悔い改めた者・アングリマーラ、サーガタ
彼のように無欲で、平穏な生涯を送った人物がいる一方、強盗や殺人を過去に犯した者たちが僧伽にはいた。そのひとりがアングリマーラ[央掘摩羅・指鬘]である。
彼はかつてアヒンサカ[傷害せざる者]という名の好青年であった。血筋の良いバラモンの家に生まれ、学問を究めようとそのころシュラーヴァスティーでは博識で知られた老バラモンのもとへ弟子入りした。彼は力強く才智あり、素直な性格の上に顔容も勝れていたので人々に愛されていた。
ところがある日、師のバラモンが外出したときに夫人が彼の室を訪れた。師には歳の離れた若い妻があった。彼女は、かねてから美しく逞しいアヒンサカに興味を持ち恋い慕い、夫の留守にその想いを打ちあけに来たのだった。
アヒンサカは驚き怖れた。そして、跪いて云った。
「師は父にあたります。されば奥方は母。道ならぬことは心苦しい極みであります」
「何をおっしゃる」
欲情に潤んだ瞳をきらめかせて夫人は近寄り、彼に触れようとする。
「飢えたものに食を与え、渇いたものに水を与えるのが、何故、道ならぬことでしょう」
彼女は世間的にはともかく、男としての老バラモンに満足していなかった。
甘く匂いたつ艶やかな肢体を見せつけ迫る夫人に、アヒンサカは身体をこわばらせ、後退りした。
「いいえ、師の愛しい奥方と狎れあうのは、毒蛇を体にまとい、毒を呑むのと変わりません」
(妾が毒蛇……)
そう云われて夫人の情熱も冷めてしまった。
烈しく拒絶され、夫人はなす術もなく房へ戻ったが、腹立ちが収まらない。
(この屈辱、どうしてくれよう……)
そこで自ら衣を引き裂き、床に打ち臥して、夫の帰りを待った。
朝早くに出かけたバラモンは、昼過ぎに家へ帰ってきた。そして妻の尋常でない様子に驚き、騒がしく理由を訊く。
それに対して、妻は青ざめた顔を上げ、絶え入るような声でかきくどいた。
「あなたが常日頃誉める、あの賢しい弟子のために、妾は恐ろしい辱めを受けました」
と、女はさめざめと泣いた。
「なんということだ!」
バラモンの胸には怒りと嫉妬の炎が燃え広がった。しかし、アヒンサカを打ち殺そうにも、この弟子の力はあまりにも強い。
(ならば……)
と、彼は考えた。
(むしろ逆さの教えを与えて人殺しの罪を作らせ、現世においては刑罰を、未来には地獄へ落としてやろう)
そこで師であるバラモンは、アヒンサカを呼んだ。アヒンサカは師の思惑など露ほども知らず、その前に恭しく跪いた。
「アヒンサカよ、そなたはよく学んだ。そなたの智恵はもう深奥に入っているが、ただ最後に為すべきものが一つ残されている」
バラモンはそう語り、厳かに一振りの剣を取り上げると、それを彼に与えた。
「さあ、アヒンサカよ、これを取って四辻に立ち、一日に百人の命を断って一人に一指をとり、百指をつないで首飾りとせよ。さすれば、真の道が具わるであろう」
「師よ……」
驚いて言葉もないまま顔を上げたアヒンサカに、彼の師は冷ややかな一瞥をくれて奥へと入っていった。
(どういうことだ……)
ぼう然とし、アヒンサカは師より渡された剣を見つめた。突然、奈落の底へ落ちたような気がした。師匠の命令は絶対である。
(我が師の命に従えば人の道を失い、師の命に違えば善き弟子とはいわれない。清い行いを励み、父母に孝、他のためには善を為し、邪を捨てて正しきに赴き、心柔らかに情け深いのがバラモンの法と聞いていた。それなのに何故、師はこのような酷い教えを与えるのか……)
彼は混乱していた。
(我が師は偉大な学者である。その教えに偽りはない。しかし……)
矛盾に悩み苦しみながら、アヒンサカはふらりと立ち上がった。そして師匠の邸を出て、街の四辻へとやって来た。
昼下がりの通りは午前中より量が減ったとはいえ、市場へ往くもの帰るもの、華やかな衣を身につけた男に女、走る子供に杖つく老人、荷駄の往来も忙しげに暑い陽射しの中、土埃が舞い、人声車馬の音が騒がしい。
道ゆく誰もが話し、笑い、アヒンサカの苦しく惨めな心など知らず、変わらぬ日常を営んでいた。アヒンサカには、そのすべてが輝いて見えた。けれども自分はどうであろう。
(何故、私だけが……)
師の命令に従わず家へ帰れば、バラモンの仲間内では落伍者と見なされる。師からは難問を与えられて突き放され、彼は人生の切所に立っていた。
(私に人が殺せるだろうか。だがしかし……)
懊悩の果てに彼の心は平静を失った。道端に佇み、両手に抱えた剣の柄をただ見つめていた。彼の心は闇に閉ざされ、他を考えることも出来なくなっていた。
と、ふいに甲高い笑い声が耳につき刺さった。顔を上げれば、数人の女たちが笑いさざめきながら目の前を通り過ぎてゆく。
アヒンサカの胸の奥から、激しい怒りが湧き起ってきた。
(どうして私だけが、このような目にあわねばならぬ!)
