28.受け継がれるもの(終)
──結局村の獣人達よりもよほど保たなかったな、と思い返しながら、アダンは控えめに、修復された王宮の一室の扉を軽く叩いた。
もう夜も遅い、眠っているようなら出直すつもりだった。そうは言っても、アダンの部屋はノエルの部屋のすぐ隣だけれど。
ノエルが獣人の姿になって戻って来た当初、アダンは一度番を喪った恐怖が、片時もノエルから離れられないほどのトラウマになっていた。
常に視界に入れておかなければ、できることならその手を取っていなければ安心できないほど、それは根深いもので。
ノエルはそれを自分のせいだと考えている節があり、息苦しいであろうそれも躊躇いなく受け入れてくれたけれど、いくらなんでも婚儀がまだなのに寝室を一緒にするわけにはいかない。
もうノエルは丸まって眠る子猫ではないのだから。
その果ての苦肉の策として、お互いの気配がすぐ分かるような隣合わせの部屋で眠ることになった。
それはノエルからの深い深い愛情を受け続け、逆鱗の儀も済ませたことで幾分トラウマが改善された今になっても、アダンの希望でそのままになっている。
反応がなければすぐ引き返すつもりだったアダンの控えめなお伺いは、けれど室内から聞こえるぱたぱたと走り寄る足音によって応えられた。
彼女は両親のお墓を移したいという話になり、さらにアダンが直接出向くという流れになったとき随分反対したうえ、アダンがごねたことにより本決まりした後も不安そうにしていたから、起きて待っていてくれたのだろう。
「あ、アダン様っ、わ、」
「お、っと」
勢いづいたためか、扉を開けた瞬間に躓いて飛び込んできたノエルを何なく抱きとめながら、アダンはその体温とふわりと広がった番の甘い香りに鼓動が跳ねるのを感じた。
とはいえ、浮かれた思考よりも彼女の安否の方がずっと大事だ。
肩を優しく支えて大事ないか確認しようとしたアダンは、その頬が隠しようもないほど桃色に染まっているのを見て、性懲りも無く高鳴った心臓に思わず口を噤んだ。
「す、すいません。ありがとうございます」
「……っいや。大丈夫? ノエル嬢」
「は、はい。あの、アダン様……おかえりなさい」
尻尾をぴんと立てながら、黒く柔らかい耳を揺らしながら。
ふわり、と控えめに微笑んだ彼女があまりに可憐で、愛おしくて、アダンはそのままもう一度己の腕の中に閉じ込めたい衝動に駆られたけれど、何とかそれを堪えた。
二人にはまだまだ沢山時間があって、すれ違っていた期間だってあまりに長い。
だから、ゆっくり、大切に仲を深めていきたいと、アダンは健気に考えていた。
……ノエルがあまりに愛おしくて、それが揺らぐことは多々あるけれど。
そんな内心を悟らせることなく、アダンはふわりと柔らかな笑みを返した。
「ただいま、ノエル嬢。待っていてくれたの?」
「はい。……あの……」
ノエルが口籠った途端に、その黒い耳と尻尾が力をなくし、どう切り出したものかとルビーの瞳でアダンのことを見上げてくる。
愛しい番の言いたいことを悟り、アダンは宥めるように優しく声を紡いだ。
「……確認したけれど、君の予想通り、残念ながらノエル嬢とご両親が住んでいた家は取り壊されてしまっていた。でも、君のご両親のお墓は問題なく移せそうだよ。……少し先になってしまうけれど、通いやすくて、陽のよく当たる場所にしよう。そうしたら、二人で改めて報告に行きたいな。──ああそうだ、勿論君との約束も、破ったりしていないから」
アダンの言葉を受けて、ノエルは見る間に安堵したようにそのルビーの瞳を緩ませた。
……勿論、命を落としたり血を流したほうがマシだったと思う目に遭わせてやったことを、わざわざ口に出したりはしない。
不吉な存在だと忌避された生い立ちと、真っ当なご両親の深い愛情の板挟みで育てられたノエルは、本当に、時々危うささえ感じるほどに優しいから。
だから──優しくないことは全部、アダンが引き受ければいいだけの話だ。
いつまでも廊下と部屋の間で立ち話をしているわけにもいかない、身体が冷えてしまうし、まだ眠らないのなら談話室に誘おうとアダンが考えたところで──扉の隙間から。
部屋の真ん中に置かれた木製の机の上に見慣れないものを見つけて、アダンは思わず首を傾げた。
よくある形に、目に優しい緑。けれど、ノエルの部屋にそれだけで置かれているのは、どこか違和感のあるもの。
