13.黒猫の真実
──────本当の話を、教えてあげる。黒猫の獣人の死がもたらすものと、それから──────この国が獣人の国となった、その所以を。
息を呑んだノエルを魔女は気にした風でもなく、そう口にした魔女はまるで目の前に本でもあるかのように、朗々と物語を諳んじ始めた。美しい魔女の声は耳に入りやすく、ノエルは思わず黒い耳をぴんと立てて聞き入ってしまう。……その神話は、かつて、という言葉で始まった。
─────人々の愛情を試そうと、この世界を創りし神は愛情によって豊穣をもたらし、悪意によって厄災をもたらす黒猫をこの世に産み落とした。しかしそうとも知らない愚かな人々は、他にない特別な色を持った存在を差別し、孤独の果ての絶望の中、黒猫の獣人はその命を落としてしまった。神により遣わされた特別な黒猫が世界を呪いながら命を落としたせいで、世界に未曾有の厄災が降りかかることになる。その中でも黒猫を迫害した人々は、黒猫の怨嗟を一身に受け、見るも無惨な姿へ成り果てた。
……そこで比類なき力を持った竜人が民を統率し、己の特別な血を用いて神に誠心誠意赦しを乞うた。それが幸いしてひとまず厄災は収まったが、それでも怒り冷めやらぬ神によって、竜人は人間が住めないほどに過酷な環境の、荒れ果てた地の王になることを命じられる───────そして神に愛されし黒猫の獣人が、この世に生まれ落ちることはなくなってしまった……
淀みなく声を紡いでいた魔女は、そこでふう、と息を吐いた。
「……建国当初、この国は人間が住めないほどの過酷な環境だった。それでも竜人の求心力によって着いてきた多くは、当然身体の頑丈な獣人達だったわ。その名残で、この国は獣人の国になったの。まあそのせいで人間と獣人の境がより浮き彫りになって、その内争いだの何だのが起きた時代もあったけれど。とにかく、これが本当の建国神話なのよ」
ノエルは声を出すことすらできず、呆気に取られることしかできなかった。だって魔女が語った話は、元々ノエルが知っていた話とはほとんど正反対だ。黒猫は悪役ではなく、神に遣わされた特別な存在で、最初の王である竜が罰として荒れ果てた地の王に任命された、なんてとてもすぐには信じられない。しかし魔女はノエルが信じようが信じまいがどうでもいいのか、つまり、と間髪入れずに言葉を続けた。
「──────この神話に倣うなら、黒猫の獣人が世界を呪いながらその命を落とせば未曾有の大厄災が起きると、そういうことよ。だから精々長生きして良い最期でも迎えてちょうだい、少なくとも世界を呪わない程度のね……それで、ここまでご丁寧に説明してあげたわけだけれど。理解できた?」
未だ魔女が語った物語の中にいるような心地だったノエルは、唐突に話を振られて目を瞬いた。理解できた、とはどこにかかる質問だろう。黒猫の獣人が不吉を運ぶだけの存在ではなかったことか、それとも今流布している黒猫が忌み嫌われる元となった建国神話が、史実から捻じ曲げられたものだったことだろうか。どれにせよ、あまりに多くの情報が一息に与えられすぎて、今は整理することすらできていない。ノエルが返事に窮していることに気がついたのか、魔女はひとつ息を吐くとひらりと宙で指先を振った。微かな光の軌跡を描いて、魔力がその指先に灯る。そうして次の瞬間には、その手に何枚かに折り畳まれた紙があった。文字がびっしり連なっているところを見るに、どうも何かの記事らしい。突然のことに目を瞬いているノエルに、魔女はずい、とそれを近づけた。
「これは貴女が王宮にいた間の記事よ。読んでみなさい」
言われて確認してみれば、そこに記された日付は少し前のものだ。話が読めないけれど、ノエルがいない間に何か大きな事件でもあったのだろうか。言われるがままに目を通して、ノエルは尚更に首を傾げた。
──────農作物の収穫量、例年よりも微量アップ。味もとても良いと農家から喜びの声。
──────乾燥地帯ににわか雨!?神の恵みだと現地民大喜び。
