため息一つで応えた。


「この子以上なんてそう居るものじゃないもの、お断りだわ。……それに貴方、何か勘違いしてない?解放なんて言うけれど─────この契約はこの子の意思でもあるのよ」


「……は、」


獣人の王の差し出す「何でも」を断られた、その事よりも。魔女の言葉の意味を理解できなくて、したくなくて、声になり損ねたような息が漏れた。一体何をと、笑い飛ばしてしまいたい。己の持つ全ての能力を制限され、思うがままに言われたことを聞き、時には命さえも気まぐれに奪われる。そんな一方的で何の利もない関係を、誰が望むというのだろう。けれどそう切り捨ててしまえないのは、この世界の者であれば誰でも知っている魔女の特性。それから─────……


「信じられないのなら確認してみなさい。私は今この子の行動も意思も、契約で何も縛ったりはしていないわよ。『魔女は嘘を吐いたその瞬間、全ての魔力を失う』。勿論知っているでしょう?」


その声に操られるように、女の足元、そのルビーのような瞳を揺らしている愛しい番に目を向ける。─────……ノエル、ノエル、俺の唯一。気が狂いそうな時を経て、最後の最後、目の前に現れてくれた、俺にとっての世界であり全て。その宝石のような瞳が、喉から出る高い鳴き声が、美しい毛並みが、ノエルを構成する何もかもが、愛おしくて、狂おしいほどに欲しくて。─────……アダンの方を見てほしいと、甘えてほしいと、頼ってほしいと……どんなに遠い未来でも構わないから─────愛して、ほしいと。張り裂けそうに願った己の番。


「……ノエル、」


泣き縋るような、酷い声だった。……魔女の言うことを、ありえないと笑い飛ばしてしまえないのは。何を馬鹿なことをと切り捨ててしまえないのは、魔女の特性のせいだけではなくて─────……何よりも愛おしいアダンの番が、魔女の傍から少しも離れようとはしなかったから。


歪んでいく視界の中、ノエルがただ一度、ゆっくりと瞬きをする。そのルビーのような瞳がアダンを射抜いていることだけが、酷く鮮明だった。

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