16.契約と取引
「隷属契約を塗り替える方法が見つかったから、俺の番を縛る愚かな魔女はもう必要ないんだけど─────何か言い残すことはある?」
ああいや、あったとしても言えないか、とおかしそうに含み笑いをするアダン様が信じられなくて、ノエルは呆然とした。ノエルの知っているアダン様は、温かくて、優しくて、ノエルに惜しみのない愛情を注いでくれて─────あの姿は、絶対に嘘じゃなかったと、そう言える。それなのに彼がこんな凶行に走るとしたら、それは─────……
──────────……いつか、君に愛されたい
かつて、愚かなノエルが聞こえないふりをした、酷く寂しげな声が脳裏を過って、気がつけばノエルは未だ痺れたような身体を叱咤してふらりとその身を起こしていた。視線の先では、アダン様が穏やかな笑みを浮かべながら、その右腕に鱗を纏わせ始めている。脂汗を滴らせながらも、気丈にそれを薄紫の瞳で睨みつけて唇を噛み締める魔女は、けれど動くことができないのか成す術もないようだった。
「とは言っても、ノエルと契約を破棄させるまでは、一応息はあってもらわないといけないんだけど……まあ五体満足である必要もないからね。どこから行こうか。……そうだな、ノエルに触れられていたところ、順に削ぎ落としていくのも楽しそうだ」
くつくつと喉を鳴らしたアダンが、うんそうしよう、とひとりでに呟いて、完全に竜のものに変化した右腕をゆらりと持ち上げた。加減が効くといいけど、とこともなげに、いっそ楽しげに口にしながら。そうして何の躊躇もなく、気楽なほどの素振りで、アダンがその腕を振り下ろして───────……けれどそれが、魔女を引き裂くことはなかった。見開かれたエメラルドの瞳が、ルビーの瞳と交錯する。瞬時に止められたアダンの腕、その爪の先に掠めてしまいそうな距離で─────二人の間に飛び込んだノエルは今更に襲い来る身体の震えに耐えながらも、アダンのことを真っ直ぐに見据えていた。
弾かれたように腕を離し、即座に鱗を仕舞ったアダンは、ノエルを見下ろしてすっと目を細めた。アダンのノエルを見る目はいつだって暖かくて、愛しさに溢れていて─────でも今は、その瞳は深淵のような闇を映し出すばかりで、ノエルはそれが場違いに酷く悲しかった。暖かくて優しい彼が、こんな凶行に走るとしたら───────それはきっと、自分のことばかり見て考えを狭めた……彼の願いを聞かなかったことにした、あの日のノエルのせいなのだ。
「─────……ノエル、危ないからどうか離れていて。魔女の使い魔は高い知性を持つと聞いた、俺の言っていることは分かるはずだ。……そこを退かないなら俺は、君に命令しないといけなくなる」
「……にー」
アダン様にノエルの言うことが伝わらないのは分かっているけれど、ノエルはそれでも背後の魔女の様子を気遣いながらはっきりと拒絶を示した。魔女が目の前で、しかもノエルのせいでアダンに傷つけられるのを、黙って見ていられるわけがない。魔女を庇うようにして前へと座り込んだノエルに、アダンは苛立ちを隠せないような舌打ちをした。常の様子からは考えられないそれにノエルは思わず怯えたようにちいさな身体を震わせてしまうけれど、それでもその場から動くことはしない。アダンはそれに一瞬だけ酷く傷ついたような色を瞳に浮かべて、しかしそれもすぐに底知れない昏い色に攫われてしまった。
「へぇ……そんなに、その魔女が、大切?自分の安全よりも?……でもね、ノエル。そんなことはもうどうでもいいんだ。俺はもう、君に愛されることは望まない。─────だから、代わりに、俺をこの世の誰よりも嫌悪して、憎悪して─────愛以外の全てを、俺で埋め尽くして」
