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11.魔女と追憶

「─────……師匠……」


どこか呆然とした魔女の声に、ノエルは大きく目を見開いた。思わず素っ頓狂な鳴き声まで漏れてしまったけれど、隣の魔女はそれどころではないのか水面に視線が釘付けになっている。水鏡の中の白銀の魔女は、しばらく言葉もなく湖面を見つめて─────……ふ、と息を吐いた。


『……こっちからは、見えもしなけりゃ声も聞こえないがね。まあ、繋がったこと自体が奇跡だ』


水面の中の老いた魔女─────……師匠の声に、魔女は何か言おうとしていた喉を引き攣らせ、それから唇を噤んだ。不可能だと言われているけれど、万が一にも、過去に対してこちらから干渉するわけにはいかない。例え、かつての育ての親がそこにいたとしても────……それが、魔女の代替わりによってその特性である若さを失い、今はもうこの世にはいない相手だとしても。それをよく理解しているからか、魔女の師匠はこちらへ何も尋ねることはなく、ただ独りごちた。


『どっから見てたか知らないが、この瞬間に繋がるとはね……早くも因果が巡ったか、面白いことになってるみたいだ』


にや、と眼光鋭く口角を上げた魔女の師匠は、どっかりと湖畔の端に腰掛けて空を仰いだ。木々の合間からは、まるで何かに齧られたかのような青白い三日月が覗いている。


『……あんたは幼い頃のまま、さぞ生意気で傲慢で自分勝手な、魔女らしい魔女になってるんだろう。あたしには似ても似つかないようなね。まったく目に浮かぶようだよ』


声には出さずに、魔女は心の中だけで反論した。この師匠と仰いだ魔女がどれほど傲慢で身勝手で悪逆非道だったか、語り尽くせないほどには傍で見てきた。あんな風にはとてもなれないしなりたくもないと、今でも思うほどには。似ても似つかないのは同意するけれど─────……その能力に関してであれば、尚更。魔力の質こそ似ていたかもしれないが、この師匠と仰いだ魔女の力は、今の魔女にしたって足元にも及ばないものだった。受け継がれたその魔術をこれから何代重ねて研究しても、結局彼女を超えることはできないのではないかと思うほどに。この黒猫の両親は深く知らなかったに違いないが、竜王の命令から獣人を庇うなんて芸当ができる魔女は、長い歴史の中でもそういるものではないのだから。


便宜上育ての親なんて呼んではいるけれど、生きることでやっとだった幼き日の魔女に他の選択肢なんてありはしなかった。魔女とは、世界の裏にある知識を集め受け継ぐ集合知の一欠片だ。そのための教育は熾烈で、容赦なんてものは存在しない。何度血反吐を吐き死にそうになったかも分からない。恨み節ならどれほどでも出てくるけれど、感謝の言葉なんていっぺんだって言ったことはなかった。そもそもそんなものを伝えたところで、目の前の師匠は唾でも吐いて嫌がったに違いない。甘さも優しさも、魔女には縁遠いものだった。だから魔女として成長して、お前は今日から次代の魔女だと、二度とその顔を見せるなと言われた時だって、特別何か思った覚えはない。魔女の師弟関係なんてそんなものだと、そう思っていたのに─────……



『─────親と子の話をしている時に口をつくくらいです。貴女にとって、その子は自分の子同然の大切な存在ということだと思ったのですが』



……そんな。そんな甘ったるい関係じゃなかったでしょう、私達。貴女にとって私なんて、長く生きるのに飽きたからその役目を押し付けただけの、そのへんの他人なんじゃなかったの。─────なのに、どうして、否定してくれないのよ。


ぎり、と握った手のひらに爪が食い込んで、にー、と心配そうな鳴き声が隣から聞こえる。魔女のくせに情けないと思うのに、うまく力を抜くことができなかった。こちらのことなど見えていない、見る気もないのであろう魔女の師匠は、気にした様子もなくゆっくりと言葉を重ねていく。


『……まあ、魔女として馬鹿やるのはそりゃあ楽しかったけどね。飽き性のあたしが何百年と続いたくらいだ、性に合ってたんだろうねぇ。人に合わせて生きるなんてまっぴら御免だ、上っ面だけ綺麗に取り繕って中身が腐りきってる奴らを奈落に落としてやるのはそりゃあ痛快だったとも。自分の編み出した魔術の数々だって後世にずっと残ればいいと思うほど輝いて見えたし、人々の醜さが覆い隠した歴史、知識、そういうものを集め受け継ぐ魔女の使命もなかなか愛おしく、面白いものだった……ただまあ、やっぱり物事には引き際がある。楽しめなくなる前にやめちまおうってね』


