シャーキャ族の王・マハーナーマ――2
そして別の日に、マハーナーマは再び訊く。
「世尊、今カピラヴァストウは栄えて人馬の混雑がたいへん激しゅうございます。これがため私は世尊や御弟子方にお給仕して夕方城へ帰りますとき、行き交う象、馬、人々に遭い、世尊と法と御弟子方に対する憶念を忘れてしまいます。もしかような時に死にましたなら、何処へ生まれるでありましょう」
その日も、世尊とマハーナーマは城外にある尼拘盧陀の林にいた。弟子と家臣たちに取り巻かれて対座した二人に、木漏れ陽が降りそそぎ、風に揺れている。
マハーナーマは自尊心の強いシャーキャ族の人々を上手くまとめ、カピラヴァストウを繁栄に導いていた。憂いは何もなく、このときも穏やかな時間が流れている。けれどもマハーナーマの心には、ふと不安が萌した。
その心の動きを理解した世尊は王に云う。
「マハーナーマよ、恐れることはない。汝の死は禍ではない。誰でも平常心を信と戒と聴聞と喜捨と智慧に練り上げておけば、その身体は何時いずこに死んでも、心は勝れた処へゆくものである。たとえば牛酪や油の壺をふかい水溜りのなかでこわせば、壺の破片は底へ沈むが、牛酪や油は上へ浮かぶようなものである。汝は平常心を信と戒と聴聞と喜捨と智慧とに練り上げているから、汝の死は決して禍ではない。マハーナーマよ、仏と法と僧伽とに壊れない信仰をいだき、聖者の讃える戒をそなえる人は、必ず涅槃に入るものである。これは、ちょうど東に傾いている樹を切れば東へ倒れるように確かである。汝の死はいつ来ても決して禍ではない」
またある日、マハーナーマはシャーキャ族の聖者に問う。
「世尊、いかなる範囲で仏の信者と呼ばれますか」
「マハーナーマよ、仏と法と僧伽とに帰依する、これだけで信者である」
「世尊、信者の戒と信と喜捨と智慧を具えるというは、いかなる範囲のことでありますか」
「マハーナーマよ、殺生をやめ、盗みをせず、邪淫を犯さず、虚言をいわず、酒をつつしむのが信者の戒である。仏の菩提を信じるのが信者の信である。貪り惜しむ心をはなれて家に住み、施しを喜ぶのが信者の喜捨である。物みなが生まれ滅びる理を知り、欲の世を厭い離れることを知り、苦をなくする道を知るのが信者の智慧である」
そして世尊は尼拘盧陀の林に三月の安居を送り、衣の用意を整えて再び遊行に出掛けようとした。マハーナーマはこれを聞いて林へやってき、師に申し上げる。
「尊い方よ、……世尊はいま衣のしつらえもととのうて、いよいよお出かけなされるということでありますが、世尊のかつて仰せられました信者が病の床にある信者を訪ねて慰める仕方は、いかようにいたせば宜しいでありましょうか」
その人は病重く、死を目前にしていた。彼を慰めるにはどうしたらよいであろうかと、マハーナーマは訊いた。
世尊が応える。
「マハーナーマよ、信者が病んでいる友をおとなうとき四つの慰めをもって励まさねばならぬ。『友よ、あなたは仏と法と僧伽とにそれぞれ壊れない信仰を抱き、聖者の讃え給う戒をまもっておられた。この四つはあなたの慰めである』と。
かように慰めて、更に次に云わねばならぬ。『あなたは両親にむこうて愛着を覚えていられますか』
もし覚えていると答えるならば、『愛着を覚えていても居ないでも、死なねばならぬから、両親への愛着を捨てるがよい』と云わねばならぬ。
もしまた、両親に愛着がないと答えるならば、次に『妻子に愛着を覚えるかどうか』を聞き、愛着があると答えたならば、『死んでゆかねばならぬから、愛着を離れるがよい』と勧めねばならぬ。
もしまた妻子への愛着を離れたと云えば、次に『人間の五欲に愛着が残るかどうか』と聞き、愛着があると云うならば、『人界の五欲にくらべて、天界の楽しみはすぐれているから、人界の愛着をはなれて天界に心を遊ばせよ』とすすめ、だんだんにその心をかためて『神々の世界もなお、無常を免れないから、心を涅槃にむけよ』と教えねばならぬ。
もし病んでいる信者が神々の世界から心を離して想いを涅槃に運び、すべての煩悩から離れたならば、出家の弟子と何の違いもないのである」
彼らの師は、このように教えたのであった。