アヒンサカは思うと同時に剣を抜き放ち、女を斬り捨てた。
悲鳴が上がる。
その場は騒然となった。
『殺せ』
師の声が耳元で云う。
アヒンサカは女の死体から指を切り取った。
『殺せ!』
彼は次の獲物を捜した。眼は血走り、髪は乱れ、衣は血で染まっている。そしてアヒンサカは逃げ遅れた物売りの男を一刀のもとに斬り伏せた。
血煙とともに骸が転がった。荷駄を捨てて人々は逃げ惑い、泣き叫ぶ。けれども容赦なくアヒンサカは指を切り取りながら、ひとりまたひとりと街の人間を殺していった。
人々の怖れは響きのように街中へ伝わった。罵りの声、怨みの声は渦を巻き、王宮に訴える者も出た。だが、彼はそれに関わりなく殺し続け、死者から指を集めて首飾りとしたので、アングリマーラ[切った指でつくった輪をかけている者]と呼ばれた。
この出来事は托鉢から帰った弟子たちによって世尊にも報らされた。すると釈迦牟尼世尊は祇園精舎を出て、ただちに街へ向った。
(この者を救わねばならぬ)
途中、牧草を車に載せてやって来る男たちが、シュラーヴァスティーへ行こうとしている世尊へ云った。
「尊い方よ、この道を往ってはなりませぬ。恐ろしい人殺しが道を塞いでおります」
しかし、世尊は応えた。
「世をあげて私に刃向うたとて、恐れることはない。まして一人の賊が何であろう」
やがて街に入ると、そこに人気はない。人々はみな、殺人者を怖れて逃げ散ってしまっていた。ところがその道を、帰らぬ我が子を心配したアヒンサカの母が迎えに出てきた。
彼方からは、すでに九十九人殺して指を繋げたアングリマーラが最後のひとりを捜してやってきている。
(あれが百人め……)
好物の餌を見つけた捕食者のように、彼はほくそえみ、その女に向って走り出した。
同時に、母親も息子を認めた。
「我が子よ!」
息子が殺人者となっているとは知らない母は、喜んで駆け寄ろうとした。
が、その前を世尊が遮る。
「何をなさいます、沙門さま。あれは……」
次の瞬間、母親はさとった。いま街を騒がせている殺人鬼こそ、我が子であると。
ぬらぬらと全身血にまみれ、両目をいからせ、首に死人の指をかけた姿は、話に聞く夜叉か悪魔のようであった。
母親は悲鳴を上げ、腰を抜かして座り込んだ。
するとアングリマーラは眼前にいる世尊に狙いを定め、飛びかかろうとした。
ところがどうしたことか、そこから一歩も進めず、剣が振り下ろせない。
「出家よ、止まれ!」
アングリマーラは思わず叫んだ。
「私は前から此処にいる。立ち回っているのは汝ではないか」
世尊は静かに応えた。
(こやつは何だ)
彼は不審に思うと共に、畏怖を感じた。眼前の沙門は他の人々のように恐怖に顔を歪めることもなく、怯えもせず、寂かにたたずんでいる。
(人ではない、まるで……)
枝を広げ、大地に根を張る神樹のようであった。
出家の深く穏やかな息吹が、アングリマーラの気勢をそいだ。
彼はうめいた。
「私は立っているが、汝は立っておらぬ」
世尊が歩み寄りながら、云う。
(どういうことだ。この沙門は頭がおかしいのではないか)
自分が今まで為したことも忘れて、彼は思った。
「沙門よ、あなたは歩いているのに『立っている』と云い、私は立っているのに『立っていない』と云う。これは如何なることでありますか」
彼は訊いた。
「アングリマーラよ、私は一切の生きとし生けるものに対する暴力を抑制して常に立っている。しかるに汝は生きるものたちに対して害する心を抑制していない。それ故、私はこの世の中に静かに立っているが、汝は立っていないのだ」
声が、甘露のようにアングリマーラの心へ注がれ、胸にある怒りの炎が消えてゆく。
彼は剣を取り落とし、がくりと両膝をついた。
「私は……」
アングリマーラは血に染まった自分の両手を、ぼんやりとみつめている。
彼の母が泣いていた。そして、世尊の衣の裾へすがる。
「尊い沙門さま、どうかこの子の命を、魂をお救いください」
アヒンサカも悪夢から醒めたように我に返り、その場でひれ伏した。
「どうか、私の迷いをお恕し下さい。私は指を集めて道を得ようとしました。どうぞ、私を済うて御弟子の数にお加え下さい」