─────だから、魔力の質の似通った捨て子を見つけたのは丁度良かった。丁度いいから何度後悔しても育てたし、独り立ちするまで面倒を見た。それは嘘じゃない。


酷く静かな湖畔の空気を揺らすように、魔女は滔々と語った。何の感情を乗せるでもなく、まるで寝物語でも語るように。実際、魔女がこの師匠にそんな風に寝かしつけてもらったことなんてただの一度もありはしないのに。


『……でも、そうだね。あんたったら、生意気でまともに言うことを聞きやしないくせに、あたしの力には一丁前に憧れてただろう?だから……老いていくあたしなんざ見たくもないだろうってね。現役の時に比べたら、もう随分と衰えた……』


その皺くちゃの手を見つめながら、どこかぼんやりと水面の中の魔女の師匠は呟いた。その言葉が意味を持って頭に届いた瞬間、かっと胸が熱くなった。それこそ、今まで感じたことがないくらいに。万が一でも過去に干渉したらと思っていたのも忘れて、震える声を張り上げる。分かっている、万が一なんて言ったところで、一介の魔女が過ぎ去った過去に干渉することなどできない、あり得ない。これは、最初からこうと定められていた過去で、何も変わることなんてない─────それでも。


「ッふざけないでよ……!!」


驚いた隣の小さな黒猫が飛び上がったけれど、気にしていられる余裕はなかった。魔力の質が似通っていたせいか、魔女というものは次代の自分の性にも合うものだった。それこそ血反吐を吐く思いで手に入れた力はその分強大で、かつて自分を捨て、虐げた者たちだってどうにでもできたし、気まぐれに良いことも悪いことも好きなだけした。叩き込まれた世界の裏の知識、魔術に関する研究はいつのまにか自分自身の趣味になっていた。だから、後悔をしているわけじゃない。でも─────でもそのはじまりは、確かに。


「ッ貴女が!貴女が、魔女になれって言ったんじゃない!貴女が、それを求めたから……!!」


魔女の強大な力に、自分が憧れていたとすれば。それは、魔女であれという役割を担わされたから。─────あれだけの強い力があれば、そこでようやく認めてもらえるのだろうかと。捨てられることもないだろうかと。師匠と仰ぐ魔女の力の強大ささえも知らなかったからこそ夢見ることができた、身の程知らずな幼い子供の淡い幻想だ。成長する中で、この魔女は独り立ちするまでは決して自分を捨てることはないだろうと察して、そんな無茶な幻想は抱かなくなったし─────どれほど強大な力を手に入れたところで、独り立ちをしたらこの師匠は自分を捨てるのだろうと分かったら、そんなものに意味などなくなった。なのに、この師匠は─────老いた姿を見て失望されるのが嫌だから、二度と会うことはないと私を突き放したなんて、馬鹿なことを。


血の吐くような魔女の声は、当然水面の向こうには届かない。だから返事の代わりに返ってきたのは、到底熱量の釣り合わない、夜半の湖畔に相応しい静かな声だけ。


『……そしてその衰えた力も、あの黒猫への魔術でほとんど擦り切れちまった。まあ、最後にあの竜王の命令を退けたってのはなかなか痛快だったから悔いはないけどね。あんたは幻滅するか知らないが、あたしが魔女でいるのは今日までだ。らしくないが、あとはのんびり人としての余生でも謳歌するかね……』


どこともしれない宙を見つめていた魔女は、ふと言葉を切るとその目線を湖畔へと落とした。先ほどとは違って、その瞳は確かに湖畔の向こうの誰かを捕らえようとしている。


『……詳しいことは知らないし知る気もないが、あんた、あの黒猫に関することでこの時間と縁を繋いだんだろう。さぞかし面倒で面白いことになってるんだろうねぇ。あんたはどうにも説明も確認もすっとばすきらいがあるから、さぞ場を引っ掻き回してるんだろう』


呆れたような声に、昂っていた感情が急降下していく。まるで見たように語るのが癪に障るけれど、どうにも否定しきれないものがあって魔女は口を噤んだ。実際、竜王の番なんていうものに手を出して、隷属契約を盾に攫ってきたも同然だ。今の状況を誰に聞こうと、異口同音で万が一にも命はないと言われるだろう。ただで死んでやる気はないけれど、正直相手が悪すぎる。過去の独白と分かっていながら久しぶりに叱責されたような気になってつい視線を下げると、酷くらしくない、柔らかな声が湖畔の向こう側から響いた。


