柳花破顔
柳が揺れる。風に乗って、若葉が揺れる。春の息吹が、隣の桜とともに淡い色彩で彩っている。さやさや、ゆらゆら。十ばかりの少女はそんな様子を、ただ見ていた。縁側に腰かけて、春の川辺をただじっと。
暖かな陽光を浴び、欠伸をしてから右を振り向く。
「ねえ、お父さん。どうして柳はこんなにも綺麗なのに、お庭には行けないの?」
父は、大きな手で娘の頭を撫でた。
「樹形は見事だが、花は地味だからな。それに、水辺とか、並木とか、広いところが柳には似合うんだ」
呵呵と笑う父の姿を見て、少女は呆れかえる。
「そんなこと言うけど、じゃあ私は地味なわけ? 柳の花、なんでしょう?」
「そんなことはないさ。柳花は可愛いぞ。誰にも負けないくらいにな」
親馬鹿、とやや拗ねた口調の柳花を、父はさらにわしわしと撫でる。
「いいかい、柳花。柳というのは、枝垂柳だけじゃないんだぞ?」
え、と柳花は顔をあげた。
「猫柳や雪柳だってあるじゃないか。まあ雪柳は桜の仲間なんだが……」
言葉を濁らせながら、父は続きを紡いだ。
「つまりだな、どうとでもなるんだ。名前なんて、所詮は親の思いだ。お前の思いじゃない。本当はその人だと識別できればどんな名前でもいいんだよ。けれどもな、枝垂柳の花も、俺は好きだよ」
じゃあ水飲んでくる、と去っていった父の背を見て、柳花はくすりと笑った。
「――ほんっと、変わった人」
それは母の、父に対する口癖だった。柳花がその真意を聞いたことはないが、ことあるごとに言っていたことは覚えている。柳花から見れば、そんな母も変わった人だった。
「柳花は、きっとお母さんに似た美人になるぞ。だってこんなにも可愛いんだからな」
「美人になっても、お父さんとお母さんがいなきゃ意味がない」
それは難しいなあ、と父は苦笑する。
「今お母さんに会うには、お父さんとの繋がりは忘れなくちゃいけない。でも、お父さんとずっといるには、お母さんのとの繫がりを忘れなくちゃいけないんだ」
少なからずの衝撃を受けた柳花は、驚きのあまり固まる。後に漏れたのは、か細い「え」という音だけであった。
「お母さんはな、お庭に行ったんだ。なんか悪いことをしたみたいになっていたけれどな、そんなことはない。庭も認める美人だ。誇っていいんだよ」
そうなんだ、と柳花は眉を下げた。母が連れて行かれた日。それは柳花にとって忘れ得ないものであった。その日、押しかけてきた役人が抵抗する母を大柄の男三人がかりで連行して——母はその後、薄幸の姫となった。そしてこのことが宮殿庭園でも問題となるのに時間はかからなかった。そして、庭園外から庭園へ誘われた人々にも庭へ上がるか否かの選択権が与えられた。
「でもな、お庭とここじゃあ、生きる世界が違う」
硬い表情で告げられたそれに、柳花は首を傾げる。
「生きる世界?」
「ここは、お庭の人からしたら雑草の荒れ地なんだってさ。光を求めて必死に手を伸ばすけれども、美しさでは敵わない、らしい」
「ここが、雑草の荒れ地……」
柳花の声に薄らと陰が潜む。
「私たちは、みにくいの?」
純粋なその問いに、父が眼光鋭く柳花の顔を見る。緊張した空気が流れる。幾ばくかの後、父ははたと表情を緩め、柳花の顔を覗き込んだ。
「……そんなこと、ないんだよ。決して」
柳花は、左に逃げるように視線を逸らす。
「言い方が悪いんだよ。誰も醜いなんて言っていない。いいかい、柳花。庭に閉じ込めるより、広い里山で伸び伸びと生きるほうが似合うんだよ。ここのみんなはさ」
そうなの、と尚も疑り深い柳花に、父はああそうだと快活に答える。
「お母さんは、きっと戻って来られない。お庭の人たちはこことお庭を別の世界だと思っているからな」
ひときわ冷たい風が、髪や柳や桜を揺らす。
「大きくなったら、きっと柳花は美人になる。お母さんみたいに、お庭からお呼びがかかるくらいにはな。だからその時は、どうしたいか、しっかり考えるんだよ?」
わかっているね、と柳花の顔を見た父は、不安げな柳花の額にひとつ口付けを落とした。
「大丈夫。どっちを選んでも、柳花が後悔さえしなければどちらでもいいんだよ。お父さんもお母さんもね」
さあ、お茶の時間だ。難しい話は終わりにしよう。そう言って、父はひとつ手を叩いた。
「今日は美味しい美味しいお菓子があるよ。柳花の好きな、お団子だ」
「やったあ!」
わざとらしく盛り上げる口調になった父から出た好物の名に、柳花は破顔し、喜びを晴れやかな笑みで表現した。
柳が揺れる。風に乗って、若葉が揺れる。春の息吹が、隣の桜とともに淡い色彩で彩っている。さやさや、ゆらゆら。
草萌ゆる縁側には、父の呵々とした笑い声と、団子を頬張る幼子の幸せそうな笑い声が響いていた。