「──葉っぱ?」
その声に、思わずと言った様子で。あからさまに肩を跳ねさせ、それからゆっくりと目を逸らしたノエルに、アダンはす、と目を細めた。
その視線に気がついたのかどんどん耳も尻尾も忙しない動きになっているけれど、その主人は固く口を噤んでいる。
──アダンはわざとらしいほどに美しく、ゆっくりと、その口角を上げた。残念ながらアダンは、番の隠し事を許せるほどに寛大な男ではなかった。
「……ノエル嬢。俺を深夜にレディの部屋に押し入るような野蛮人にしたくないのなら、君の手で、あれを見せてほしいな」
「あ……あれは、その……」
「ね。ノエル嬢……お願いだ」
冷や汗を流して視線をあらぬ方向へと流していたノエルは、アダンの笑顔と圧にとうとう観念したのか肩を落とすと、誰とも知れずごめんなさいと呟いてから、重い足取りで部屋の中へと入るとそれを手に取った。
その葉を持ってアダンの元へと戻ってきたノエルは、可哀想になるほど萎れていて。
それが何であれ無条件で許してしまいそうになったアダンは、どうにかそれを堪えてノエルの手元を覗き込んだ。
「……逆鱗の儀の日に、すぐそばの湖に浮かんでいたんです。それで、その……」
形も色も大きさも、よく見る普通の一枚の葉。けれどノエルがそれをわざわざ拾い上げて持って帰ってきた理由は一目瞭然だった。
そこに捺された──紫のインクの、肉球の型。見れば分かる、これは中型の、猫だ。
そして、そのインクの色から連想される猫などこの世に一匹しかいない。途端眉間に皺を寄せたアダンに悟られたことがわかったのだろう。
ノエルは諦めて後ろめたそうに呟いた。
「……彼女は、水面の魔女だと言っていたから。その……彼女なりのお祝い、なのかなって……勝手に思って……」
ちらり、と上目にアダンの様子を伺うノエルは愛らしいけれど、それとこれとは話が別だ。
あの派手な色の猫め、アダンが魔女に手を出さない条件に「不用意に視界に入らなければ」とつけた意図に気がついていない訳ではないだろうに。
エメラルドの瞳に剣呑な光を宿してアダンがその葉に手を伸ばすと、ノエルは慌ててそれを胸に抱き込んで守るように隠した。
黒い耳も尻尾もへたらせて、ルビーの瞳を潤ませて。
「──黙っていてごめんなさい、アダン様。でもおねがい、とりあげないで……」
上目で見つめられながら震える声でそう言われてしまっては──アダンの勝ち目なんてこの世のどこを探したって見つかるわけがなく。
地の果てまで届きそうなため息を吐いた後に、アダンは降参を示すようにして両腕を上げた。
「……分かったよ、ノエル嬢。でも、俺から見えないところに保管してくれると嬉しいな」
「! はいっ」
ぱっと花開くように笑ったノエルに、ああ敵わないな、とアダンは苦笑を浮かべた。
アダン様の気が変わってしまう前に、と慌てて部屋の引き出しにそれを仕舞い、とたとたと戻ってきたノエルを、改めて談話室に誘う。
嬉しそうな笑みを浮かべて快く了承してくれたノエルに、アダンも釣られてふわりと微笑みを浮かべた。
夜は少し冷えるけれど、厚い膝掛けがあれば──それに、傍にいるだけで勝手に体温が上がってしまうような存在が隣にいれば、それはすぐにほのかな暖かさに変わった。
柔らかなソファに向かい合って座った二人は、飲み物を片手に、ぽつぽつと穏やかに言葉を交わす。
これから長い時間を共に生きる二人だけれど、まだ今まで過ごした時間と出会ってからの時間には大きな隔たりがあって、だからこそそれを埋めるように。
何よりもアダンは、黒猫の獣人として戻ってきてくれたノエルのことを、まだまだ深く知りたいと願っていた。
焦ることはないと己に言い聞かせても、どうしたって愛しさに心が逸ってしまう。
かつて、番の持つ色だけでも知りたいと狂おしいほどに願っていたのが遠い過去のように感じた──だってもう、アダンはそんなものでは足りない。
この美しく愛しい少女の全て、何を好んで何を嫌って、何に感情を動かすのか、全てを知りたくて仕方がないのだから。
……ふと話題が途切れた時に、ノエルは瞳を伏せて、そっと切り出した。まるで、大切な秘密を打ち明けるかのように。
「実は──儀式の時に、聞こえたんです。気のせいって言われてしまえば、それまでなんですけど……両親の、祝福の声が。おめでとうって……」