『……全く、仕方ない弟子だねぇ。あんたからしたら過去の残影、あたしがしてやれることなんか無いに等しいが……特別だ。餞別に、このあたしの魔女としての最後をやるよ』


「え……」


驚いて顔を上げた瞬間、ゆらり、と湖面が揺れた。今までのように波紋が広がったわけではなく、まるでその形を保てないと言うように。魔術で練り上げた水鏡が溶け出して、床にぼたぼたと雫が落ちる。─────流石に時間切れだ、もう魔力が保てない。本当なら、十分すぎるほど保ったと言える。最初の目的は黒猫の両親と魔女の過去の関わりを知ることだったのだから。けれど─────まだ。願うように手を伸ばし波打つ湖面に触れると、歪んだ水面の中で魔女の師匠もこちらに皺くちゃの手を伸ばしていた。触れたって、水の温度ひとつ感じられない。分かっている、当然だ。─────それでもこの時魔女は、馬鹿みたいにその皺くちゃの手に触れたいと願っていた。


歪み、崩れていく鏡越し。かつての魔女の育ての親は、皺だらけの顔をくしゃくしゃにして、傲岸不遜な魔女らしく─────悪辣に笑っていた。



『─────まったくいつまでも生意気なガキめ。大嫌いだよ』



ゆっくりと、魔女の薄紫の瞳が見開かれていく。その声が響いた瞬間─────歪んだ水面越し、師匠の馴染んだ魔力の気配が、剥離して宙へと分散し、湖畔へと溶けていくのを、確かにこの目で見た。


この世界の常識であり、気ままな魔女が唯一、絶対に破ることを許されない戒律──────……魔女は、嘘をつくと、その魔力を。


─────あばよ。縁を大切に、魔女らしく生きな。


瞬間、ばしゃん、と音がして水面が弾けた。─────この水鏡を形取っていたのは普通の水じゃない、だから触れることはできても、濡れたりはしない。……なら当然、頬が微かに濡れたのは気のせいだ。


「……うそつき……」







─────……もうどれほど、部屋を沈黙が支配しているだろう。弾けた水鏡は何も濡らすことはなく、いつの間にか最初に用意した杯の中へと戻っていた。かつて両親と関わりのあった水面の中の魔女が、まさかノエルを猫にした魔女の師匠だったなんて。ほんの少し横で見ていただけのノエルだって、事情は知らずともこの二人の間にはなにか深い確執や、言い表せない繋がりがあったのだろうことが分かってしまうくらいには、魔女の様子は常とは異なるものだった。どう声をかけていいのかわからなくて、ノエルは弱った声で微かに鳴いた。自身も懐かしい両親の姿を目にしたことでとても平静ではなかったし、そっとしておいてあげたいような気持ちもあるけれど、とはいえ聞きたいこともたくさんある。今のノエルに答えをくれるのは、この魔女しかいないのだ。上目にそろりと魔女を伺うと、その美しいアメジストのような瞳とかちあってノエルは思わずぴ、と鳴いた。気がついてしまえばその視線は穴が開くのではないかと思ってしまうほどで、逸らすのも不興を買いそうな気がしてノエルは固まることしかできない。


「─────……縁、ね」


魔女が小さな声で呟いた言葉を拾って、ノエルは微かに目を見開いた。縁……この魔女の師匠が、大切にしろと言付けたもの。それで言うのなら、ノエルとこの魔女は随分と不思議な縁に結ばれているようだった。自分の両親と、この魔女の育ての親。良いとも悪いとも言い難い世代を跨いだ魔女との不思議な交流は、とても偶然とは思えない。これもあの水面の中の魔女が言っていた、因果は巡る、ということなのだろうか。お互いおそらく似たようなことに思考を巡らせて、どれくらい見つめ合っていただろう。ふ、と張り詰めた空気を破るようにして、魔女は息を吐いた。


「……ま、だから何だって話よね。どうせやることは変わらないもの。知りたいことも分かったし……さっさと準備に取り掛かることにするわ」


肩を竦めた魔女は、もうとうにいつも通りの傲岸不遜な様子だった。動揺の一片さえもうどこにも見えないのは、見た目からは分からなくても長い時を生きた魔女としての矜持なのかもしれない。それに何故かノエルはそっと胸を撫で下ろした。色々と複雑な関係がより複雑になってしまったけれど、どうあっても、この魔女がしおらしかったら調子が狂うのは間違いない。何と声を掛けようか少し迷って、ノエルは結局やることってなんですか、という当たり障りのないことを尋ねることにした。ノエルはやっと魔女の元に戻ってこられたのだし、あとは実験台としての日々が待つばかりだと思っていたけれど、ノエルの両親とこの魔女の師匠の関わりが判明したことで何か予定が変わったのだろうか。それとも、それこそその実験を早速始めるのだろうか。そう思って半ば油断していたノエルに、魔女は首を傾げて当然のように言い放った。


