24.戒律と罰
アダン様の───────……アダン様の、うそつき……!
糾弾するような響きを帯びたそれは、完全に油断していたアダンの胸をいとも簡単に刺し貫いた。うそつき。うそつき。……番には絶対に言われたくない言葉が、何度も頭を反響する。黒猫の姿であったときのノエルのはっきりとした拒絶の態度もそれはアダンの胸を切り裂いたけれど、あの時の鳴き声は何であれ可愛らしいばかりだったから、意味が理解できる声で放たれたそれはより威力があった。
「の、ノエル……?俺は、おれは君にうそなんて……」
衝撃のあまり、黒猫の姿の時に知らなかったとはいえ女性に対して失礼な扱いをしてしまった挽回を、とつけていた敬称まで吹っ飛んでしまった。ノエルの手は離さないままに、狼狽し切った掠れた声で弁明したアダンの言葉を、ノエルはルビーのような瞳できっと睨みつけることでいとも容易く封殺した。魔女達は唐突に始まった竜王の番の反抗に口を挟むこともできない。一体あの黒猫の獣人の少女は何を考えているのか、せっかく竜王が魔女に最大の譲歩を見せてくれたのに、そしてそれはあの少女が引き出してくれたもののはずなのに、それをふいにする気か────……とはらはら見守る魔女達をよそに、いよいよ瞳を滲ませたノエルは言い募った。
「私、忘れてません。─────君が望むことなら何でもしてあげる、って。最初に会って名前を教えてくれた時、アダン様は確かに言いました!」
「……!」
はっと、アダンがエメラルドの瞳を見開いた。確かに、言った。ノエルと過ごした時間の中で、アダンが忘れられるものなど何一つない。ただ、ノエルの声ではなく自分の発言だからか、記憶の奥底に仕舞われていただけで。
─────君が望むことなら何でもしてあげる。
……君が何の心配もなく俺の傍に永遠に居られるためなら、俺はどんなことでもするよ
あの時一方通行だと思いながらもノエルに誓った言葉は、当然本心からのものだ。そしてその気持ちは今だって少しも曇ることなく、アダンの胸に確かにある。けれど、まさか魔女の助命のために引き合いに出されるとは欠片も考えていなかった。あの言葉は、決して嘘ではない。嘘ではないけれど─────あれがノエルに対する恋情と執着から来る言葉だとすれば、魔女に向ける殺意だって出所は同じであるわけで。番に嘘つき呼ばわりされるのは耐え難いけれど、でも、と葛藤するアダンに、ノエルはへにゃりと愛らしい黒い耳と尻尾を伏せて悲しげに瞳を揺らした。
「……私、不吉な黒猫にそんな風にしたいと思ってくれる人がいるなんて、って。すごく嬉しかった。あの時アダン様が王様だと知ってすごく驚いたし、不吉な存在だから傍にいちゃだめ、って自分に言い聞かせて……そんな中でも、あの日々であなたにもらった言葉は全部、私の宝物でした。─────でも、でも、アダン様にとってはそうじゃなかったんですね。忘れてしまうくらい、軽い気持ちで……」
ほろ、ととうとうそのルビーの瞳からこぼれ落ちた雫に、アダンは完全に色を失った。反射的に伸ばした指先で拭おうとして、それを拒絶するように顔を背けたノエルに頭が真っ白になる。──────────泣かせた。アダンが。この世の誰より大切な番を、悲しくて泣かせた。……涙を拭うことさえも、嫌がられた。
──────実際、ノエルが言ったことはやけっぱちのこじつけに近くて、当然ノエルだってそんなことは分かっていた。黒猫の姿の時に彼が言ったことが、今も有効だなんて本当は少しも思ってはいない。彼から貰った言葉が全てノエルの宝物であることは嘘じゃないし、思い返してはどうしようもなく幸せな気持ちを味わっていたのも本当だけれど、それはこんな風に引き合いにだして彼に何かを強制するためのものではなかった。だから涙が溢れたのは、ノエルただ一人が魔女の命の防波堤であることへの心細さと、彼から貰った宝物をこんな風に振りかざし、当て擦る形になってしまった悲しみで感情が昂ったからだった。それでもそんな繊細な部分まで読み取れるはずもないアダンは、真っ青な顔で必死になって弁解した。
