ワッカリ――法を見るもの
けれども、ワッカリ[跋迦梨]にとっては、いささか厳しかったかもしれない。
ワッカリが世尊の弟子となったのは、ただ聖なる人の神々しい姿を見ていたいという想いからであった。そのうちに彼は重い病に罹り、ラージャグリハの陶工の家で身体を養っていた。ある日、彼は看病をしてくれていた同朋に云った。
「友よ、どうかあの尊い方の御許に行って、私の名で御足を拝んで申し上げてくれ。世尊、ワッカリは今、重い病に苦しんでおりますが、世尊の御足を拝んでお願い申し上げます。世尊、どうぞ憐れみを垂れ給うてワッカリをお見舞い下さい、と」
看病の友は承知し、霊鷲山に滞在していた師のもとへ行ってワッカリの願いを伝えた。
世尊は肯いて衣を着け鉢を手にし、陶工の家へと赴いた。
ワッカリは師の来訪を知って床から起き出し、迎えようとした。しかし世尊は押しとどめた。
「ワッカリよ、床から起き上がるには及ばない。ここに座が設けてあるから私はここへ坐ろう」
と、座につき、訊いた。
「病はどうか。耐えることができようか。食事はよく進んでおるか。給養はよく行き届いて居るか。苦しみ減るように思われないか。病はおいおい治りかけているとは思わぬか」
同悲の想いで、世尊は語りかける。
そして、ワッカリは師が自分を想ってくれる心の暖かさ優しさをしみじみと感じながら、横になったまま答えた。
「いいえ、世尊。食事も進みませぬ。苦しみは増すばかり病も進むばかりです」
手足は痩せ衰え、眼窩もくぼみ、頭を上げて云うのも息をつきながらであった。死の影がワッカリを覆っていた。
「ワッカリよ、……汝には何か悔いること、思い残すことはないか」
彼の師の慈愛に満ちたまなざしが、翳る。
「世尊、私には確かに少し悔いと残念とがあります」
「戒のことについてでも、自らを責めているのか」
「世尊、そうではありません」
「それでは何を悔い、何を残念に思うているのか」
「私は世尊を見奉るために世尊の御許へ参ろうと、長い間思うておりました。しかし私の身体にはそれだけの力がないので、世尊の御許に参ることが出来ないでいました」
この世の中で何ものにも代えがたく最上で完璧な美をそなえたもの、それはワッカリにとって師であった。そばに居られれば、何もいらなかった。だが、世尊は云う。
「ワッカリよ、この腐った身体を見て何としよう」
師の言葉に、ワッカリは愕然となった。そして改めて世尊を見つめる。
釈迦牟尼世尊の体はいつもと変わらず優美で、聖なる光に輝いていた。
(この尊い御身体を、何と仰せられるか)
そしてすぐに考えた。
(それとも、死にゆく私に対し、世尊は一切の執着を絶たせようとされているのか……)
ワッカリの心は大きく揺れている。
しかし、彼の想いをよそに、世尊は静かに続けた。
「……法を見るものこそ、私を見るものである。私を見るものは即ち法を見るものである。何故ならば、法を見ることによって私を見、また私を見ることによって法を見るからである。ワッカリよ、汝は身は常住なものと思うか、無常のものと思うか」
「世尊、無常のものであります」
「ワッカリよ、無常のものは苦悩である。苦悩のものは無我である。無常のものは、これは私のもの、これは私であるということは出来ない。このようにありのままに知らねばならぬ。ワッカリよ、このように見て来て、この教えの弟子は身と心を厭い、厭うて欲を離れて解き脱れ、解き脱れて解脱したという智慧、即ち生は尽きた、修行は成し遂げた、成すべきことは為し終わった、これより他の生はないと知るのである」
世尊はこのようにワッカリを教誨し、座を立って帰っていった。
師が去って間もなく、ワッカリは看病をしてくれている同朋へ云う。
「友よ、私を床に乗せて伊師耆利山の山際の黒曜岩の所へ連れて行ってくれ。私のようなものが、どうして家の中で死のうと考えられよう」
