12.竜人の番
ゆらりと身を起こし動き出した、魔女が魔術で作り出した小さな黄金の竜の様子は、見るからにおかしくなっていた。ぐるぐると同じ場所ばかり見て回ったり、自分の翼を掻きむしったり、そうかと思えばほろほろと酷く悲しそうに涙を流したり。これは魔女が作り出したただの魔力の塊だと、分かっていてもノエルは酷く胸が痛くて、何度手を伸ばしそうになったか分からない。魔女に睨まれたことを思い出してなんとか踏みとどまったけれど、正直見ているのが辛かった。だって、魔女の言うことを信じるのなら、これは過去に竜王─────アダン様の身に降りかかったことだ。しかも、魔女の言い種からすると、自惚れでないのなら……とても信じられないけれど、番が、見つからなかったせいで。
「─────……竜王アダンの番は、今までの歴史上でも珍しいほどに見つからなかった。どんな手を使っても。まあ、師匠が隠したのを差し引いても……そもそも貴女が赤目の黒猫獣人という特異な存在であったせいか、生まれた年代が竜王とかなり違ったから当然ね。普通はそう差もなく生まれつくはずなんだけど─────とにかく竜王は、そのせいで急速に狂い始めた」
魔女が言いながらも、するりと指先を宙で滑らせる。すると必死に動き回っていた小さな黄金の竜は、やがて力尽きたようにふらりとよろめき、耐えきれずぱたりと倒れ込んでしまった。はっとノエルが息を飲むと、ふわりと竜の四肢に魔力の光が集まっていき、その身体を縛めるようにそれが形を成していく。─────……光が収まり現れたのは、腕に巻き付く赤い色をした厳重な鎖。どうして、比類なき強さを誇る竜の王にこんなものが。すっかり動かなくなってしまった小さな竜に、ノエルは耐えきれずみーみーと悲鳴のような声を上げた。ふらりと上げかけた前足は、けれどまた魔女の手によって制される。縋るように見上げてみても、魔女の視線は何の感情も宿さないまま、机上の小さな竜を捉えるだけだ。
「狂いきった自分が国を壊してしまうことがないように、竜王は己を竜の血を用いて作った檻と枷で縛めた。番を探すという使命は、己の信頼する臣下達に託して……もう何百年も、檻の中で自分の狂気と絶望に耐えていた。でも結局、檻にいる間に番が見つかる事はなかったわ」
魔女の声に応えるように、ぐるる、と鎖に囚われた小さな竜は低い唸り声を上げた。まるで、酷い苦痛に耐えるように。こんなに、こんなに苦しそうに見えるのに、これをアダン様が、自ら?─────……番に会えないことが辛くて、想像もつかないような歳月を?くらりと、視界が揺れる。もうとっくに、ノエルの想像や理解が及ぶような話ではなくなっていた。けれどそんなノエルの様子を気にするでもなく、魔女はもう一度、ひらりと指先を宙で踊らせる。
「─────……でも、とうとうその日が来た。竜人と番を結ぶ縁はとても強いものだから、必然と言えば必然ね」
はっとノエルが顔を上げると、いつの間にか鎖から解き放たれていた小さな竜のそばに─────……酷く小さな黒猫がいた。その存在に気がついた小さな竜の喜びようといったらすごいもので、目を見開いたと思えば勢いよく走り寄って、存在を確かめるように鼻先を押し付けて。くるくると高い声を鳴らしながら翼を広げて、ぼろぼろと涙を流しながら黒猫の周りを飛び回り、擦り寄り、最後にはその翼で抱きしめるように囲んで覆い隠してしまった。実際にノエルが見たアダン様は常に人の形をとっていたから、ノエルはこんなことをされたことは当然ないけれど─────……なんだか恥ずかしくて、ノエルは目を逸らした。アダン様は確かにノエルからの好意を欲しがっていたと思うけれど、でもまさか、こんな風にノエルと出会えたことを喜んでくれていただなんて、あり得るのだろうか。だって脳裏に浮かぶアダン様は、いつだって苦しそうな顔をしていて─────……そこまで思考がたどり着いて、ノエルはきゅっと心臓が掴まれたような気になった。そうだ、記憶の中のアダン様が、辛そうな顔ばかりしているのは。
「……だけど、番である貴女は、竜王のことを拒絶した」
