アニルッダ(阿那律)
また、アニルッダ[アヌルッダ、阿那律]については、その修行の結果、両眼から光を失ってしまった。
舞踏や歌謡に明け暮れし、鐃鈸の音で目をさますという生活を送っていた彼は入門した当初、好きな音楽のことが頭から離れず、また体の方も生来虚弱であったため、厳しい出家者の日常に慣れることが出来なくて、つい師の説法の際に居眠りをしてしまった。
「アニルッダよ、真理の法を求めて出家したにもかかわらず、話の最中に眠ってしまうとは、どうしたのであろうか」
法話の後、彼の師は呼び寄せて云った。
「法を求める身で、してはならぬことをしてしまいました」
アニルッダは自らを恥じた。師の教えに感激し、そのもとで修行をしようと堅く自分に誓ったことを改めて思い起こした。
「世尊、気が緩んでおりました。今からは、たとえこの身が溶けただれようとも、決して御前では眠るようなことはいたしませぬ」
彼は師の前に跪き、誓った。
それ以後、アニルッダは世尊のそばにあるときは決して眠らず、また常に横臥しない行(常坐不臥)を始めた。その極端な苦行で彼は目を悪くし、心配した世尊はマガダ国の名医ジーヴァカに治療を頼んだ。しかし、診察したジーヴァカは、
「世尊、いかな医師とて、眠らぬ者には手の打ちようがありませぬ」
と、云う。
「すべてのものは食を摂ることによって存在する。耳には声が食事であり、鼻には香り、そして眼には眠りが食事なのだ。アニルッダよ、眠りなさい」
世尊が勧めてもアニルッダの決意は固く、ついにはその瞳から光を失ってしまった。しかし、それによって彼の真実を見る眼は開かれたのだった。
心の定まったアニルッダはまた、俗世にいたころ深い関係にあった妖艶な女、ジャーリニーの誘惑を受けても、もはや迷うことがなかった。
ジャーリニーは前世、天界でアニルッダの妻であったという記憶を持っていた。今生でも夫婦になることを願っていたが、アニルッダは出家して仏陀の弟子になってしまった。修行がすすみ、上座の弟子として名の知られる存在になった彼であるが、どうしても思い切れないジャーリニーは、アニルッダに会うため、コーサラ国へとやってきた。
彼女が愛しい人を捜し当てたとき、彼はある林の荒地にいた。
アニルッダはぼろ布をまとい、痩せた姿で坐っていた。けれども面差しは昔の美しさそのままで、さらに以前より清らかに輝いていた。
ジャーリニーは嬉しさに震えながら、そっと近寄っていった。
「昔、あなたが住んでおられましたところ、天の園であなたは天女たちに取り巻かれて輝いていました」
このときアニルッダはまだ失明していなかったが、すでに眼を悪くしていた。彼はぼんやりとした人影が、かつての恋人であることをその声で知った。
「我が身の思いにとらわれている天女たちは禍である。天女たちを求める人々も、禍である」
ジャーリニーは少しむっとした。かつて共に楽しみを極めた恋人が、すっかり変わってしまったように感じた。
「世に誉れある神々の住まうナンダナ園を見ない人々は、楽しみなるものを知っておりませぬ。さあ、あなたは一切の欲望をかなえる天界に生れようとの願いを起こしなさいませ」
彼女はアニルッダの還俗を望んでいた。それが叶わないならば、次の世に二人して天界へ生まれ、愛し愛される生活を今一度送りたいと思った。しかし、平安なる世界へと進もうとしているアニルッダは、女の切なる願いを退けた。
彼は答える。
「敬うべき人々(ブッダ)の言葉がいかなるものであるか、汝は理解していない。罠にかける女よ、もはや神々の群れのうちに再び住むことはない。生まれるのを繰り返す迷いの生は、はや滅ぼし尽くされた。いまや再び迷いの生は存在しない」と。
そしてアニルッダは常坐不臥を五十五年行ってものうさを滅し、ヴァッジ族のヴェールヴァ村の竹林において入滅したという。




