シャーキャ族の王・マハーナーマ――1
そしてまた、釈迦牟尼世尊はマハーナーマの問いにも答える。
父シュッドーダナ王が亡くなったあとも世尊は故郷のカピラヴァストウを幾度も訪れた。その際、次の王となった従弟のマハーナーマはシャーキャ族の聖者を厚く遇し、さまざまな質問を投げ掛けた。
「世尊、私は長い間、世尊が『貪欲と瞋恚と愚癡とは心の汚れである』と説かれたことを有難く頂いて居ります。しかもなお、時々これらの煩悩が私の心を捕らえますが、それは何かまだ私の心に、捨てるべきものが捨てられないでいるのではなかろうかと考えるのです」
世尊は云う。
「マハーナーマよ、その通りである。それは、その貪欲と瞋恚と愚癡とが汝の心の内に棄てられてないからである。もし汝の心のうちにこれらの煩悩が捨てられてあれば、汝は家庭に住まず、欲をあさり求めぬであろう。『欲には何処まで行っても飽き足りるということがなく、それ自体苦しみに満ち、望みを絶たせ、禍に陥れるものである』と、正しい智慧によって知って見ても、この欲の外の幸福に達しなければ、欲に追われるということから免れえぬのである。正しくそのように知ると共に、欲の外の幸福に達すれば、欲の追いすがりを離れるのである。
マハーナーマよ、これは私の経験である。私がまだ覚を開かぬ以前は、『欲には何処まで行っても飽き足りるということがない。それ自体苦しみに満ち、望みを絶たせ、禍に陥れるものである』と正しく知っていたが、欲の外の幸福に達していなかったから、それらの欲に追われ通しに追われていたのである。そののち、そのことを正しく知ると共に、欲の外の幸福に達したから、今それらの欲の追いすがりを免れたのである。
マハーナーマよ、欲の楽しみとは何であるか。
欲に五つある。それは好ましく心地好い、色と声と香と味と触とである。この五つの欲に対して、楽しみと喜びが生ずる。これが欲の楽しみである。
マハーナーマよ、欲の禍とは何であるか。
人々がいろいろな職業によって生活を立て、そして暑さ寒さに晒され、風や雨や蚤、蚊、蛇などに苦しめられ、飢えと渇きに悩まされる。しかもこのように勤め励み、骨を折ってみても、富を得ることは出来ない。そのために疲れ悩み悲しみ、胸を打って泣く。『ああ、私の努力は無益であった。私の勤めはかいなかった』と。
マハーナーマよ、このように勤め励み、骨を折ったその果として富を得るとする。彼は今度はその富を守るために、いろいろな苦しみを味わされる。『どうしたら王に取り上げられないであろう。盗賊に取られないであろう。火に焼かれないであろう。水に運び去られないであろう。厭な親類に奪われないであろう』と、さまざまに心配するが、しかもその果てには、王に取り上げられたり、盗賊に奪われたり、水に運び去られたり、火に焼かれたり、厭な親類に奪われたりする。彼は疲れ悲しみ嘆き、胸を打って泣く。『ああ、私のものであったものが、すでにはや私のものでない』と。これが欲の禍である。現在の苦しみは、みな欲を因とし欲に依るものである。
マハーナーマよ、また、ただ欲のために、王は王と争い、バラモンはバラモンと争い、親は子と争い、兄弟は兄弟と争い、姉妹は姉妹と争い、友は友と争う。喧嘩争闘口論をなし、果ては棒をとり剣をとって殺し合いをする。これが欲の禍である。
マハーナーマよ、また欲のために敵味方分れて互いに楯をとり剣をとり、弓と箙を結んで突き進む。矢は飛び槍は走り剣は閃き、互いに貫き、互いに刺し、互いに頭を刎ねる。これが欲の禍である。
マハーナーマよ、また、この欲のために、人々は身体を持ち崩し、掠奪をなし、追剥をなし、姦淫をする。王はこれを捕らえ、種種の刑罰を加える。鞭を以って打ち、杖を以って打ち、棍棒を以って打ち、手を切り、足を切り、耳を切り、鼻を切り、頭蓋を割いて熱鉄をあて、頭の皮を剥ぎ、小石を以って頭蓋骨を磨って貝殻のように白くし、火を以って口の内を焼き、口より耳まで裂き、身体を布を以って覆って油をかけて焼き、手を焼き、喉から踝まで皮を剥ぎ、また胸から踝までの皮を剥ぎ、肘と膝とを鉄の柱に釘付けにして周囲に火を焚き、両端の尖った鈎針をもって皮膚や血管を引き裂き、鋭い手斧にて賽の目のように身体を切りきざみ、身体を傷つけて塩水にてこれを洗い、身体を地上に横たえて延ばし、両耳に鉄棒を通してこれを巻き、身体を乱打して藁束のように柔らかにし、身体に灼熱した油を注ぎ、餓えた犬の餌食となし、生きながらに串刺にし、剣をもって頭を刎ねる。これらの苦は、みな欲の禍である。
またマハーナーマよ、欲のために、人々は身と口と意とに罪を累ね、罪の故に死してのち地獄でいろいろな苦を受ける。これが欲の禍であって、未来の苦もまた、欲を因とし、欲に依るのである」
目覚めたる人は、このように説いた。