別に責めるような口調ではなく、ただ事実として魔女は語った。それなのに、ノエルの胸は切り付けられたように酷く痛んだ。それが、アダン様を、誰よりも愛しい唯一の番を守るための手段だと思っていた。アダン様が苦しそうな顔をするたびに、死んでしまいそうなくらい苦しくても、それが最善だと信じて疑わなかった。今だって、その考えが全て変わったわけじゃない。厄災を運ぶ不吉な黒猫が、彼の傍にいていいわけがないのだから。けれど─────あの時は、竜人にとって番がどんなものかなんて、知らなかったから。
魔女の声に応えるように─────竜の翼に囲われていた黒猫が、嫌がるようにその中から逃げ出した。シャー、と鋭く威嚇して、まるで近づくなとでも言うように。それに小さな竜は、呆然としたように固まってしまった。やめて、とノエルが弱々しく鳴いても、当然止まることはない。小さな竜が縋るように腕を伸ばすなり、黒猫は毛を逆立てて尾を膨らませ、その腕に無謀にも噛み付いた。それどころか爪を立てて引っ掻き、後ろ足で蹴り飛ばしてと酷い有様で。ノエルは、当然こんなことはしていない。威嚇くらいはしたけれど、彼に触れることさえ避けていたのだから。そうでなくたって、彼に爪を立てるなんて想像だけで耐えられなかった。でも、結局小さな竜の頑丈な鱗には傷一つついていなくて、だから子猫の行動に、意味なんてないはず、なのに。小さな黄金の竜は酷くうなだれて、止めもしなければ抵抗の一つもしないまま、その翼をぺたりと下げてしまった。その姿があんまり可哀想で、ノエルはみー、と酷く悲しそうに鳴いた。けれど結局、その小さな黒猫は満足したように鼻を鳴らすと、もう用はないとばかりに背を向けてしまった。はっと顔を上げた竜が慌てて伸ばした手をするりと躱して、小さな竜に一瞥をくれることもなく─────小さな黒猫は、まるで氷が溶けるかのように姿を消してしまった。……後に残されたのは、呆然とした小さな黄金の竜だけ。
─────酷い、どうして。あんなにも求め続けて、漸く手に入ったのに。こんな結末はあんまりだ。これじゃあまりにも─────……
ぱん、と魔女が両手を打ち合わせて、ノエルははっと目を瞬いた。まるで夢から覚めたように、目の前で酷く悲しそうに鳴いていた小さな竜は氷が溶けるように消えていて。小さな黄金の竜もそれを拒絶した小さな黒猫も、本当にいたのかと疑ってしまうくらいには、机の上には何の気配も残っていなかった。ただノエルの胸に、ずきずきとした痛みを残すばかりで。耳をぺたりと畳んだノエルが縋るように魔女を見上げると、魔女はひとつ呆れたように息を吐いた。
「……分かったでしょう、このまま貴女があの竜王の元に戻らなかったら、下手をすれば狂った竜王によって国が滅ぶわよ。貴女を連れ去った私に手を出さなかったのは、隷属契約で結ばれた貴女にも危険が及ぶ可能性があったから。そうじゃなければとっくのとうに私の命はないわ。今頃隷属契約をどうにかする方法でも探しているんでしょうけど……私だってそんな爆弾抱え続けたくないのよ、一生あの竜王に睨まれて追い回されるなんて鬱陶しい人生送るなら死んだ方がマシ。さっさと契約を解除して、元の姿に戻して返すのが吉ね。ついでにそれでご機嫌になった竜王が、私の命をギリギリ見逃してくれたら御の字だけど……まあ、あまり期待はできないかしら」
魔女は嘘をつかない。そうと知っていても、ノエルの心は突然与えられた大量の情報を処理しきれずいっぱいいっぱいだった。命はない?あの優しい人が、そんなことをするわけがない─────そう思うのも確かなのに。……あの日々の中で、たまに彼が滲ませていた仄暗い感情を。昏い瞳を、危うさを。意識の端に留められていたそれらを無視することができなくて、ノエルは口を噤んだ。彼はずっとずっと優しくて、沢山の愛を伝えてくれて、でも、ずっとどこか不安定だった。少なくとも、そんなこと信じられないと突っぱねることができないほどには。
─────けれど、もしもそれが本当だったとして。アダン様が危ういほどの想いを、ノエルに向けてくれているのだとして─────……それでも、不吉な黒猫をアダン様の元に戻すなんてこと、とても素直に受け入れられるわけがない。魔女からしたら、彼の心の安寧さえあればいいのかもしれないけれど、ノエルは一度だって忘れたことはない。村を襲った厄災を、その怨嗟の声を─────……不吉な黒猫であるノエルを産んだばかりに亡くなってしまった、両親のことを。