──────今年の自然災害での死亡数、例年よりも大幅に下降。
書かれている事柄のひとつひとつは小さいけれど、それでも喜ばしい知らせばかり。とはいえ、ノエルや魔女に関係のあることだとは思えない。これがどうしたんですか、と首を傾げて鳴いたノエルに、魔女はもう何度目かも分からないため息を吐いて腰に手を当てた。
「察しが悪いわね、全く……いい?その姿になっても、全ての能力が抑えられるわけではないと言ったでしょう。それは厄災をもたらす力だけでなく、当然豊穣の能力もよ。そしてそこに書かれていることは全て、貴女があの竜王の元にいる間に起きた出来事。ほとんどの人間は偶然だと思っているでしょうけれど、正直この全てが同時期に起こるというのは異常よ。──────これがどういうことか分かる?」
詰め寄られてのけぞりつつ、ノエルは必死に頭を回した。つまりはこの小さな黒猫の姿になってしまっても、黒猫の獣人がもたらす「悪意を受ければ厄災をもたらし、愛情を注がれれば豊穣をもたらす」という能力は、全てがなくなってしまったわけではないということで。そして、魔女が見せてきた記事は、どれも自然に関する喜ばしい知らせで──────そこまで考えてゆっくりとルビーの瞳を見開いたノエルに、やっと理解したかと魔女は鼻を鳴らした。
「番を溺愛する竜王の傍にいたことによって、その姿でありながらこれだけの利益を国にもたらしたのよ、貴女。国民全員が貴女に悪意を向けたとしても、竜の寵愛が傍にあるなら簡単にお釣りが来る。封印を解いたら、貴女があの竜王の傍にいる限りさぞかし国は豊かになることでしょうね──────どう?貴女があの竜王の元に戻りたくない理由、なくなったかしら」
─────じわりと、魔女の言葉が胸に染み込んでいく。何か、自分に都合の良い夢でも見ているのではないかと思った。どうしたって、ノエルの能力のせいで厄災に襲われた村の姿を忘れることなどできない。ノエルが離れた今となっては村も元の通りに回復していると思うけれど、それでも恐れと嫌悪の視線はずっと癒えることなく、ノエルの心を苛んでいたのだから。でも──────本当に、ノエルに自然を豊かにするような力が、あるのだとしたら。無意識に、それでもひとつひとつ紐解くように、ノエルは愛しい番の傍にいてはいけないと自分の心を殺し続けていた理由を思い返していた。
両親さえもを殺した厄災を運ぶ不吉な黒猫が、アダン様の傍にいてはいけない────────けれど両親の死は、ノエルの能力によるものではなかった。それどころか魔女の言葉によれば、彼の傍にいることで、自惚れでなければ豊穣をもたらす力によって、お役に立てるかもしれない。
王である彼の隣に立つことを、国の獣人達が認めてくれるわけがない────────でも。もしも、ノエルが厄災をもたらすことがないのなら。村にもたらしてしまった厄災の何倍も豊穣を運ぶ存在となって、努力のスタートラインに立つことを許されるのなら。そうして気が遠くなるほど努力を重ねれば、もしかしたら、遠いいつかであれば────────
何もかも、あり得るはずがない遠い空想だったはずなのに。条件がひっくり返るなり次々と浮かんでくる、呆れてしまいたくなるほどに現金な思考に、ノエルはそれでも抗うことなどできそうになかった。もう、ずっとずっと遠い過去に置いてきてしまった、ノエルの夢。両親の死によって引き裂かれ、あの村の怒声に塗れた泥の中に、全て捨ててきたと思っていたけれど────────今、それが欠けるところひとつないままに、まざまざと心の中に浮かんでいた。
─────ノエルは、いつか。ノエルが両親に育てられて、この上なく幸せだったように……────────誰かを、幸せにしてあげたかった。
その朧げだった「誰か」に、今はぴったりと当てはまる人がいる。酷く温かい手を持った、この上なく、ノエルに優しく触れてくれる愛おしい人。本当にあの人の元にいても、あの人が不幸になることがないのなら。あの人が、こんな不甲斐ないノエルの隣にあることを、心から望んでくれるなんて信じられないほどの幸福が、この世にあるというのなら──────……