こうしてアヒンサカは世尊に伴われて祇園精舎へ行き、出家したのであった。
その直後、街を騒がせた凶賊を追って兵を率いたパセーナディ王が精舎へやってきた。
「アングリマーラという殺人鬼が世尊と共に去ったと聞き及びましたが……」
居室へ通された王が云うのに、
「いかにも」
と、世尊が微笑む。
「王の求むるアングリマーラは、ここに髪髭を剃って善い出家となっている。前の罪を改め、今は仁の心に満ちています」
「まさか」
パセーナディ王は絶句した。人がそれほど急激に変われるはずがない。
しかし、アングリマーラのいる房へ案内され、坐禅する姿その静かな面、浄らかな瞳を見て、王は得心した。
「私は尊者の命終わるまで、供養を為すであろう」
と、王は出家に対する礼を行った。そして、云う。
「世尊は常に慈しみをたれて悪逆を伏せ、法の集いに入らしめたまいます。なおこの上は、いっそう我が国民をお導きください」
パセーナディ王はこうして精舎を後にした。
けれども、王が理解を示しても街の人々は依然としてアングリマーラを殺人鬼として見た。翌日、彼が托鉢に出ると、シュラーヴァスティーの街中は恐慌に陥った。ある家の妊婦などは驚きのあまり、にわかに産気づいて苦しみはじめた。そのため、家族、親類の者たちが彼を罵った。
だが、妊婦を気の毒に思ったアングリマーラは精舎へ帰って師に助ける術を請うた。
「アングリマーラよ、汝は直ちに行って女に語るがよい。『私は生まれてこのかた、殺生をしたことはない。この事が真ならば、汝は安らかに産むであろう』と」
アングリマーラは驚いた。
「世尊、私は九十九人の命を断ちました。さように申すことは二枚舌ではありませんか」
しかし、世尊は云う。
「道に入る前は前生である。生まれてこのかたとは、證を得てからのことである。されば、これは決して妄語ではない」
教えを受けたアングリマーラはすぐさま女の許へ行き、世尊の言葉通り語ると、彼女は安らかに産むことが出来た。
(私はすでに殺し殺されるという悪しき縁によって多くの人を傷つけた。だがその罪深き私が今は仏弟子となって生命が産み出される場に立ち会い、また些かその手助けができた。なんと奇しきことであるか……)
彼の胸には深い感動が湧き起こった。
けれどもその往き返りの途中、彼に怨みのある人々が石や瓦を飛ばし、杖や刀をもってさんざんに彼を傷つけた。そのためアングリマーラは全身紅に染まって、よろめきながら精舎へ帰ってきた。
ところがその顔は晴れやかで、彼は師の御足を拝したのち、悦の思いを告白した。
「世尊、私はもと無害の名を持ちながら、癡なために多くの人の命を害い、洗えども清まらぬ血の指を集め、指鬘の名を得ましたが、いまや三宝に帰依して證の智慧を得ました。馬や牛を調えるには杖を用い、象を教えるには鉄の鈎を用います。しかるに世尊は、剣も杖も用いないで残虐な私の心を調えて下さいました。ちょうど、雲に覆われた月が、雲消えて光を現すようなものであります。私は今、受くべき報を受けました。正しい法を聞いて清い法の眼を得、忍ぶ心を修めておりますから、また争うことはありません。世尊、私はいま生きることを願いません。死もまた望みません。ただ時の至るをまって涅槃に入るでありましょう」
彼の師はこれを聞いて誉め、
「我が弟子のうち、法を聞いて疾く解る智慧をもてるものは、アングリマーラである」
と、語った。
またサーガタ[善来]も、改心して出家した者である。
彼はコーサンビーの長者ボーダの子であった。歳の離れた姉はスダッタ長者の息子のもとに嫁いでいた。ところが生まれて間もなく家産が傾き、やがて一切の財産を失ってしまった。貧しくなると、周囲の人間は態度を急変させる。心すさみ、街をうろついて悪事を為す彼を人々はデュラーガタ(悪来)と呼んだ。姉のもとに身を寄せることも出来ず、人に嫌われ乞食をして苦しんでいる彼を見て、世尊はアーナンダを遣わして自分の許に連れて来させた。そして仏の足を拝して片隅に坐った彼へ、世尊はその日、托鉢で得た食物の半分を自ら与えた。鉢を手にしたサーガタの両目から、涙が流れる。人の情けに触れたのは、これが初めてのことだった。そして彼は仏の弟子となった。