ノエルだって本当は、彼の傍にずっといられたらどれほどにいいだろうかと、何度願ったか分からない。この狂おしいほどの想いを、ノエルだって彼に素直に差し出したかった。それでも遠ざけ続けていたのは、死の縁を歩いてでもアダン様から離れようと必死になったのは、絶対に彼に厄災をもたらしたくなかったからだ。ノエルを傍に置いていたせいで、彼の身に何かあったりしたら─────……ノエルは、今度こそ生きていけない。例えそれで、厄災を振り撒くことになったとしても。
「……にぃ、」
アダン様のところに、戻ることはできません。元の姿であろうと、猫の姿であろうと。弱々しくそう言うと、魔女は目を瞬いてからじろりとこちらを睨みつけた。美人の怒り顔とはそれは迫力があるのでノエルは当然怯んだけれど、とはいえこちらだって簡単に引くことはできない。必死な思いで薄紫の瞳を見返すと、すっとそれが細められた。
「……なに、貴女も竜王が番だってすぐに分かったんでしょう?……いえ、そうね、貴女は特異な存在だもの。番だと分かっても愛せるかは別の話ってことかしら?それならあんな重い男そりゃあ御免でしょうけどね、はいそうですかってなるものじゃないの。そもそも貴女の意見は聞いてないのよ、国の存亡が関わってるんだから諦めてちょうだい。竜人は番を囲い込むためなら何だってするから、生活に不自由はしないでしょう」
思ってもみないことを言われて思わず目を瞬いてから、それは違う、とノエルは慌てて首を横に振った。彼はノエルの唯一の番で、何があろうとこの世の誰よりも愛おしい、ノエルの世界そのものだ。どんなことがあったって、それは揺らいだりしない。竜人が番に向ける深い感情、というのは、ノエルは未だに本質的には理解できていない気がするけれど、そもそも向こうの感情なんて関係ない。ノエルが、彼のことを、誰よりも何よりも愛しているのだ。彼と共に過ごすことを嫌がるなんて、天地がひっくり返ったってあるわけがない。だからこそ─────彼に不幸をもたらすものは、絶対に許さない。例えそれが自分自身でも。
竜人は番が見つからないと狂うと言うけれど、実際にはアダン様とノエルはもう出会っていて、ノエルが自分の意思で彼の元を離れたことだって、彼は知っている。きっと、ノエルが大好きな飼い主である魔女と楽しく過ごしていると思ってくれているだろう。それなら魔女が大袈裟にことを見ているだけで、少なくとも番の無事を知っていれば、彼の正気が擦り切れるようなことだってないかもしれない。だったら勿論彼の心の安寧も大切だけれど、それより彼の身の安全の方を優先するべきだ─────……もしかしたら、ノエルが想像していたよりもずっとずっと、悲しんでくれているのかもしれないけれど。
先程の小さな黄金の竜の酷くしおれた様子を思い出して、胸が切り付けられたかのように痛む。あれを見て、こんなのは酷い、あんまりだ、と自分を形取った小さな黒猫を恨めしく思ったなんて、口が裂けたって言えやしない。だってあれは実際に、ノエルがアダン様にしたことなのだから。とにかく、存在するだけで厄災をもたらして、実際に両親までも殺してしまったような不吉な存在を竜王の傍に置くなんて、いくら番だからってとんでもない。勿論アダン様の心の安寧だってすごく大切だけれど、それにしたって絶対に他の方法を探すべきだと必死に訴えようとして─────魔女の酷く怪訝そうな顔に、ノエルは思わず途中で口を引き結んだ。
「……そういえば、竜王に厄災をもたらしては大変だからとか何とか言ってたような─────ああそうか、貴女竜王の番だけじゃなくて、黒猫の獣人についても何も知らないんだったわね。そうじゃなきゃ、あの両親を見てその死が自分のせいかどうかなんて聞くはずないもの。道理で……言っておくけれど私は、黒猫の獣人が不吉な存在だなんて、一言も言っていないわよ」
へ、と空気のような妙な音が喉から出た。─────この魔女は一体何を言っているのだろう。その場にいるだけで厄災を振り撒くような存在が、不吉と言わずしてなんだというのか。両親がノエルのせいで死んだのだと、教えてくれたのはこの魔女だというのに。あの絶望を、忘れられたことなど一日たりともない。両親の温かな声を、注がれた愛情を恋しく思えば思うほどに、それはノエルの心を蝕んでいたのだから。ノエルが理解できていないことを分かっているのだろう、魔女は何度目になるかも分からないため息を吐いて─────よく聞きなさい、と前置くとその艶やかな唇を開いた。