「?どうするって、貴女をできる限り早く元の姿に戻して竜王の元に返すのよ。さっさとしないと下手すると国が滅ぶじゃない」


「……………………………………に?」


魔女の言葉が何ひとつ理解できなくて完全に硬直したノエルに、魔女は柳眉をひそめて首を傾げた。先ほど水面の中で見たように、魔女は嘘をつくと魔力が失われる、はず。だから嘘はつけない、はず。けれどその前提知識が覆されてしまいそうだった。完全に思考が停止しているノエルに、魔女は少し考えるような顔をした後、そういえば、と言って手を打った。


「……貴女、竜王のことを拒絶して逃げようとしたとか馬鹿なことを言っていたし、私に大人しくついてくるし……もしかしなくても、本人のくせに竜人の番について何にも知らないのね?むしろ良くそこまでの無知でここまで生きてこれたわね」


未だに思考が追いつかないけれど罵倒されていることは分かる。無意識に耳と尻尾がへたれたノエルに、魔女は面倒そうにため息を吐くと、椅子を引いてノエルが座る机の前に腰掛けた。おそるおそる見上げたノエルの視線など気にすることなく、魔女は頬杖をついてすい、とその指先を宙に滑らせる。


するとその指先からいくつかの水の塊がふわりと宙を泳ぎ、それが目の前で少しずつ形を、色を変えていく。最終的にそれはデフォルメされた可愛らしい黄金色の竜の羽ばたく姿となり、ノエルは思わず驚いて声をあげてしまった。これくらいの魔法なら詠唱もいらないということなのだろうか、竜は自由自在にくるくると魔女とノエルの周りを飛び回ると、満足したかのように机に降り立ちその翼を畳む。デフォルメされているとはいえなかなか精巧なそれを、思わず顔を近づけて見つめてしまった。おそらく話を理解しやすくするために出してくれただけなのだと分かっているけれど、それだけにしておくには惜しいくらいだった。


「獣人には、番と呼ばれる本能が認めた特別相性の良い異性がいる。一目見た瞬間に惹かれ合い、お互いに尽くすことが至上の幸せだと言われている─────人間からしたら訳のわからない感覚だけど、曲がりなりにも獣人ならさすがにそれは知ってるでしょう。より強い子孫を残すために発達した本能だとか色々言われて研究もされているけれど、今は置いておくとするわ」


小さな竜に目を奪われていたノエルは、慌てて顔を上げると頷いた。物知らずなノエルでも流石に知らないわけがない。両親はとても仲の良い番だったし、何よりノエルはもう、唯一無二の愛しい番に出会ってしまったから。あの瞬間の衝撃を、引きずり落とされるような恋を、忘れることなどできるはずがない。離れてからずっと、今だって、アダン様のことが心から離れたことなどないのだから。


「─────……けれど、獣人を統べる竜の王にとって、番というものは普通の獣人よりもずっと、ずっと特別な存在なの」


突然、机に降り立ち翼を畳んでいた竜が飛び立ち、酷く悲しげな声を響かせた。魔法で音までつけられるのか、という驚きよりも、その声があんまり辛そうで、悲しそうで、ノエルは胸が苦しくなった。ノエルは彼の竜の姿なんて見たことがないけれど、間違いなくアダン様を彷彿とさせる見た目だから尚更。なにがかなしいの、と尋ねるように無意識に前足を出そうとして、けれどそれは日焼けなどとは無縁そうな手に払われてしまった。思わず顔を上げると、魔女がじろりとこちらを見下ろしている。手出し無用ということらしい。ノエルはにー、と残念そうにか細く鳴き、大人しく静観することにした。


「……竜人の番は運命の番と呼ばれていて、それに対する竜人の執着は異常なのよ。強さの代償として、数を増やしすぎないために神がそうしたのだ、なんて囁かれるくらいにはね。普通の獣人と違って番と出会えなければ諦めて他の者と子を成す、なんてことはできないから、竜人は血眼になって己の番を探すの」


魔女の言葉に、ノエルは目を見開いた。それは、ノエルの知らない知識だったから。悲しそうな声を響かせながら、小さな竜はあちこちを飛び回り始めた。必死できょろきょろと首を動かして、まるで何かを探しているかのように。これは、番を探しているということなのだろうか。あちこち探し回っては落胆したように頭を垂れる姿はただの魔女の魔術と分かっていても憐れみを誘って、思わずノエルも耳と尻尾をへたらせてしまった。やがて小さな竜は顔を上げ、何か思いついたかのように床に魔術の陣のようなものを描き出した。これは一体何をしようとしているのだろうとはらはらしてしていると、魔女はこれが竜王がこの土地と結んだ盟約よ、と注釈を入れた。