「……にー、……にー!」
あいたい、と、酷く掠れた、頼りない鳴き声がこぼれ落ちた。昂る感情が抑えきれなくて、視界がゆらりと歪んでいく。ほろほろと涙をこぼしながら、ぴーぴーと情けなくノエルは鳴いた。ずっとずっと堪えていた。今更何をと、自分で選んだくせにと、彼を傷つけたくせにと。何度でも押しつぶして縛って鍵をかけて、でもそれが全て解かれてしまったら、残る気持ちなんてひとつだけに決まってる。
───────あいたい、あいたい。愛しい番にあいたい。アダン様に、今度こそたくさん、素直にすきって伝えたい。与えられたものを返せる日なんて、一生来ないかもしれないけど、それでもいっぱいありがとうを伝えたい。どこ。どこにいるの。ひとりにしないで、おねがい、いっしょにいて。ずっとずっと、いっしょにいてほしい。くっついていたい。あのひとのことを、他のだれでもない私が、笑わせてあげたいの。しあわせに、してあげたいの。
支離滅裂で自分勝手。だってアダン様の元を離れたのはノエルの意志なのだ。それを今更こんなこと、鼻で笑われて一蹴されたって文句なんか言えっこない。それでも、ずっとずっと押し殺していたものが一度溢れてしまえば、もう抑えることなどできそうになかった。馬鹿にされてしまうだろうか──────けれどそう考えたノエルの予想に反して、魔女は情けないノエルの声を聞くと、今までで一番悪辣な、それでいて楽しそうな笑みを浮かべた。
「ふふっいいわね、最高。貴女ずっと良い子ちゃんでつまらなかったんだもの。傲慢で身勝手、我儘で理不尽────────そしてそれ故に葬られる歴史や知識。どんなに綺麗に繕ったってなくなりやしない人の愚かさ、醜さこそが、魔女の最も愛するものよ。貴女の両親が、無理を押して貴女を隠し通したようにね。その傲慢さが気に入ったからこそ、師匠も手を貸したんでしょう。まぁ、そんなところまで似たくはなかったけれど─────残念なことに、私も同じなのよね」
──────貴女、初めて気に入ったわ。
そう言って唇を歪めた魔女の妖艶な笑みをぱちりと瞬きながら見つめ返して─────ノエルはでも、と視線を下げた。勝手に耳も尾もへなりと力を失ってしまうけれど、自分の意思ではどうにもできない。
「みー……」
アダン様からしたら、私の事情も心情も、当然知り得ないわけで。今更あなたのことが本当はだいすきですなんて都合の良いことを言いながら戻ったとして、彼は不快にならないだろうか。先ほど魔女が魔力で作り出した小さな竜と黒猫のやりとりを見て、竜人にとって番の存在はとても大きいものらしいということは理解した、つもりだ。勿論、溢れるほどに与えてくれたアダン様の優しさも愛情も、疑ってなんていない。だから見捨てられることはないと思うけれど……それでもやっぱり、お怒りには、なられるかもしれない。勿論、そうだったとして悪いのはノエルなのだから、甘んじて受け入れるべきだ。でも愛しい番に本気で怒られて拒絶されたとして、果たしてノエルの小さい心臓は保つのだろうか。比喩ではなくショックでそのまま止まってしまわないだろうか。
事情があったとはいえ、アダン様のことを同じように拒絶したのはノエルのくせに。立場が逆になったら恐れるだなんて、傲慢を愛する魔女にすら眉を顰められたっておかしくない。それでも想像だけでちいさな黒い前足が竦んで、歩くことさえままならなくなりそうだった。そんなようなことを震えながらぼそぼそと訴えたノエルに、魔女はその上品な見た目からは想像ができないような苛立った舌打ちで返答したものだから、ノエルは思わず尾が膨らんだ上に足の間に挟んでしまった。
「貴女、ぜんっぜん理解してないじゃない。……いや、私の出した竜がしおらしすぎたのかしらね。番相手にはあんなもんだと思っていたけれど──────でも残念ながらね、本物は」