「ち、違うよノエル、忘れてなんか……嘘なんかじゃない!」
「……じゃあ、あの魔女さんを助けてくれますか?」
「そ、……それ、は……っ」
ぎり、と奥歯を噛み締めて、脂汗まで浮かべながらアダンは涙を浮かべる番を見つめて葛藤した。もうずっと剥き出しになったままの竜の本能が、己の番に手を出した身の程知らずを食い千切れ、死よりも辛い目に合わせてやれ、と唸っている。それはもう、アダン本人ですら制御するのに苦労するほどに。けれど同じ程に、漸く手に入れた愛しい番に願われたことを果たせ、彼女を失望させる気か、という声も反響して、アダンは板挟みに険しい表情で黙り込むことしかできない。けれど、ノエルはノエルで必死だった。ノエルは少なくとも、あの魔女に情と恩義を感じている。それをこの世の誰より愛しいアダン様が酷い目に合わせる姿なんて、絶対に見たくないに決まっていた。そんなことになったらこの先、彼の隣を歩む幸福を素直に受け止めることなんてできなくなる。魔女本人がいいと言おうと、それが妥当な処罰だろうとなんだろうと、ノエルは自分のために、アダン様と歩む未来のために、ここで彼を止めないといけなかった。でも、さっきの言葉以上に彼を引き止められるものなんて最早思い浮かばない。──────もう、ノエルは完全に自棄になってぐるぐると目を回していた。ここまで来ると自分が何を口にしているかさえ分かっていなくて、ただアダン様を止めなくてはと、ただそれしか頭になくて。
「あ、アダン様は……っ私のお願いよりも、魔女さんを罰することの方が大事なんですね?魔女さんのことの方が、アダン様にとって重要なんだ……!魔女さんの方がスタイルが良くて美人だからって……ひ、酷い!あんなに愛してるって言ってくれたのに……!!」
「は?な、何を言って、そんなわけ……!」
アダンにとって魔女は最早そこで息をしているだけで殺意を誘発する存在だというのに、ノエルより重要だなんて天地が何億回ひっくり返ったってあり得るわけがない。そもそも番しか愛せない竜人にとって美醜など瑣末な問題だけれど、番贔屓を除いて客観的に見たとしても、ノエルはこの場の誰にも劣らないほどに美しい容姿をしているだろうに一体何を。
「じゃあ……じゃあ、アダン様がそのつもりならっ……わ、私だってっ、……えっと……そうだ、他の男のひとを優先しますから!!」
「───────は?」
その瞬間、魔女達は思わず息を止めてから天を仰ぎ、アダンはこれまでで一番低い唸るような声を出した。普段であればノエルの尻尾が膨らんで毛が逆立ってしまうほどの威圧に満ちたそれに、けれど今目を回して最早正気ではないノエルは気がつかない。
「他の男のひとに、け、毛繕いだってするし、擦り寄っておやつだってねだりますからね……っアダン様はそれでいいんですね!?」
最早言っていることが支離滅裂だったし、その上ノエルの甘える基準が完全に猫の姿の頃のものに寄ってしまっているけれど、同じように瞬時に正気が削り取られたアダンには関係なかった。──────いいわけがない。一応、アダンにはあの紫目の魔女が生物学上女であり、ノエルとは同性だという分別がついている。その上で、アダンは嫉妬と憎悪にあれほど長い期間狂っていたのだ。それが、あの日アダンの正気が削り取られ結果王宮が壊滅したようなことを、他の雄に?……ノエルが?想像の片鱗だけでも、漸く収まっていた竜の鱗が肌にぽつぽつと浮かびあがり、魔女達は戦慄した。あれほどの血を流してもとっくに平常を取り戻しているような存在が、今度はこの世の自分以外の男全てを滅ぼすと言い出すんじゃないかと馬鹿な考えまで浮かぶほどには、その形相は恐ろしいものだったから。
「ノエル─────そんな相手が、いるの?……俺以外に?」
「い、いなくたって……作ります!」