「『この国に女児が産まれたら必ず竜王の番であるか確かめなければならない、破ったものは竜王直々に厳罰に処す』─────……実際はこんな簡易的な陣で済むものではなくて、長い歳月をかけて竜の血と最上の魔術でもって行われた大掛かりなもの。竜王直々の命令よ、逆らえる獣人なんて存在しない。……本来ならね」


必死で魔女の言葉を咀嚼して、ノエルはゆっくりとその赤い瞳を驚愕に染めた。そんな命令がこの国の土地と結ばれていたことなんて、何ひとつ知らなかった。ノエルの世界はとてもとても狭くて、両親が教えてくれた知識、与えてくれた本だけが全てだったから。ようやく、先程の水鏡の中の両親と、白銀の髪の魔女の会話の全容が見えてくる。不吉の象徴の黒猫獣人であるノエルの存在が公になればどうなるか分からなかったから、両親はどんな対価を求めてくるか分からない魔女に頼ってまで、盟約に逆らってノエルの存在を隠してくれたのだ。─────……まさか、ノエルこそが竜王の番だなんて、思ってもみなかったから。


どくりどくりと、ちいさな鼓動が早まっていく。まだ、どこか他人ごとみたいだった。竜王の番、と言われるとぴんとこないけれど、アダン様の番とは即ち、一応は私のことであるはずで。─────……私を探すために、ずっと昔からそんな大掛かりな儀式を行なって、それで下された命令に、この国の全ての獣人が縛られているなんて、そんなこと。想像もつかないような大きな話で、とても心が追いついていかない。あの白銀の魔女だって悔いはないと言っていたけれど、盟約に逆らうために魔女としての力の大半を使い切ってしまったから、見切りをつけてああいう形で魔女としての魔力を手放したはずで。しかもそれだって、もうずっと過去のことで。あまりの影響の大きさに、血の気が引く思いだった。


─────……アダン様のことが愛おしくて。アダン様をなにがあっても絶対に危険には晒したくなくて、そのために離れることに必死だった。だから、アダン様が私に向ける感情に対して、深く考える余裕なんてなかった。そんな中でも伝わるくらいには、好意も優しさも、惜しみなく彼は渡してくれて、私にも想われたいと、そう言ってくれたけれど。でもそれは、偶然出会った番が獣人ですらなくても気にしないという、アダン様の優しさだと思っていた。不吉な黒猫が本当に厄災を運ぶ存在であることを彼は知らないから、竜王の力の前ではそんなもの、些事だと考えているんだと─────……普通の飼い猫みたいに、傍に置いておこうとしてくれているんだと、思っていたけれど。……でも、それはもしかして、間違いだったのだろうか。愕然とする私を魔女はしばらく見つめた後、ゆっくりと口を開いた。


「─────……貴女、竜王がどうしてここ数百年表舞台に出ていないか。それも知らないのね?」


はっと顔を上げた私の視線が、何よりも雄弁だったのだろう。魔女は額に手をやると、地の果てまで届きそうなため息を吐いた。する、と宙を手繰るように魔女が指先を動かすと、暫く期待するように足元の魔法陣を見つめていた黄金の竜が、諦めたようにゆらりとその身を起こした。


「はぁ……さすがに少し、竜王に同情するわね。ちゃんと見ていなさい─────……自分がどれほど厄介な相手に目をつけられたのか」


魔女が操る小さな竜が、ゆっくりと動き出す。未だ全てを理解できていないけれど、ひしひしと予感を感じていた。─────……これは、ノエルが知り得なかったもの。そして、自分のことにばかり必死になって、目を逸らし続けていたものだ。


作り物の竜と同じようにちいさな黒猫が、喉を鳴らす音がいやに大きく部屋に響いた気がした。ふと脳裏に思い起こされたのは、別れ際のアダン様の口元に浮かんでいた笑み。そうだ、あの笑みはまるで─────……絶望の果てに、何もかもを手放してしまったかのような。


「─────番に出会えなかった竜人は、やがて狂い果て、何もかもを壊し尽くす狂獣になるのよ」


ここまでの閲覧ありがとうございます。もし応援してやってもいいよ!と思ってくださったら、↓の☆☆☆☆☆を★★★★★にしていただけると作者が泣いて喜びます。

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