言いながら、魔女はまたひらりと宙で指先を踊らせた。またもその手の中に現れたのは、先ほども見たはずのいくつかに折り畳まれた記事。疑問に思う間も無く、魔女はそれを開いてうわ、と不穏な声を出すと、次いでノエルの鼻先に突きつけた。近すぎたせいでぼやけた文字が、だんだんと鮮明になっていく。その日付は先ほどの記事とは違い、今日の朝刊のようだった。そうしてまず目に入った、太字で強調された見出しは──────
「……貴女の想像ほど、可愛くないわよ」
──────番狂いの竜王アダン、乱心。王宮壊滅か。
その文字の意味を理解した瞬間─────……くらりと、ノエルの視界が揺れた。……勿論、先ほどとは違った意味で。その時ノエルの脳裏に過ったのは、王宮から逃げ出した後に微かに聞こえた────天を突くような、悲しい声だった。
「……アダン様、……せめて何か、口にされては」
「…………」
こちらに一瞥すらもくれない、主のその落ち窪んだ瞳を見つめてジスランは目を伏せた。もう一体どれくらい、こうしているだろう─────頼りない灯りに照らされるその背中は、今にも本に埋もれて見えなくなってしまいそうだった。半日ほど前に確認したときと、ほとんど体勢すらも変わっていない。それでもなお、その瞳に執念にも近い正気が浮かんでいるのは、幸いと言って良いのだろうか。
─────王宮が管理する別邸に運び込まれた、目が覚めてすぐのアダンの様子は、それは酷いものだった。魘された様子で飛び起きるなり、うわ言のように番の名前を口にして、周囲を探し回って─────そうしてその姿が見えないことが、現実だと分かると。虚ろな瞳で己の鱗を浮き上がらせたかと思えば、すぐにそれを剥がそうとし始めたものだから、臣下総出で止めなければならなかった。いくら竜王が頑丈だからって、鱗は人間で言うところの爪のようなものだ。一瞬で生え変わるものではないし、何より酷く痛むに決まっている。最初から番と寿命を分け合うために、意思によって剥がれ落ちるようになっている逆鱗とは違うのだ。一体何を、おやめください、と泣きながら止める臣下の声が聞こえているのかいないのか、アダンは何も映っていない、焦点の合っていない瞳で何事か呟いていた。
「ノエルは……そうだ、きっとノエルは、人間がいいんだ。やっぱり竜じゃ駄目だったんだ。そうだ、俺だから、嫌がられた、わけじゃ─────だからこんな鱗が、全て、なければ。ノエルは俺にも、擦り寄ってくれる。あの可愛い声で鳴いてくれる、懐いてくれる。こんなものさえなければ、俺はノエルに、番だと認めてもらえる。愛してもらえる」
そうかと思えば、唐突にそれを忘れてしまったかのように笑い始めたり、次の瞬間には涙を流しながら頭を掻きむしったり。少なくとも番が傍に居た時の多少の不安定さとは比べものにならないほどの王の様子に、大半の臣下は慄いていたけれど─────王宮の古参の獣人達の中でも、誰よりも王の傍にいたジスランには、分かってしまう。番が見つかることはないと、自ら生を手放そうとしたときのアダンの静かな絶望と真の狂気を目にしているからこそ。
こうまでなっても、その行動がどれほどに狂気的に見えたとしても─────王は、未だ、擦り切れそうな正気を保っているのだ。そしてそれは、アダンの番が少なくとも生きているという、これ以上ない証だった。一体どういう経緯で、どうやって、あの部屋からいなくなってしまったのかは分からないけれど─────とにかくそれさえ分かっていれば、ジスランには十分だった。絶望と狂気、それと正気の間を行き来するアダンに、ジスランはひとつ、緊張に震える息を吐いてから声を掛けた。
「─────アダン様。どうか、お聞かせください。何があったのですか」
「…………」
「……それとも。番様を、捜索しないおつもりですか。まともな関係も築けないままに、もう会えなくなってしまってもよろしいのですか」