俺を忘れるなんて死んでも許さない、と吐き捨てるように呟いたアダン様の瞳に、憎悪と怨嗟と諦念と───────それから。燃え尽きた残骸のような、懇願を見て。……───────ノエルはその瞬間、身体の震えも自分を支配していた畏れも、何もかもを忘れて心を決めた。ノエルはずっと彼について無知で、愚かにもそれを長い間自分によしとしていて。魔女や本から竜人のことを学んだ今だって、彼のことをよく分かっているとは言えないのかもしれない。それでも、ノエルにとってアダンは間違いなく運命で繋がれた番だ。だからこそ、分かることだってある─────彼は、まだ。勝手な思い込みで彼を拒絶し、傍を飛び出したノエルの心を、欲しがってくれている。愛はいらないと、だからそれ以外をと求める彼は、それでも未だに焦げつきそうな渇望をその宝石のような瞳に宿していた。───────それなのに、そんなものいらないだなんて言わせてしまったのが苦しくて、ノエルは胸が締め付けられて仕方なかった。
アダンがノエルの愛を得ることを、本心ではまだ望んでくれているというのなら……今ノエルがするべきことはただ一つ。───────ずっと、身の内に抱えていたものを。彼に余すことなく渡したくて、それでも隠し通さなくてはと押さえつけていたものを、捧げればいいだけだ。もう、この想いを伝えてはいけない理由など、どこを探したって存在しないのだから。一歩、ノエルの頼りない前足が引き寄せられるようにアダンの方へと向かった。逆光に照らされたエメラルドの瞳は、こんな時だというのに見惚れるほどに美しくて───────じわりとノエルの胸に染み出したのは、場違いな再会の喜びだった。魔女のことが心配なのも嘘じゃない、彼に畏れを抱いているのだって。でも、どうしても抑えることができない。だってずっと、ずっと、ノエルは本当に夜毎夢に見るほど───────彼に、逢いたかったのだ。
「……にゃあ」
アダンが、ノエルにそこを退けと命令するよりも早く─────ノエルは今度こそ演技ではない甘い甘い声で、会えてうれしいと鳴いてみせた。胸のうちに溢れる想い全てを吐き出すように、ゆるりとルビーの瞳を蕩かせて、一心にアダンだけを見つめて。砂糖を煮詰めて溶かしたような声色を耳にしたアダンは、微かに目を見開いて肩を揺らした。それに構わず、ノエルはととと、と軽い足音を立てて躊躇いなくアダンの足元に近付き───────その足にすり、と頭を擦り付ける。ふわりと広がる久しぶりの番の匂いが、ノエルは馬鹿みたいに嬉しくて、夢中になってそれを繰り返した。ぐりぐりと頭を擦り付けて、尻尾を絡めて。アダン様はその間、石になったように動かない。分かっている、こんな状況でこんなことをしても、アダン様はきっとノエルが魔女のことを庇っていると思うだけで、この想いが正しく伝わることはないということくらい。それでも、ノエルは思わず瞳が滲んでしまうくらい、自分でも不思議なくらいに際限なく湧き上がってくる愛おしさに、そうせずにはいられなかった。
「……ノエル」
掠れ、震えたアダン様の声には応えることなく。無防備に、全幅の信頼を示すようにごろんとアダン様の目の前に腹を見せて転がって、爪を出さないよう気をつけながらちょいちょいと前足でアダン様の足をつついてみせる。まるで構ってほしいとでも訴えるように。アダン様は能面のように固まってしまった表情のまま、長く、長く沈黙したあと。……ノエルが焦れたように、急かすように短く鳴いてようやく、幾度も幾度も躊躇いながら、酷く震えるその手を、ゆっくりとノエルの方へと伸ばしてきた。その手にまざまざと浮かんでいる恐怖は、きっとかつて王宮で共に過ごした時間の中で、ノエルが彼を拒絶し続けたせいで残った傷なのだろう。