「……黒猫の獣人は、本人に強い力がない代わりに、周囲の自身に向ける感情から魔力を変換し、それを自然に還元する。そういう存在なのよ。つまり、近しい存在から悪感情を向けられ続ければ厄災が起こり─────逆に愛情を注がれれば、大地に豊穣をもたらすの。初めて会った時は、貴女の両親が貴女にどんな風に接していたかなんて知りっこなかったからああ言ったけど……よく考えたら、それなら貴女の年齢になるまで村が無事でいられるはずないものね。多分、あの両親が亡くなってから厄災は起こり始めたのね?」
頭が、殴られたようにぐらぐらと揺れる。魔女の言葉がうまく理解できないのに、どくどくとちいさな鼓動が早まって、じわりと汗が滲んだ。……黒猫の獣人が、厄災だけでなく豊穣をもたらす?そんなこと、あり得るのだろうか。どうやったってすぐに信じられるようなことではなかった─────これを言った相手が、嘘を吐くことを許されない魔女でさえなければ。今自分を支配しているものが何の感情なのかすら判然としないのに、魔女の言葉を一言一句聞き逃さないように感覚が鋭敏になっているのだけが酷く鮮明だった。ノエルの反応は最初から期待していなかったのか、それともどうでもいいのか、魔女は何でもないように言葉を続けた。
「あの村が長いこと無事だったとするのなら、それは村の獣人達と貴女の両親の─────悪意と愛情が拮抗していたから。貴女の両親が亡くなったからその均衡が崩れて、村で厄災が起こり始めたのね。つまり─────貴女の両親が亡くなったのは、貴女の能力とは関係ないわ」
魔女の言葉が、漸く意味を持って届いた瞬間───────ほろりと。何を思うよりも先に、涙が溢れた。魔女は、嘘をつかない。それに、こんなにも縋りたいと、信じたいと思ったのは初めてだった。ほんとうに、と掠れた鳴き声が漏れ出て、魔女は嘘をつけないことを知っているでしょう、と面倒そうにあしらわれる。その端的な肯定が、今はこの上なくありがたかった。
この世の誰よりノエルを慈しんで、愛して、守ってくれた両親が。ノエルを産んだせいで、ノエルを大切に育てたせいで、亡くなってしまったのだと、ずっと、ずっと思っていた。自分は与えられたものを何一つ返せないどころか、その命さえも奪った、死を選ぶことすらも許されない存在なのだと。どうやったって両親が亡くなってしまった事実は変わらないけれど、でも──────本当は、ずっと、誰かに。ノエルのせいじゃないと言って欲しかった。両親の愛情を、与えられたもの全てを、素直に思い返して、両親の死を悼んで、いくらしても足りないくらいに感謝して。全て奪ったのは自分の癖にと、それを歪め続けることなく──────あの二人のために、泣きたかった。
魔女の話を信じるのなら、村の獣人達からノエルに向けられ続けた憎悪全てと拮抗するくらいに、両親はたった二人で、私に深い愛情を注ぎ続けてくれていたのだと……そう思ってもいいのだろうか。……私は、もう素直に、両親を悼んでも、恋しがっても、許されるのだろうか。そう思ったら涙が止まらなくて、あっという間に頼りなかった柔らかい毛がびしょ濡れになっていく。声もなく泣き続ける私を、魔女は面倒そうな顔をしながらも好きなようにさせてくれた。話が続けられる状態ではないと思ったのか、それとも親を喪った心情に関して、思うところがあったのかは魔女にしか分からない。漸く、ひからびるほど泣いたあとにノエルの涙が止まるのを待ってから、魔女は口を開いた。
「────黒猫が運ぶ厄災はそうそう魔女以外に抑えられるものではないと、そう言ったわね?……あれは何も、貴女を猫として封印した以上の魔女の特殊能力とかの話じゃないのよ。黒猫に悪感情を抱いていない者が、この世界ではすごく珍しいってだけの話。貴女の両親みたいな物好きがいないとは言わないけれど、その物好きの好意が、その人間の周囲が向ける悪感情全てを上回ることなんてそうそうないのはわかるでしょう?純粋な足し引きの話ね。……だけど魔女は、基本的に人と関わることは少ないし、縁ができるほどの長い間一つの場所に留まることもない。そもそも周囲に関わりのある相手がいなければ、魔女が黒猫に対してフラットな感情を抱いていれば何も起こりようがないってことね」