「ご両親の……」
はい、と応えるノエルの声が、それでも寂しそうなものではなくて。
思い返すようにその口元に浮かぶ笑みはとても幸福そうで、嬉しそうだったから、アダンも目を細めて笑みを浮かべた。
「きっと、気のせいなんかじゃない。……ノエル嬢のご両親に祝福してもらえたのだとしたら、俺も……すごく嬉しいな」
「──あ、あの、アダン様、それ……」
「うん?」
それ、がどれを指すのか分からなくて首を傾げたアダンに、ノエルは恥ずかしそうに頬を染めて、そっと視線を逸らしながら囁いた。二人きりでなければ、聞こえないほどの小さな声で。
「の、ノエルって。また呼んで、ほしいなって……」
「え」
逆鱗の儀の時、感動やら驚きやらで、ついつい何度か黒猫の姿だった時と同じ呼び方に戻ってしまったことを、アダンは反省していた。
知らなかったとはいえ、黒猫の姿の時に働いてしまった数々の無礼の挽回のために、淑女として扱うと心に決めていたのに、と。
だからあの日以来は、特に気をつけていたのだけれど──まさか、本人から呼び捨ててほしいと請われるとは思っていなかった。
アダンの一瞬の沈黙をどう思ったのか、ノエルは尻尾を落ち着きなく動かしながら、必死になって言い募った。
「そ、その、アダン様が女性扱いしようとしてくれてるんだって、嬉しかったのも本当です! だから、嫌とかじゃなくて……ただ、その。……アダン様がノエルと呼んでくれるのが、私は好きで。黒猫の姿のときも……嬉しかったから」
だめですか、と伺うように見つめられて。
その瞳に不安の色を見て取ったアダンは、はっと我に返るととんでもないと首を振った。
番に名を呼ばれて嬉しいなどと可愛いことを言われて、喜ばない獣人などいるはずがない。
「そんなことない! 分かった、これからはそう呼ぶから……」
慌てて答えたアダンに、ほ、とノエルは表情を和ませた。けれどそれも、すぐにまた緊張に強張ってしまう。
きゅう、とその膝に揃えられた手が強く握られているのを見て、アダンは話がこれだけではなさそうなことを悟った。
アダンは己からノエルが離れていくような内容でさえなければ、嘘偽りなく望みは何でも叶えてあげたいと願っている。
それを知っているだろうにこんなにも緊張した様子を見せるということは、余程言いにくいことなのだろうか。
どんな内容であれアダンが快く受け入れることは決まっているけれど、それ相応の態度で聞かなければ、と背筋を伸ばしたアダンに、気がついているのかいないのか。
ノエルは、じわじわと顔を赤くして、視線を彷徨わせながら──まるで、自棄になったみたいに。
「それから、そのっ…………また、前みたいに……──撫でて、ほしく、てっ」
「えっ」
完全に予想していなかった方向性の話に、アダンは思わず素っ頓狂な声を上げた。
しまった、と思わず口を抑えた時にはもう遅く、すでにアダンの愛しい番は晒された範囲の肌を全て淡く染めると、顔を両手で覆ってしまっていた。
「ち、ちがうんです、こんなのはしたないって分かってるんですけどっ……猫の姿の時に慣れてしまったら、こ、こい、しくなって………しまって………ごめんなさい、やっぱりなんでも……っ」
羞恥を堪えるノエルに引き摺られてしまったみたいに、アダンもじわじわと熱が顔に集まっていく。
どくどくと、忙しなく鼓動が高まって、情けなく指先まで震えてしまいそうだった。
はしたないなんてとんでもない、むしろ自分は一体どんな徳を積んだのだろうと、天に感謝を捧げたいほどだった。
「そ、その……君さえ許してくれるのなら、是非」
ほぼ反射的に答えてしまったアダンは、前のめりになりすぎていないだろうか、気持ち悪がられないだろうかと我に返ったけれど、ノエルがそれに目を瞬き、それから目尻を淡く桃色に染めて嬉しそうに微笑んでくれたのを見たら、そんなことはどうでもよくなってしまった。
──何となく、では是非今からでも、という流れになり、座ったままではやりにくいという話になり。
……結果的に、二人とも立ち上がって真っ赤な顔で向かい合うという、不思議な構図に落ち着いたのを、窓から覗く月だけが呆れたように眺めていた。
「じゃ、じゃあその、……失礼を」
「……ど、どうぞっ」