自分でやったことなのに、ノエルはそれを上書きしてしまいたい衝動に駆られて、自分からちいさな前足を伸ばすと必死になってその指先を捕まえた。びくりと震えた指先を、構うものかと抱き締めるように引き寄せて。頼りない柔らかな毛に包まれたお腹に押し付けるようにして、されるがままのその指先に甘えるように甘噛みした。やがてその指先が、酷く怯えたような仕草で撫で始めるまで、何度でも。そうして漸く、酷く優しく動き始めた温かい掌があんまり心地よくて、ノエルはごろごろと耐えられずに喉を鳴らした。……やっぱり、アダン様の手は、どんな時であろうと一番心地よくて、この上なく優しい。離れている日々の中でもいつだって、ノエルはこの温度を忘れたことはなかった。
暫くそれを堪能してから、アダン様の手を振り払ったと思われないように、ゆっくりとノエルはその身を起こした。見上げたアダン様のエメラルドの瞳は、今にも溶け落ちてしまうんじゃないかと思うほどに揺らいでいて。昏く光がなかったはずのその色に今強く浮かんでいるのは、沈んで燻るだけになっていたはずの狂おしいほどの渇望だ。ノエルは膝をついてしゃがみ込んでいたアダン様の膝に思い切って頭を乗せるようにして、ルビーの瞳で彼を見上げると殊更に甘い、甘い声で鳴いた。
「……みー、みぃ」
かつて、この人を遠ざけるために魔女に対してした偽りの振る舞いと同じように、けれどその時よりもずっと、想いを込めて。ノエルの言葉が分からない彼にも伝わるように──────あなたのことが、だいすきなのだと。私はアダン様といられて幸せで、叶うことならずっと一緒にいたいのだと、ノエルは必死になって態度で示した。ずっとアダン様を拒絶していたノエルが急にこんな振る舞いをしたって信じてもらえないだろうことは分かっているけれど、それでも。何万分の一でもいい、伝われ、と願って、ノエルは決死の思いでアダン様の膝に飛び乗り、何度も何度もその体に擦り寄った。彼が驚いたように体を震わせても、構うことなく何度でも。
「────────────…………、」
呼吸をしているのかも危ういほど固まっていたアダン様は、どれほど経ったか分からないほどになって漸く、支えるように、添えるようにノエルの身体に震える掌を添えて、拒絶されないことを何度も、何度でも確かめて──────それからその宝石のような瞳に、一度だけ酷く、切なげな色を浮かべた。けれどそれも、伏せられてすぐに隠れてしまう。ぎり、と唇を噛み締めながら、それでもまるで壊れ物を扱うかのような手つきで、アダン様はノエルのことをそっと、そっと引き寄せる。途端に早くなったノエルの鼓動と、大きくなったアダンの鼓動が噛み合わないままに並びあった。
「──────分かったよ、ノエル。その魔女の為だとしても……君がそれを、俺に与えるというのなら。……偽りでも、構わないから……どうか────俺を……俺を愛して、ノエル……」
もう愛されることは望まないなどと言いながら、それならば憎悪をだなんて本当に欲しいものとはかけ離れたものを望みながら。それでも────────魔女の命を乞うための行動だと頭で分かっていてすら。その甘い声が、柔らかな毛並みが、ちいさな鼓動の音が─────一度向こうから与えられては、絶対に手放せないものだとアダンには分かってしまった。命令で無理矢理アダンの望む通りに動かしたのとは違う、血の通ったノエルの行動。偽物でもいい、内心でアダンを嫌悪し、憎悪を抱いているのだとしても、最早構わない。生涯、アダンのことを騙し通して─────いつか、本当に愛されているんだなんて夢を見せてくれたら、それだけで。情けないほどに簡単に、空虚に、アダンは満たされてしまうのだろう。
