ナーラダとムンダ王・そして、ビサーカ
さらに、マガダのパータリプトラに建てられたクックタ精舎・鶏園寺は、釈迦牟尼世尊の滅度後二百年の間、仏法を学ぼうとする多くの修行者が集う地となった。
ナーラダがこの精舎に留まっていたときのことである。ムンダ[文荼]王の最愛の妃バッダーが亡くなり、王は悲しみのために沐浴もせず、髪も梳らず、食事も摂らず、政事も見ず、夜昼、王妃の身体を抱いていた。王は財務官のプジャカを呼んで、いつまでも王妃の身体を見ていられるように鉄の桶を作って油を満たし、遺骸を中に収めて鉄の蓋をさせた。この王の有様に心を痛めたプジャカは、誰か徳の高い人を頼んで王の悲しみを除いてもらうより他に道はないと考え、そのころ鶏園寺に滞在していたナーラダのことを思い出して王へ勧めた。
「大王よ、今ナーラダ尊者がパータリプトラの鶏園寺におられます。尊者は勝れた智慧があって賢く、法を説くに巧みな老いた聖者であると云われております。大王がもし尊者に教えを乞われたならば、必ず悲しみの矢を抜いて貰うことが出来ようかと思います」
「それでは、ナーラダ尊者に知らせよ。私は我が領地に住む出家やバラモンに知らせもなしに行こうとは思わぬ」
王は、虚ろな眼を彼に向けた。
「かしこまりました」
と、プジャカは答えて、直ちにナーラダ尊者を訪ね、理由を打ち明けて教えに依って王の悲しみを除いて下さるようにと願った。ナーラダが快くその願いを許したので、プジャカは王を促し、鶏園寺を訪れた。
ナーラダが云う。
「大王よ、いかなる世界においても、なし得ないことが五つある」
かつて伯父のアシタ仙人の遺言によって世尊のもとへ参じたナーラダはその教えを受け、老いた今は人に名の知られた比丘となっていた。
「……それは老いゆく身でありながら老ゆるなと云うこと、病むべき身でありながら病を避けること、死ぬべき身でありながら死にたくないと云うこと、尽きるべき身でありながら尽きるなと云うこと、滅ぶべきものでありながら滅ぶなと云うことである。この五つのことは如何ようにしてもなし得ない。大王よ、智慧の乏しい常並みの人々は、その老ゆるべきものが老い、病むべきものが病み、死すべきものが死し、尽くべきものが尽き、滅ぶべきものが滅びた時、いたずらに泣き悲しみ、心迷いに陥る。けれども、智慧の豊かな仏の弟子はこの場合、次のように考える。『これら老いや病や死などは、私の上に計り来るのではない。人々に生まれかわり死にかわりのある限り、すべての人の上に来るものである。もし私がこれについて、泣き悲しみ、心迷いに陥るならば、食は進まず身体は衰え、仕事はできず敵は喜び、そして味方は悲しむであろう』と。こう考えて泣き悲しまない。常並みの人々は毒の矢に射られて自ら苦しみ、仏の弟子は毒の矢を避けて憂いがなく、自ら寂静の境に入るのである」
ムンダ王はナーラダの言葉に静かに耳を傾けていた。そして、しばらくの沈黙ののち、云った。
「尊者よ、この教えは何という名であろうか」
「大王よ、悲の矢を抜く教えと云われるものである」
王が顔を上げた。
「……尊者よ、たしかにこの教えは悲の矢を抜く教えである。私の悲しみは、この教えによって抜き去られました」
そしてムンダ王はプジャカに向かって云う。
「それでは、王妃の身体を焼いて、塔を建てるがよい。今日から私は沐浴もし、髪を梳り、食事も摂り、王事も見るであろう」と。
また精舎にはこの他に、女性の手によるものもある。東園精舎・鹿子母講堂と呼ばれるのがそれで、コーサラ国の都シュラーヴァスティーに住むミガーラ(鹿子)長者の嫁ビサーカの発願によるものであった。
ビサーカはアンガ国のメンダカ長者の孫娘として生まれ、幼い頃、祖父に連れられて世尊の法話を聴いたことが機縁で信者となった。長者の子プンナワッタナの妻としてビサーカを迎えたミガーラ家ではニガンタ・ナータプッタの教えを奉じていた。しかし彼女が嫁いでからしだいに世尊の教えを聴くようになり、舅のミガーラは釈迦牟尼世尊の教えの方がニガンタのそれよりも勝れていることを知った。
「法に眼開くよう導いたビサーカは、娘というより敬うべき我が母である」
と、歓喜した長者が言いふらしたので、彼女は『ミガーラの母ビサーカ』と呼ばれるようになった。
ビサーカはこのようにして夫の一門を導いてことごとく世尊の信者と為し、彼女自身は常に祇園精舎に詣でて聴聞と供養に日を送っていたが、そのうちに自ら精舎を建てたいという志願を起こすようになった。
土地の選定についてはコーサラ国王の寵姫マッリカー夫人の力を借り、城外の東南、祇園精舎の東北に王所有の林を譲りうけて、各階に四百の房をもつ二階建てをたてた。造寺の監督にはマウドガリヤーヤナ[目連]が当たり、大金をかけ、九ヶ月を費やしてそれは出来上がった。