流石にノエルを死に至らしめた口付けは勘定にいれないとしても、逆鱗の儀でもその前でも二人は幾度も手を取り合ったし、腕を回して抱き合ったことだってあるはずなのだけれど。
何なら獣人の姿でだって、一番最初にその姿を見た時に、あまり正気でなかったアダンは確かめるようにその耳に触れたはず、なのだけれど──改めて頭を撫でるというだけで何故だか異常に緊張して、二人はぎこちなくそんなおかしな会話を交わした。
覚悟を決めたノエルが頬を染めながらもきゅ、と目を瞑ったと思えば、緊張にぺたりと伏せられた黒くてふわふわの耳がさあどうぞと差し出され。
アダンはそのあまりの愛らしさに心臓が撃ち抜かれたんじゃないかと思って、思わず片手で胸を押さえた。
妙なうめき声まで漏れたけれど、幸いなことに自分の鼓動の音の方がうるさいノエルは気がついていない。
ただ健気にアダンが優しく撫でてくれるのを待っていて、まさかアダンもそうと知りながらいつまでも悶えているわけにもいかず。
悟られない程度に呼吸を整えてから、覚悟を決めてそっと、アダンはその指先を伸ばした。──……ふわ、と、あたたかくて、幸せを固めたみたいな感触がして。
一度それに触れてしまえば、胸をつく懐かしさにすら近いような感覚に、アダンは緊張など忘れてしまった。
無意識に拙く、努めて優しく撫でながら、アダンの脳裏には真っ先に、馬鹿みたいな思考が浮かんでいて。
──……ああ、当たり前だけれど。勿論知っているけれど。それでも、間違いなく、この頼りないほどの柔らかさは、温度は──
「──ノエル……」
本当に、アダンの番が見つかって、今もここにいて。喪ったと思ったけれど、違う姿になって戻ってきてくれて──……狂気に呑まれるほどに求め続けたものが、日々が。
今、確かにここにあるのだと示されれば……その名を、アダンは噛み締めるように呟かずにはいられなかった。
熱心に、何度も、そこに在ることを確かめるように優しく撫でる。どこか現実だと信じきれないような、呆然とした気持ちで。
──当のノエルは、望んだアダンの温かくて大きい掌が与えられた喜びに、ただうっとりと目を細めていた。
嬉しくて、幸せで、だから──ふと応えるように呟いた言葉は、無意識だった。
アダン様の、そこに在ることを確かめるような呼び声が、まるで初めて出会った日のようで。
眠りの中でも愛おしかった、あの時の彼の掌の温度が、何だか重なったから。
「はい。──お待たせしました、アダン様」
その、柔らかな声が。──どれほどにアダンの胸を貫いたか、きっとノエルは知らない。
瞬時に、アダンの胸に沸騰するように湧き上がった、何百年と降り積もった、ぐちゃぐちゃの感情。苦しみ、独占欲、執着、悲哀怨嗟──愛情。
それに抗えるような理性は、瞬く間に押し流され──ほとんど、衝動と本能で。
アダンはいつになく性急にノエルの腕を掴み、ルビーの瞳が見開かれる間も無くそれを引いて……──まるで翼で包む込むように、その腕の中にきつく掻き抱いた。
──……そうだ、待っていた。待っていた……狂おしいほどに、この日を、──俺は本当に、ずっと、待っていたんだ。
……それが、今。この腕の、中にある。
「あ、アダン、様っ?」
「ノエル」
「は、はい」
「ノエル、──……ノエル、ノエル……ッ」
「……はい、アダン様」
何度も、何度も。ノエルを苦しいほどに掻き抱きながら、アダンは飽きもせずに、愛しい番の名前をただ繰り返した。
そして、繰り返しノエル、と呼ばれた声が、とうとう滲み掠れていたから。ノエルは、困ったような、幸せそうな笑みを浮かべて、精一杯に腕を伸ばしてその広い背中を優しく撫でた。
──……最近、気がついたことがある。できれば、ノエルだけの秘密にしておきたいほどに、素敵な発見。
「──私は、ここにいます。いつまでも、あなたのお傍に」
「──……ッ」
竜人であり、獣人の王である、ノエルのとても美しくて、強くて格好いい番は──意外と、泣き虫なのだ。
ノエルだけが知ること、ノエルだけが見られる彼。それがこれからも、どんどん増えていく。その日々を想像するだけで、ノエルの心はどうしようもなく浮き立った。
かつて、彼のことを一番知っているのは自分だと言えるようになったら、と夢想したことをふと思い出して、思わず口元が緩む。
あの時はとても遠い夢だと思ったけれど──今は。今なら。