ジスランの硬い声に、ゆらりと、アダンがその虚ろな瞳を上げた。特異な虹彩の、他に見ることはないエメラルドの澱んだ色の底で、ぽつりと危うい炎が灯る。当然、ジスランだって分かっていた。─────そんなこと、この世が滅んだってあり得ないのだと。竜人が番を見つけて、それを諦めることなどあるわけがない。そもそもそんな選択肢は、本能の中に組み込まれていないのだから。箍が外れたような瞳でジスランを見つめながら、先ほどまでの狂乱が嘘のような静かな声で、アダンは首を傾げて呟いた。
「不思議だ。ジスラン、お前─────命が惜しくはないのか」
「勿論。貴方様の為であれば」
即答し、胸に手を当てて首を差し出し、恭順を示した忠実な臣下を、暫く感情を映さない瞳で見つめたあと。アダンの返答は差し出されたその首を落とすことではなく、ゆっくりと口を開き、ぽつぽつと経緯を語ることだった。とても平静に話せることではなく、何度も言葉が途切れ、呼吸さえも危うくなったが、声を止めることだけはしなかった。一度止めてしまえば、あんな地獄をもう一度語ることなんてできやしないと分かっていたからだ。どれほどの苦痛を伴っても、情報を共有しなければ、愛しい番を取り戻す算段を整えることさえできやしない。
「─────……ノエルは、魔女の使い魔だった。不可侵の掟を利用した魔女が迎えに来て、ノエルは……魔女に、」
ひゅう、と危うい息が漏れる。あの魔女を前にしたノエルの様子は、甘い鳴き声は、夢でも現でもアダンを苛んだ。ずっとずっと求めていたものが、遠いいつかでいいと物分かりのいいことを言いながら狂おしいほどに欲したものが、目の前で当然のような顔をした誰かに与えられていたあの憎悪は、この生が終わりを迎えるまでアダンを苛むに違いない。押し殺した声は、どうしようもなく震えてしまった。
「……魔女に、自分の意志で、着いていった。魔女とノエルの間に結ばれた隷属契約の詳細が分からなかったせいで……俺は最後まで、手出しができなかった。……切り刻んで、灰にしてやりたかったのに……ッ!!」
憎悪を凝るまで煮詰めたような声で唸ると、アダンは耐えるように掌をきつく握りしめた。爪が食い込んで血が滲んだけれど、そんなことはどうでもよかった。あの魔女の、どこが。アダンの方が、ノエルに余程尽くすことができるのに。アダンの方が何万倍も、何億倍も、ノエルのことを愛しているのに。─────……それなのに、ノエルはあの魔女と行ってしまった。人間だからか、女だからか、それとも魔女という存在に何か惹かれるものがあったのか……いや、最早どうでもいい。少なくとも、あの魔女を排除しなければ、ノエルはアダンを選ぶことはないということだけが確かだった。
─────……そうだ、排除だ。排除しなければ。あの女どころか、この世から魔女という存在を消し去ってしまうことだってアダンにはできる。魔女が人を堕落させる悪しき存在だなんて面倒な建前はいらない、アダンの目の前で番を連れ去ったのだからそれだけで十分だ。けれどどんなにそうしてしまいたくても、あの女の命とノエルの身の安全が繋がっている限りは下手なことはできない。それどころかこの瞬間にでも、ノエルの命と引き換えに国を差し出せと言われたら、アダンに抗う術などないのだから。─────だったら、まずは。主人の心情を想い言葉を探していたジスランを見上げて、アダンは呟いた。
「……ノエルとあの魔女の間に結ばれた隷属契約を、破棄させなければ」