看病の友は承知してワッカリを背負い、伊師耆利山にある黒曜岩の側へ運んでやり、岩陰へ床を作って彼の終の棲家とした。
霊鷲山へ戻った世尊はその日、午後と夜とを過ごす間もワッカリのことが気がかりで、彼はよく解き脱れるであろうかと思い、翌朝、弟子たちを呼んで云った。
「弟子等よ、ワッカリの処へ行ってこのように告げて欲しい。『ワッカリよ、汝の師は昨夜、卿のことを案じ、卿がよく解き脱れるであろうと思っていた』と。さらに、『ワッカリよ、恐れるな、汝の死は悪くない、汝の死は不幸ではない、と云っていた』と」
そこで弟子たちは、三人の同朋を選んでワッカリのもとへ送った。
「友よ、ワッカリよ。世尊の御言葉を聞き給え」
よく見知った顔の比丘たちがやってきて云う。するとワッカリは、傍らで世話をしてくれている友に告げた。
「友よ、私を床から下ろしてくれ。どうして私ごときものが高い座に坐って、世尊の教誨を聞こうと思われよう」
看病の者が彼の云うとおりにすると、弟子たちは師の言葉を伝えた。
(それほど私のことを案じてくだされていたのか)
熱い感情が胸底から湧き起こり、涙になろうとしたが、ワッカリはそれを奥歯を噛み締めて押しとどめた。そして、云う。
「友よ、私の言葉として、世尊の御足を頂礼して云ってくれ。『世尊、ワッカリは重い病で悩んでいます。世尊の御足を頂礼してこのように申します。世尊、私は身も心も無常のものであるということを疑いません。無常のものは苦悩であるということに惑いはありません。常無くして苦悩のものであり、移り変わる法に欲を起こし貪りを起こし、愛をおぼえないということに、惑いはありません』と」
三人の同朋はワッカリの云うことを承知して、師の許へと立ち帰ってゆく。ワッカリについていた友も彼らを送るために、その場を離れた。
(これで最後、もはやあの方の御姿に、まみえることが出来ぬ……)
ワッカリの精神は世尊の重ねての諭によって明らかに澄みわたり、これで従容として死に赴くことが出来ると、彼自身も思っていた。
けれども、同朋たちの後ろ姿が遠ざかっていくのを眺めているうちに、『すべてのものは空である』と確かに知り、静まっていたはずの心が細波立ち、それはすぐに大波となった。荒れ狂う精神に飲み込まれ、ワッカリは悩乱した。
どす黒い死への恐怖が渦を巻き、総毛立つ。底知れない孤独感と淋しさが自分を押し潰そうとする。その言い知れない圧迫と混乱の中で、彼は岩陰に転がっていた小刀に目を止めた。それは看病の友が蔦や小枝を払うために持って来ていたものだった。
空では風が、ごうごうと鳴っていた。周囲に生き物の気配はなく、荒涼とした岩場の風景だけが広がっている。
ワッカリは刀を取り上げ、自らの胸を刺した。激痛が体を貫き、おびただしい血が吹き出す。断末魔の苦しみにのたうちまわるうち、彼の意識から師の姿は薄れて消えてゆき、虚空の中に、彼は求めてやまぬものを確かに見たと思った。
(ああ、世尊……)
血の匂いが満ちるなか、彼はしゃがれた声で叫んだ。
「あなたは、そこにおられる……」
生臭く熱い塊がせり上がってきて、咳き込む。出血とともに力が抜けていく。けれども、至福の想いに満たされて、ワッカリは微笑んだ。
同時刻、霊鷲山の洞窟の中で坐っていた世尊は、はっと顔を上げた。
「弟子等よ、行こう。ワッカリは今、刀を取り上げた」
世尊は弟子たちを伴って伊師耆利山の黒曜岩へと急いだ。目当ての大岩に近づいたとき、遠くからワッカリの姿が見えた。床の上で血まみれとなり、手足を痙攣させている。傍らでは看病の友が泣いていた。
そのはるか上空には死肉を喰らう黒い鳥が二羽、舞っている。
世尊は足を止め、弟子たちを顧みて云った。
「弟子等よ、ワッカリの識神が何処へゆくであろうなどと疑うてはならぬ。彼はいま確かに涅槃に入ったのである」と。