寄り道して遠回りしてすれ違って、でも、ようやく手を取り合うことのできた二人には──まるで、諦めなかったご褒美のように。
天からの祝福のように、これからたくさん、たくさんの二人で歩む時間と、それだけの幸福がある。
……両親が、ノエルのことを愛情をもって大切に育ててくれたから。魔女がノエルをあの村から連れ出し、知識を与えてくれたから。
ジスランさんや側近の方々が、アダン様をずっと支えてくれたから。──アダン様が、諦めずに、必死に手を伸ばしてくれたから。
どれか一つでも、欠けてはいけなかった。その全てがあったから、ノエルは今、ここにいる。
愛しい人のことを、一番に知れる場所に。それが、どれほど、どれほどに──……
今日に辿りつくまでの、長い道のりを思い返して。かつて呪われた黒猫と蔑まれた少女は、竜王のあたたかな腕の中にいる奇跡に、釣られたように滲んだ視界で──胸の底から溢れ出した幸福に、そっと目を閉じたのだった。
──歴史上類を見ないほどに長く続くことになる、偉大なる竜王アダンの治世。
彼の歴史を語るのに、彼の番であるノエルの名が登場しないことはない。
かつて闇に葬り去られた黒猫の獣人の本当の歴史を暴き、この上ないほどの豊穣を獣人の国にもたらした稀有な存在。
彼女の存在は黒猫に対する価値観を完膚なきまでに塗り替え、当時は不吉だとされていた黒猫が、幸福の象徴と言われたくさんの像が建てられるようになるまでに、そう時間はかからなかったという。
けれど、そんな大それた逸話さえ霞んでしまうほど──竜王アダンとその番ノエルの夫婦仲の良さは、後世にまで語り継がれるほどに、生涯にわたって素晴らしいものだったとか。
……そんな歴史書の一節を目で辿って、魔女の見習いはつまらなそうに頬杖をついた。
これは魔女の使命である世界の裏の集合知でも何でもない、大衆にも流通する一般書だ。
どうしてそんなものを魔女見習いの少女が読んでいるのかといえば、答えは簡単で。
──竜王アダンの治世だけ、当時の魔女の動きが秘匿されていることに気がついたから。
魔女とそれに連なるものだけが閲覧を許される文献のどこを漁っても、この時代のことだけが巧妙に隠されている。
どれだけ探しても出てこないものだから、一周回って一般向けの歴史書ならと思ったけれど。
当然ながら新しく分かったことなんて、王妃ノエルの絵画の趣味が少し変わっていたらしいということくらいだ。
当時王妃の私室で描かれたという姿絵のページを開くと、晩年の竜王と王妃、それから彼らが最も信頼し、初めて子ができた時に名付けすらも任されたという側近が並び立ち、酷く幸せそうな笑みを浮かべている。
王妃の首に輝く竜王の瞳の色を思わせる首飾りは、一緒に棺に入れられるまで肌身離さず付けていたという話は有名だ。
色合いの調和の取れたその絵画の中で、それでも一際浮いているもの──王妃の私室の背後に飾られている猫の絵が、何だか派手で中々見ない色をしていたから、きっと王妃の趣味なのだろう。
──……この当時、どこかの魔女が竜王や王妃に関することで、とんでもないやらかしでもしたのだろうか。
世界の闇、秘匿された知識を愛する魔女が歴史を隠し立てするとしたら、それくらいしか考えられない。
とはいえ、これ以上は調べても時間の無駄だ。この世には努力をすれば手に入る知識と、そうでない知識があるのだから。
それよりも早く、自分は見習いではない魔女にならなくては。
そう少女が意気込んだところで外から師匠の己を呼ぶ声が聞こえ、魔女の見習いは慌てて返事をすると立ち上がった。
今日の稽古も、あの湖畔で行うのだろうか。
……かつて偉大な魔女が編み出し、それから何代にも渡り深く研究し魔女の中で一つの流派となった、水面の魔術。
私は魔力の質が近い魔女に長く受け継がれるそれの、後継者とならなくてはいけないのだから。
陽光に、薄紫の瞳を輝かせながら、魔女の見習いは跳ねるように扉の外へ駆け出した。
その風に煽られ捲られた歴史書のページ──王妃の姿絵の背後に描かれている派手な色の猫が、それを呆れたように見守っている。
──今日も、誰かの受け継いだものが、確かに息をしていた。
これにて完結です。粗も目立つと思いますが、ここまで読んでくださって本当にありがとうございました。