ノエルは閉鎖的な環境で育った上、外に出て早々にアダンという唯一無二の番に出会ったのだから当然そんなものいるわけがない。ノエルに泥を投げた村の獣人達は除外するとして、ノエルの中の男性なんてアダン様、父親、そしてまだまともに会話もできていないジスランさんの三択しかない。そもそもアダン様以外の男性とどうこうなんて想像するだけで怖気が走るので、ノエルの発言は完全にあとに引けなくなったが故の虚言だったけれど、今更に引っ込めるわけにもいかなかった。
「だ、だから……アダン様が私のお願いより魔女さんを優先するなら、そんなの、ぐす、う、うわきです!私だって、おんなじことしちゃうんですからね……!!アダン様のばかぁ!」
混乱にみーみー泣きながら、ノエルは酷く拙い言葉でみっともなくアダンに詰め寄った。本人に自覚はなかったけれど、ここ最近ノエルの心はずっと張り詰めていて、それが漸くアダン様に想いを伝えらえれて、無事に戻ってきてくれたと思えば今度は恩義ある魔女の命の危機ときて、いよいよ精神的に限界を迎えようとしていた。そうなれば、誰かに荷を下ろしたくなるのは当然のことで、そしてその相手は目の前にいる番に他ならない。要は、ノエルはアダンに、無意識ながら今初めてまともに甘えていた。─────わたしが、魔女さんを助けてほしいって言ってるのに。また同じことが起きたらって、そんなのアダン様が守ってくれたらいいんだ。なんでも叶えてあげるっていったくせに、うそつき。わたしのお願いより、魔女さんを優先するんだ。ひどい、ひどい。そんなのやだ。アダン様のばか。わたしのこと、あいしてるっていってくれたくせに。
ひんひん泣きながら途切れ途切れにそう訴えるノエルの声に、アダンは不思議と執着と独占欲に昂っていた精神がゆっくりと落ち着いていくのを感じていた。正直他の男の話を出されたせいで未だに心が波立っているけれど、それよりもそのルビーのような瞳に映るアダンへの甘えと、そして許容してもらえるかどうかという不安に気がついて、愛しさに心が射抜かれてしまったから。何度でも指先でその涙を拭いながら、アダンは優しく、取ったままのノエルの小さな手の甲を優しく親指で撫でた。
「─────……うん、ごめんね。分かったよ、ノエル嬢。唯一の愛しい番に不貞だと思われてはたまらないし……君が他の男に近付くことなんて、もっと許せるわけがない。可愛い番のお願いだ、過去の約束を反故にするのも良くないことだしね」
「……!じゃあ……」
「……今後不用意に俺の視界に入らない限りは、そこの紫目の魔女に、手を出すことはしない。改めて、君と竜王としてのこの名に誓おう。……ただ、魔女の間にある禁忌を破ったことへの罰には、俺は干渉できないけれど」
どうしても苦々しい声色になってしまうけれど、それでもアダンは確かに苦笑を浮かべつつノエルに約束をした。結局どうやったって、番が涙ながらに願ったことを叶えないなんて、竜人にできるわけがないのだ。ノエルの花が咲いたような笑顔を間近で見て、どうやったって満たされてしまうアダンは心の中でそっと嘆息した。ノエルはただ喜色満面だったけれど、当の薄紫の瞳の魔女と、他の魔女達は起こったことがとても信じられなくて呆然とするしかなかった。あんな訳の分からない子供の駄々のようなもので、あの黒猫の獣人の少女は全ての魔女の命を救ってしまったのだから。どうにかお世話になった魔女の助命に成功して喜んでいたノエルは、けれど、とふと思い至って不安そうに振り返って魔女達を見遣った。
「……魔女の禁忌を破った罰というのは、どんなものなんでしょう。命を奪うことはないんですよね……?」
唐突に竜王の番に声を掛けられた魔女達は肩を揺らし、誰が答えるか目で会話─────否、押し付けあった。けれど当然、やりたがる者などいないわけで。かといって竜王の番を無視するわけにもいかず、冷や汗を掻きながら焦り始めた魔女達の中で、一つ諦めたように息を吐いたのは例の薄紫の瞳の魔女だった。
「……影響の大きさを鑑みて、他の魔女達で決めるのよ。魔女でないものが、ここに干渉することはできないわ。まぁ、死ぬことはないわよ」
