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比丘たち

 出家した仏弟子は初め、「仏の子(娘)」「仏の嗣子(しし)」と呼ばれていたが、のちに「乞う人」という意味の比丘(ビク)と呼称されるようになった。ただそれは二十歳を過ぎて具足戒(ぐそくかい)を受けた者のことで、二十歳未満で戒を受けられない者は沙弥(しゃみ)といった。比丘の戒は二百五十あったが、沙弥には在家の人々が斎日(さいじつ)に守るべき八つの戒と、歌舞音曲の禁止、金銀貨幣を持たない、といった二つを加えた十戒が課せられていた。また、高徳の修行者は尊者、僧伽の年長者は長老(長老尼)とも呼ばれた。

 彼らの日常は、早朝に起きて瞑想し、托鉢に出て食を乞うた。食事は一日一回、午前中に摂ることが許されていた。

 腰から下をおおう下衣、上半身をおおう上衣、そして正装用の大衣(だいえ)という三衣(さんね)と、鉢、坐具と水こし袋の六物(ろくもつ)のみ(後に医薬が加わる)を持ち、住居を定めず、樹下あるいは石窟や廟社墓地、のちに精舎などに寝泊りして各地を巡り歩いた。

釈迦牟尼世尊が教えを説き始めた当初、出家者も三宝帰依を表明するだけで入門を許されたが、弟子が増えるにつれ心構えが十分でない者も出てきたので、細かな生活指導をし、病気などのとき世話をする者が必要となってきた。そこで、和尚(オッジャー)[ウパーディヤーヤ、師匠]の制度が設けられた。

 成人の出家者で僧伽(サンガ)に加わりたいと願う者は、まず和尚(オッジャー)を定める。そして、和尚(オッジャー)は入門する者のために衣や鉢を用意し、具足戒を受けさせた。

具足戒の儀式は、戒和尚と作法を教授する教授阿闍梨(きょうじゅあじゃり)、作法を実行する羯磨(こんま)阿闍梨あじゃりといった三人の師匠によって執り行われ、他に立会人として七人の証人が必要であった。【三師七証】

 しかし、例外もあった。アランニ国の帝師の子であったカーティヤーヤナ[カッチャーヤナ・迦旃延(かせんねん)]が遠く西方へ教えを広めにいったときのことである。彼はヴァンサを過ぎ、西のシューラセーナの都マトゥラーで王に法を説いたのち、隣国のアヴァンティへと入った。その地の王プラディヨータは狂暴な性格で知られ、(まつりごと)も理に外れたことが行われていた。このアヴァンティでカーティヤーヤナは苦労を重ねながら布教をしていた。そのうちに、彼の侍者をしていたソーナコーティカンナという若者が自分も出家したいと云い出した。ところが具足戒の儀式には十人の比丘が必要なのにこの国には出家者がほとんどいなかった。それでもカーティヤーヤナは十人の比丘を集め、若者に戒を受けさせてやった。そして、世尊に会いたいと願うソーナが許されて旅立つとき、彼は伝言を託した。

「ソーナよ、世尊にこのように伝えてほしい。遠い異境の地では比丘の数がきわめて少ない。どうかこれからは、具足戒を授ける比丘の数を減らすことをお許し下さい、と」

 長い旅路の果てに祇園精舎へ着いたソーナは世尊に会ってこれを告げた。そして、彼らの師は云う。

「アヴァンディ国においては、五人の比丘によって具足戒を授けることを許そう」

 他にもその土地、地域において守ることが難しい幾つかの戒を改めることもあった。

 こうして入門を許された修行者は二百五十の戒を守り、和尚(オッジャー)の身の回りの世話をし、付き従い、疑問があれば教えを請うた。一方、和尚(オッジャー)は弟子を指導し、足りない物があれば調(ととの)えてやり、戒を犯したときは反省させ、病気のときは面倒を見たのだった。

 また、僧伽では、パーラージカ[波羅(はら)()]と呼ばれる重罪――淫(性交をする)、盗(五マーシャ以上を盗む)、断人命(自分で人を殺したり、他人に殺させたり、自殺をすすめて死なせたりする)、大妄語(さとりに達していないのに達したと偽りを語る)の四項目のいずれかを犯すと、比丘としての資格を失い、追放されることになっていた。だが、その他の罪は、ウポーサタ[布薩(ふさつ)]で告白懺悔すれば許された。

 (ウポー)(サタ)はもともとヴェーダの祭りに、バラモンたちの間で行われていた集まりである。その日、集まった人たちは教えを語りあい、犯した罪を反省した。世尊はビンビサーラ王の勧めによってこの慣習を取り入れた。毎月、満月と新月の日の二回、居住する地区の集会所に集まって行われ、そこでは戒律の条項パーティモッカ[波羅堤木(はらだいもく)(しゃ)]が一条につき三度読み上げられた。その間に、罪を犯した比丘は告白することになっていた。

 その他、僧伽の制度として重要なものに、()安居(あんご)がある。

 初めの頃、時期の関わりなく出歩いていたところ、世の人々から非難された。

「空飛ぶ鳥も雨の季節には樹の頂きに巣を営んで安居(あんご)を守り、邪教とけなされている他の教えの人々も、この間には一処(ひとところ)に住って安居(あんご)をする。しかるに何故、仏の教えを守る遊行者達は、雨のとき、ようやく芽生え出した緑の草を踏んで命を縮め、はい出した昆虫(むし)をあやめて遊行するのであろうか」と。

 そこで仏弟子たちも習慣に従い、雨期の間は一ヶ所に定住して坐禅や修養をすることとなった。

 安居(あんご)は九十日間続き、最後の日はパヴァーラナ[自恣(じし)]という総括の反省の(つど)いをして、彼らは再び修行の旅へ出かけていった。

 この安居(あんご)の期間中、比丘たちが留まるのは、在家信者の家か精舎(しょうじゃ)であった。その精舎も、竹林精舎が建てられ、仏陀の教えが広まるにつれ、各地で大小の精舎が次々に造られていった。名の知られるものではコーサラ国シュラーヴァスティーの祇園精舎の他に、アンバータカ精舎、またヴァンサ国コーサンビーのクシタ、クックタ、パーワリカという三人の長者によって、瞿師多(くした)精舎、クックタ精舎[鶏(けい)園寺(おんじ)]、パーワリカ精舎が建立された。



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