この上なく丁寧な手つきでちいさな黒猫を床に下ろしてからゆっくりと立ち上がると、アダンは自分を真っ直ぐに見上げ、狂おしいほどに渇望した愛情をそのルビーの瞳に映すノエルに、ちいさく、自嘲するように微笑みを返して─────それから今は鱗に覆われていないその手を、流れるように宙へとやった。そして滔々と美しい声で紡がれるのは、ノエルも、そして魔女すらも聞いたことがない─────竜王にのみ許された、古の特殊な詠唱。
「─────……『我こそが、獣を統べる者。この鱗は全てを跳ね返し、この牙は全てを噛み砕き、この爪は全てを切り裂き道を拓く。そして、この血を以って、我は平穏と繁栄を齎そう』─────……今ここに、傲慢を退き、己のものとする力を」
その指先が幾度か何かを手繰るように動くと、魔女の魔力とはまた違った色の淡い光を帯び始める。その美しい翠玉の色にノエルが息を呑むと、気がつけばその掌の中に、魔女の首を戒めているのと同じ、禍々しい色の宝石が握られていた。竜の血を用いて作ったものを喚び出したのだと気がついたノエルは、それに慄くよりも先に、アダンが流した血の量を思ってつい心配になった。竜人が頑丈なのは理解しているけれど、痛みを感じない訳ではないはずだし、何より愛しい番が血を流しているところなんて、想像だってしたくないのに。竜人の血の宝石をその手に収めて微かに息を吐いたアダンは、未だ声ひとつも上げることができない様子の─────それでも薄紫の瞳に気丈さを宿す魔女を酷く冷たく見下ろして、それから躊躇いのない仕草でその前へとしゃがみ込んだ。それに思わず心臓が竦んだノエルがとと、と音を立てて近づき伺うようにアダンを見上げると、アダンはほんの微かにその瞳を澱ませ、それでも安心させるようにノエルに微笑みかけた。
「………大丈夫、ノエルとこの魔女の間にある契約を塗り替えるだけだよ。この魔女の身柄は預からせてもらうけど、命を奪うことも……必要以上の、危害を加えることも……、しない。少なくとも、ノエルが……─────俺を『愛して』くれているうちは。………魔女と違って俺は嘘を吐いても力を失ったりはしないけれど、竜王としてのこの名と、君に誓おう」
本当は、何度切り刻んで灰にしてやったって足りない。この魔女どころか、親類縁者全てを存在しなかったことにしてやったとしても、この臓腑が焼け爛れるような憎悪が晴らされることはないのだろうと思うほどには。それでも─────この魔女の身柄を、命の沙汰を、アダンが握っているうちは。……例えそれが偽りでも、狂おしいほどに欲したノエルの愛が手に入る。それと比べれば己の憎悪も狂気も怨嗟も、吹けば飛ぶほどに軽いものだった。─────それに、少なくとも。この魔女とノエルを一度引き離したら、もう二度と会わせる気などアダンにはない。もっと言えば─────直接この魔女に危害を加えずとも、人を狂わせる方法なんていくらでもあることを、アダンはよく知っていた。そんな真意を悟ることなく、その瞳に微かに安堵を浮かべて身を引いたノエルに口元を歪めて、ノエルよりも余程アダンの言葉の含みを理解し、苦々しげな表情を浮かべる魔女に向き合った。
特に躊躇うこともなく、早く済ませてしまおうとその汗が浮かんだ額に先ほど喚び出した竜人の血で作られた宝石を押し当てると、禍々しい色をしたそれが淡い光を帯び始める。それと同時に魔女の薄紫の瞳が見開かれ、それからその身体が一度大きくのたうった。─────契約を無理やり引き剥がされるなんてことは、通常ではありえない。それが苦痛を伴うのは当然のことだった。とはいえ身体的に傷つくわけではないし、竜人程ではないにしても長い時を生きる魔女であればこの程度なんてことはないだろう。アダンの溜飲すら下がらない程度のそれを、しかしアダンの何よりも愛おしいノエルはルビーの瞳を揺らしながら酷く心配そうに見つめていて、思わず舌打ちが出そうになる。偽りだとしても、己に愛を捧げると示したくせに、と詰りたいような気になって、アダンはそっと目を伏せた。雄弁に感情を語るそのルビーの瞳すら、愛おしくて仕方がないと思う時点でアダンがノエルに敵うわけがない。