─────魔女の治療の魔術により死ぬこともできないまま生皮を剥がされ続けるか、新しい魔術や新薬の最初の実験台になるか。それともどこかを犬の餌にでもされるかもしれない。順当にいけばこれらが何百年か続くくらいだろうかと魔女はあたりを付けていたけれど、わざわざ口にすることはしなかった。魔女同士に遠慮なんて存在しない、それこそ竜王の手で首を落とされた方がマシだったと思う目に遭うだろうけれど─────この黒猫が落ち込むなり悲しむなりしようものなら、また竜王の機嫌を損ねて面倒なことになるだろうから。そう思って口を噤んだ魔女に、けれどノエルは言外の何かを悟ったのか、そのルビーの瞳を揺らして他の魔女を見回した。
「─────分かりました。それなら今ここで決めて、教えてください。この魔女さんに与えられる罰がなんなのか─────魔女は嘘を吐いた瞬間、魔力が剥奪される。……そうですよね」
ノエルの声に、魔女達は冷や汗を流しながら凍りついた。おおむね魔女達が与える予定だった罰は、薄紫の目の魔女が想定していたものと同じ程度、巻き込まれた腹いせも含めてもう少し残忍に。そう思っていたけれど、まさか竜王の番の前で、しかも何故かあの魔女がお気に入りらしいこの少女の前で、生皮を剥がすだの犬の餌にするだの口にできるわけもない。かといって嘘もつけなければ、今少女の後ろからこちらに鋭い視線を飛ばしてくる竜王の前で生半可な罰を選べるわけもなく。普段好き勝手に人を追い詰めて遊んでいる彼女達は、今まさにその立場を実感していた。素早く、色とりどりの瞳を交わし合って目で会話をする。
──────────竜王が納得する程度には重い罰で、けれどあの黒猫獣人の少女が泣かないような。そんな罰、本当にこの世に─────────……
「「「「「「……あ」」」」」」
思い至った魔女達は、揃いも揃って呆けた声を上げた。悟って思わず舌を打ちそうになった当事者である魔女と、首を傾げたノエルを置き去りに、頷き合った魔女達はこれしかないと悟り、未だにノエルの腕を取ったままこちらを静観している竜王に向き直った。
「────……では。そちらの番様が、かつてそうされたように────……こちらの魔女を、然るべき時まで隷属契約により猫にしてしまいましょう。ただし、魔女の特性である長い寿命だけは残したまま……勿論、自死により元の姿に戻ることがないように命令いたします」
「……え……」
魔女達にとっても、これは賭けに近かった。長い時を生き、魔女の名の意味を知っていた竜王であれば、この知識も持っているはずだという賭け。そしてそれは外れることなく、アダンはノエルに悟られぬよう微かに口角を上げた。死に物狂いで魔女に関しての文献を漁った日々は、どうやら無駄ではなかったらしい。魔女という存在は、自由気ままに、誰にも隷属しないことを誇りに生きている。そしてその本分は、世に出回らない秘匿された知識を収集し研究すること。この二つを奪われることは、魔女にとっては死よりも重い罰となるであろうことは、アダンには容易に想像できた。それにノエルの前での体裁としても、この提案は悪いものではない。だって彼女は、実際に猫となって日々を問題なく過ごしていたのだから。
……正直、アダンとしては嘘を吐かせて魔女としての魔力や権能そのものを奪ってしまっても良かったけれど、それでは魔女でなくなったあの女は魔女の戒律で裁かれることがなくなってしまうだろうし、ノエルの手前アダンもそれ以上手出しすることはできない。ただの人間程度のほんの短い生を苦しませるだけではアダンの気が済まないのだ。力を持ち得ながらそれを長い間封じ込められ、誰かに隷属しながら生き永らえさせる方が、余程アダンの胸が空く。──────当然、こんな醜い胸の内を愛しい番に明かしたりはしないけれど。