交渉が通じないのは確かめたばかりだ。それならば、無理矢理にでも契約を断ち切ってしまうしか選択肢はない。長い時を生きる存在として、アダンも魔術の知識が全くない訳ではないし、獣人の王しか扱えないような魔術だっていくつかあるとはいえ、言ってしまえば畑違いだ。竜王はその頑強で鎧のような鱗と圧倒的な武力によって、放っておくと争いが絶えない獣人たちを統率するために存在しているのだから。アダンそのものには魔術の高い耐性があるため魔女など相手にならないが、自分がまったくの第三者である契約に無理矢理干渉するというのは、それ自体がかなり無茶なことだった。当然、あの女の同類である他の魔女に助力を請うこともできない。それならば、どれだけ臓腑が焼け爛れそうなほどの怒りがあろうと、気が狂いそうな絶望があろうと─────……今必要なのは、知識だった。アダンが嫉妬で狂いそうになろうと、あの魔女とノエルが今共に過ごしているという想像だけで吐き気を覚えようと、少なくともあの魔女のもとにノエルが自ら……着いていったことを思えば、ノエルの身に危険はないはずだ。ノエルを取り戻すために、今は。
「ッお待ちください、アダン様!一体どちらへ」
唐突に幽鬼のような足取りで立ち上がった主人に、泡を食ったような反応をしたジスランに一瞥をくれることもなく、アダンは淀みなく指示を下した。
「……王宮が都に所有する書庫、あそこなら一般に出回っていない魔術に関する文献があるはず……ジスラン、番を探すために国の外に出向かわせていた者達の中で、関所の都合でまだ戻れていなかった者に通達を。そのまま留まり、魔女の隷属契約についての文献を調査するようにと」
優秀な臣下としてアダンの命の意図を直ぐ様理解しつつも、未だ酷い顔色の主人を、どうかもう少しだけでも休んでから、と引き止めようかと迷って─────結局ジスランは耐えるように微かに唇を噛み、御意、とだけ応えて頭を下げた。アダンを引き止められるだけの力を、ジスランは持ち得ない。どんなに周囲が懇願しようと、番に関わることで竜人の行動を押しとどめるなどということは不可能だとジスランは分かっていた。精々できるのは、せめてこのお方を独りにしないように追従するくらいだ。王の復帰とその乱心も、既に民の間で話が出回っていることだろう。その辺りが妨げにならないように根回しもしつつ王の命を遂行しなければ、と脳内で算段をつけていると、ふと部屋を出ようとしていたアダンが立ち止まった。
「………王宮は」
「?」
「……王宮の者達は……」
よく耳をすまさなければ聞こえないような、掠れた、迷うような声だった。それでも付き合いの長いジスランはその言葉の意味するところを正しく理解して、僅かに目を見開いた。
「王宮は……現在修復作業中です。王宮の者達は、アダン様がお掛けになった保護の魔術によって大事ありませんでした。─────我らが王よ、よくぞ踏みとどまられました」
再度頭を下げて報告したジスランに、背を向けたままのアダンは応えることはなく。ただ永遠にも感じるような沈黙の末に、─────ほんの微かに。
すまなかった、という掠れた声だけを残して、今度こそ振り返ることなくアダンは部屋を出て行った。
……すぐにでも、唯一の王に命令されたことを果たさなければならないのに。やることは山積みで、立ち止まっている暇などないというのに。それでもすぐにはそこから動くことができなくて、ジスランは深く、深く息を吐いた。─────檻に入っていた頃の正気が擦り切れたアダンであれば、臣下がどうなろうと気に掛けるなどあり得なかっただろう。それはアダン自身の性格や気質などとは関係なく、番を得られず狂気に侵された竜人というのはそういうものなのだ。けれど、そうだった。本来アダン様は無闇に獣人の王としての命令を下すこともなく─────仲間と認めたものは出来うる限りの力で守ろうとする、優しい方なのだ。長い時を経ようと、本質というのはそう簡単には変わらない。それが息を吹き返しつつあるとするのなら、それは間違いなく、ずっと求め続けていた番の存在によるものだろう。
最初に見たきりの、酷く頼りない、小さな黒い姿を思い浮かべる。不吉な黒猫と民に迫害される立場であり、その上望んで魔女の使い魔の立場にいるというあの黒猫にも、それはいろいろな事情があるのかもしれないが。それでも─────どうか主人を見捨てないでほしい、この国のためにも、と。ジスランはどこにいるともしれない小さな黒猫に、人知れず願ったのだった。