やがて光の収まった竜の血の宝石を魔女の額から離すと、漸く身体から僅かに力を抜いた魔女に一瞥もくれることなく、アダンはそれを今度はノエルへと向けた。先ほどの魔女の様子を見ていたからか、一度身体を震わせてルビーのような瞳を潤ませたノエルは、それでもやがて覚悟を決めたようにきゅっと目をきつく瞑って、微かに震えながらちいさな額を自らアダンに差し出した。その黒い耳は怯えたようにぺたりと伏せられていて、見るからに哀れを誘う。アダンは思わず口元を押さえて、その差し出されたちいさな額に口づけをしたい衝動を堪えなくてはならなかった。今のノエルであれば、魔女の命の為に拒むことはないのかもしれないけれど─────少なくともそれは、アダンの本意ではない。アダンは逆らえないノエルに好き勝手したい訳ではなくて、それが例え偽りだったとしても、ノエルの愛を受けたい、ただそれだけだった。
「……ノエル、安心して。君が苦痛を受けることはないよ。……そんなことを、俺が許すわけがない。これは竜人の血で作ったもので、普通なら君には良くないものだけれど、今回は魔術で調整をしてあるから大丈夫。……でも少しだけ、首元を見せてもらってもいいかな」
努めて優しくそう語りかけたアダンに、ノエルはぱちりとルビーの瞳を瞬かせると、おずおずと指示に従って喉元を曝け出した。─────ノエルが、アダンの言葉を信じて、言うことに従ってくれた。例え他に選択肢がなかったからだとしても……ただそれだけのことが、こんなにも、狂おしいほどに嬉しくて、アダンは胸が張り裂けてしまいそうだった。歓喜に震える指先が宝石を取り落とすことがないように気をつけながら、アダンはそっと、かつて王宮で何をしても外れることのなかった忌々しい金属の首輪にその宝石を近づけた。カチ、と硬質なもの同士がぶつかる軽い音が響いて─────それから放たれた強い光に、ノエルは驚いてルビーの瞳を大きく見開いた。ぶわりと逆立ってしまったノエルの柔らかな毛を、撫でたいなんて馬鹿なことを考えながら、アダンは光が収まったあと、元々なかったかのようにあの忌々しい首輪が消え去ったノエルの首元を、うっとりとエメラルドの瞳を蕩かせて見つめていた。
「─────ああ、やっと……あの忌々しい首輪がなくなった。前に君に贈ったのは、それを隠す為のものだったから……今度こそ君に似合う首飾りを、俺から贈らせてほしい。……俺の色を身に纏う君は、きっとこの世の何より美しいんだろうな。楽しみだ……」
そう言うとアダンは、酷く優しい手つきで、それでも何度も確かめるように縛めるものがなくなったノエルの首元を撫でた。黒猫が何を身に纏ったって、不吉というのがもう意味を成さないとしても着飾った獣にしかならないと思うけれど、それを伝える術は今のノエルにはない。ノエルは初対面のときを思わせるその手つきを羞恥を堪えて受け入れつつも、意識を巡らせて自分の身体を確かめていた。確かに、魔女によって命令で縛られていたような感覚が霧散している。傍目には分かりにくくても、これで魔女との隷属契約は破棄されたのだろう。ノエルの身体もそのまま元に戻るのではないかと本当は少し期待していたけれど─────そう都合よくはいかないらしい。確か魔女はノエルに契約破棄のことを説明したときに、ノエルを使い魔として隷属させる魔術と、ノエルの力を封印する魔術の二つが絡んでいると言っていたはず。アダン様が用いた魔術ではその内のひとつしか解除できなかったということなのだろうか。