ノエルはしばらく目を瞬いて、それから考えるように顎に手を当てると目を伏せた。思いもしないことを言われて驚いたけれど、想像していたような血生臭いものではなくてひとまずノエルは胸を撫で下ろす。────────けれど、とノエルは顔を上げた。視線の先には眉根を寄せながらも、諦めたような顔をして口を閉ざす魔女がいる。その表情を見て、ほんの少し逡巡して─────ノエルは一つ頷いた。
「……分かりました、それが魔女の戒律に従ったものだというのなら、私には何も言う資格はありません。でも、お願いがあります。身柄までとは言いませんから───────どうか、その魔女さんの主の役目、私にくれませんか」
「──────────────……は?」
空気が抜けたような声を漏らしたのは魔女達だったか、それとも罰を下される当人か、それともアダンだったか。もしかしたら全員かもしれない。その場にいる全員の視線を一身に受けながら、ノエルの赤い瞳は依然として強い光を放っていた。隷属契約を用いれば、相手の命すらも思いのまま。かつて魔女に隷属された仕返しをしたいのかと、魔女達はすぐに頭に浮かんだけれど────ノエルのことを多少なり知っている薄紫の瞳の魔女とアダンは、そうではないとすぐに気がついた。純粋に、他の者が魔女に酷い命令をしないように、自分で手綱を握るつもりなのだ。しかし、かつて隷属させた相手に立場を逆転されることが、どれほどの屈辱なのかに思い至らないあたりがノエルらしいというか。魔女は内心で重いため息を吐き、アダンは眉根を寄せた。ノエルとあの憎き魔女の間に縁が残ることは、アダンにとっては歓迎し難い事実だ。かといって、ノエルの意思が固いのならそれを覆すことなんてアダンにはできないことは証明されたばかりであって。───────……つまり、色々と思うところがあったとしても、ノエルを止められる者はその場にはいないのだった。
「『我は尊き魔女。一切を手にする者。───────そしてその全てを手放し、この者を主人と定めよう。今ここに、隷属の証を』」
薄紫の瞳の魔女は、呪文を詠唱しながら内心で重いため息を吐いた。あの黒猫の獣人の少女は魔女ではないから、こちらからあちらに隷属する権利を譲渡するような契約を結ぶことになる。竜王の圧によってその場ですぐに儀式を決行することになったわけだけれど、あの大立ち回りで魔力もすっからかんの中、その場にいる魔女全員から再度魔力を借りたとしても、これだけ魔力を消費する魔術を発動するのは相当にきついものだった。万全な状態の優秀な魔女であればすぐにでも行えるものとはいえ、本来であれば準備に数週間はかかるような代物なのだから。それを見越しての竜王のせめてもの嫌がらせだと、目の前で心配そうに眉を下げている黒猫は分かっていないのだろうけれど。
いつかのようにつ、とその指が空中をなぞるように円を描くと、複雑な紋様が浮かび上がり、それが冷たい光を放つ。そうして魔女がその紋様の中から摘まみ上げたのは、少し紋様が違うけれど、ノエルとアダンにも見覚えのあるかつての細い金属の首輪だった。その首輪をぞんざいな手つきで黒猫の少女に手渡した魔女は、慌てたようにそれを受け取ったノエルにため息混じりに呟いた。
「───────知っているでしょうけれど。それに私の名前を刻んで、取り付けたら完了よ。他の魔女が定めた時まで、私は寿命以外ただの猫になるってわけね」
「魔女さんの、名前……」
すっかり魔女さんでノエルに馴染んでしまっていたから考えたこともなかったけれど、当然ながら「魔女」は彼女達を表す総称であって、彼女本人を示すものではない。魔女という存在にとって、名前がある程度重要な意味を持つらしいということくらいは知っているけれど、まさかこんな場面で彼女の名前を知ることがあろうとは考えてもみなかった。─────彼女の名前は、親にもらったものなのだろうか。それとも─────……ノエルの脳裏に美しい白銀の髪を持つ老婆が浮かんだところで、魔女はまるで大切なものを思い返すように薄紫の瞳を伏せ、そっとそれを口にした。
「私の名前は──────────」