私、黒猫自体は別に好きでも嫌いでもないもの、とストロベリーブロンドの髪を指先でいじりつつ、こともなげに魔女は呟いた。好きでも嫌いでもない、さえ、この世界では珍しいのは確かだ。両親とノエルが住んでいた村は閉鎖的で、決して人数が多いとは言えなかった。それも功を奏したということだろうか。ノエルは必死に脳内を整理していた。不吉な黒猫なんて生まれてこなければと思うばかりで、自分がもたらす厄災について、深く考えようとしたことなどなかった。ましてやそこに、何かの法則が働いていたなんて思いもしない。それもまた、ノエルが自分のことばかりに必死になって、目を向けようとしなかったことの一つだった。じゃあ、とノエルは鳴き声を上げた。────ノエルが死んでしまったら、国が滅ぶほどの大厄災が起こる、というのは一体どういうことなのだろう。
「ああ、それね……この国の建国神話は知っているでしょう?黒猫嫌いの因習の元になっているものでもあるわね」
勿論知っている、とノエルは頷きで返した。ノエルの両親が望まずとも、家にあった本の中の記述が、ノエルを憎む村の獣人が教えてくれた物語。なんならそらで言えるくらいには、ノエルはそれを覚えていた。なぜ自分が不吉な存在に生まれついてしまったのか、その答えがそこにあるんじゃないかとかつては思って、ずっと悩んでいたから。けれど結局そこには何の答えもなくて、得られたものは鈍い痛みだけだったけれど。
───────かつて、この世界を滅ぼそうとする身の程知らずな黒猫の獣人がいた。その身から厄災を振り撒き続けたその恐ろしい存在によって、土壌は腐り、荒波が世界を襲い、終わりの見えない疫病が蔓延し、人々は疲弊しきっていた。しかし、この国最初の王となる竜人が立ち上がる。眷属たちと力を合わせて、竜は見事に黒猫を討ち滅ぼした。黒猫により荒れ果てた地を、力ある獣人達を束ねた王が開拓して豊かにしたことで、今の獣人の国の礎ができる。そうして、世界に平和が訪れた───────
子供でも、それこそほぼ外の世界と関わりがなかったノエルですらも知っている、この国に伝わる建国神話。この上なく分かりやすい物語だからか、絵本から歌劇まであらゆるものの題材とされているらしい。幾度も幾度も討ち滅ぼされる黒猫の獣人の話は、慣れてしまった今になってもなおノエルにとっては目を逸らしたいものだった。普通の猫としての黒猫はいるにはいるけれど、黒猫の獣人なんてノエル以外には聞いたことがなかったから、それこそ自分のことのように感じてしまっていたのかもしれない。
「神話、なんて言われているけれど───────そう言いながらこの話、神が登場しないじゃない。実際にあったことを元にしているのは間違いないけれど、初代より少し後の代ぐらいかしら……どこかしらで王の権威を落とすような都合の悪い話を隠蔽するために広めたんでしょうね。多分このことは、今の王宮の者達も知らないわ。でも私はとってもすごい魔女だから、そんな古代に葬り去られたはずの、本当の建国神話を記した本を特別ルートで仕入れたことがあるのよ。古代魔術で厳重に封印されていて、なかなかやりがいがあったわ」
ノエルは驚いて思わず声を上げた。黒猫が不吉な存在だと忌み嫌われるようになった由来の物語。両親からの愛情に包まれていた頃、実際に黒猫に厄災を運ぶ能力なんてないと思っていたときは、こんな物語のせいで、と思ったことも確かにあったけれど───────両親が亡くなってしまったあとは、あの神話は本当だったのだと、黒猫は忌避すべき存在なのだと納得していたのに。それがまさか、実際とは違うものだったなんて。……知りたい、という気持ちが自然と湧き上がった。自分の根源、黒猫の獣人についての物語。唯一知っていたそれが史実と違うものであるとするのなら─────かつて、黒猫の獣人は、いったいどのように生きたのだろう。ノエルの問いかけるような瞳に、魔女は頬杖をついて口角を上げた。
「本当の話を、教えてあげる。黒猫の獣人の死がもたらすものと、それから──────この国が獣人の国となった、その所以を」