────────どうにか、元の姿にさえ戻れたら。彼に全てを打ち明けて、本当にアダン様を愛しているのだと伝えることができる。魔女のことだって少なくとも、ただの黒猫の姿でいるよりは庇えるはずなのに。
もどかしい気持ちで思わず目を伏せると、そのルビーのような瞳に映る憂いを敏感に感じ取ったアダンは、ノエルの喉元を撫でていた手をゆっくりと止めた。そのエメラルドが昏い色を映したことに気がつかないノエルがぱっと顔を上げた時にはもう、アダンの手によってノエルは抱き上げられていて。その手つきは酷く丁寧だったけれど、驚いたノエルは思わずひっくり返った高い鳴き声を上げた。アダンはそれに眉を下げて、それでもノエルをその腕から解放することはしなかった。
「ごめん、驚かせたね。─────でも、もう。……もう、一分一秒だって、君と離れていたくない。君の温もりを思い返して、それを失ったことを反芻して……ずっと、……気が狂いそうだった。────────あいたかった。死んでしまいそうなほど、逢いたかったんだ、ノエル……」
確かに滲んだ声で、比類なき強さを誇る竜の王は、掌に収まってしまいそうなほど小さな黒猫に縋るように呟いた。彼の魔女への躊躇いのない凶行を見てもなお、ノエルはその今にも儚くなりそうな声に、酷く心を揺さぶられてしまう。……──────ノエルだって、逢いたかった。王宮を一歩離れた瞬間から、彼が恋しくて仕方がなかったのだから。言っていることが分からないとしても、なんとかその気持ちだけでも伝わってほしいと願って、ノエルは必死でアダンの胸元に顔を擦り付けた。甘えた高い鳴き声をしきりに上げながら、何度も何度も。──────けれどアダンは、嬉しそうな、それでも瞳にどうしようもない切なさを滲ませて、それを受け入れるだけで。
「……前の王宮は使えなくなってしまったけれど……別邸を用意してあるんだ。前よりも、ずっと良い部屋を。だから……一緒に帰ろう、ノエル」
この上なく優しい手つきで一度ノエルの背を撫でて、踵を返そうとしたアダンにノエルははっと顔を上げて訴えるように鳴いた。そのルビーの瞳に映るのは、未だ床に伏せたままの魔女の姿だ。今竜の血が魔女にどういう影響を齎しているのかわからないけれど、魔女の声を封じたのがノエルに命令させないためだったのなら、隷属契約が解除された今は魔女の声を奪っておく意味はないはず。魔女の声が出るようになれば、アダン様に本当の事情を説明することもできるかもしれないし、それが叶わなくても苦しそうな様子を見ていたくはなかった。ノエルの視線の先に気がついたアダンは、途端にその瞳を澱ませて少しだけノエルを抱く腕の力を強めると、押し殺したような声で呟いた。
「……アレは拘束も兼ねているから、解除はしない。……何より、あの魔女の声を、もう君の耳に入れたくはないんだ。……ノエル。俺は君を、誰よりも大切にしたいと思っているし、君の願いは何でも叶えてあげたいけれど──────あの魔女に関することは例外だ。……君が君の意思で俺といる限り、魔女の身の安全は保障する。……──────でも、竜人はとても、とても嫉妬深いんだ。……君の関心が次魔女に向いたら、俺は……自分でも、どうするか分からない」
無理矢理に押し殺し震えたような声を聞いて、ノエルは思わず目を見開いてアダンの顔を見上げた。ずっと、一心にノエルを射抜いていたエメラルドのような瞳は瞳孔が開いていて、恐怖と、底知れない澱んだ感情をそこに見てとったノエルは息を呑む。ノエルと二人の時、アダンは柔らかい言葉や優しい声、それからノエルを宥める言葉ばかり並べていて─────自分の感情を強くぶつけるようなことをノエルに言うことは、ほとんどなかったから。魔女に対して、アダン様は魔女が言うところの「薬」を取られた怒りだけではなく、嫉妬をしていたと言うのだろうか。確かにノエルは飼い主として魔女を慕っているかのように振る舞ったけれど、実際にノエルと魔女の間にあるのは、アダン様が羨ましがるようなものではないのに。それを今伝えることができないことが、もどかしくて仕方がない。
何度説明されようとどこかで消化しきれていなかった、竜の番に対する執着。ノエルはその瞳に、声に直面して漸く、その上澄みが飲み込めたような気がした。場違いにも、向けられる感情を実感して、熱烈な言葉を愛する番から向けられて浮き上がる心があったことは否定できないけれど─────この状況ではそんなこと言っていられそうにない。とりあえずこうまで言われてしまっては、魔女のことを今、これ以上庇うことはできそうにないのが確かだった。このちいさな黒猫の姿では、どうにか魔女の命だけを保障するのが精一杯だ。ごめんなさいと魔女に向かって思わず鳴こうとして、ノエルは口を噤んだ。魔女とノエルの間にあった隷属契約は解除されているわけで、今ノエルの言葉が以前のように魔女に伝わるのかは分からない。……それでも、魔女に向けて何か言ってしまえば、アダン様は気が付くような気がしたから。それが功を奏したのか、アダン様の意識は一旦魔女から離れたようだった。
「……あの魔女は、俺の配下が回収する。ノエルは何も、気にしなくていいから。……─────さあ、そろそろ行こう。ノエル、俺とふたり、ずっと──────────共に在ろう」
切なさを滲ませて、それでも甘く、愛しさを込めて囁かれた声に、ノエルは様々な想いを飲み下し─────ただ、ひとつ頷いて応えた。アダン様の言葉に手放しで喜ぶには、あまりに複雑な状況になってしまったけれど─────少なくとも、ノエルが彼のことを大好きで、この世の誰より幸せにしたくて、ずっと共に在ることを望んでいるのは、何があったって覆りはしない。だからこそ──────────……こんな、すれ違った形じゃなくて。もっとちゃんと、ノエルの言葉で。
「……にぃ」
もどかしさから漏れた鳴き声を合図に、アダン様の魔力に包まれて、視界がふわりと溶けるように眩んでいく。縋るような、縛るようなアダン様の腕の熱に包まれながら、魔女の姿もゆっくりと薄れていった。それでもその薄紫の瞳がこちらを見つめているのを感じた気がして、ノエルは決意を秘めたルビーの瞳でそれを見返した。かつての魔女の声を、ノエルは確かに覚えている。
『ただの猫が番なんて前例がないから向こうは知らないでしょうけど、その状態じゃ逆鱗の儀はできないわ。その姿のまま竜王の元に戻って、長くても20年かそこらで死んでみなさい。それがあの竜王と──────下手をすれば……』
……もう、魔女の取ろうとした方法で元の姿に戻ることはできない。決まった暦に魔女が儀式を行う必要があるそれは、魔女が声を奪われアダン様に身柄を抑えられた以上まず無理だ。
──────それなら。ノエルが選べる方法は、ひとつしかない。
……その時そのルビーのような瞳に浮かんだのは、微かな恐怖と、それをずっと上回る強い意思。ノエルの立場も考えも、魔女やアダン様と出会ってから目まぐるしく変わったけれど、それでも最初からずっと、変わらないものがある。
──────────アダン様の為なら、この身がどうなったって構わない。この命なんて、何度でも捧げられる。
ましてや、それが彼と共に未来を歩く為のものだと言うのなら──────躊躇う理由なんて、どこを探したって見つからない。
「……にー」
どうか待っていて、と知らずにひとつ鳴いて。ちいさな黒猫は大好きな人の腕の中で、必死で考え始めた──────────己の、ちいさな命の終わりを。