落花紅涙
ぽろり。ひとつこぼれた花は梅。赤や白のそれらは、ぽろぽろとこぼれていく。風に吹かれ、雨に降られ、花朶から脱落する。地に落ち、水に落ち、朽ち、流れ。やがて、花のすべては枝を去った。そんな様子を、じっと見る。正しく花が無くなったことを再び確認し、ひとつの仕事が終わったと息をついた。
私たち花守の仕事は、花を守ること。この宮殿庭園には、この庭である梅、次は桜というように、季節の花ごとに庭園があり、花守がいる。花守は人が庭の主と契約をすることによって精霊化し、庭の管理を任される存在である。契約の終了後、自動的に元の肉体に戻ることとなっている。
「一花」
空気が混じった男声に呼ばれて声の主のほうを向くと、そこには想像通りの男がいた。私は即座に礼をとる。
「花兄様」
私が花兄様と呼んだのは、花兄の君のことである。彼が梅の別名を冠するのは、花兄と呼ばれるこの庭園の主であるからだ。言葉こそ圧があるがそれは不器用なだけで、その実とても温かく、優しい人だということはこれまでの経験から知っている。高貴な彼であるが、私のようなただの花守にも気さくに声をかけてくださる。
「礼はよい。今日は話をしにきた」
「えっと……」
礼をやめ、困惑した声を発する私をよそに、彼は土の上に座り込んだ。
「おやめください! お召し物が――」
微笑を浮かべてそれを制する彼を前にし、もう反対などすることができなかった。代わりに、私が座っていた敷物を用意した。
「……せめて、こちらにお座りになってください」
温かい日もあるが、今日は寒く、土も冷えている。しかも、昨日は雨が降った。これで花兄様が風邪を召されては困る。彼はその言葉に従い、敷物の上に座りなおした。そのまま、彼は何も言葉を発さない。けれども、その視線の先については想像がつく。それはきっと、こぼれた梅花の行方にある。
「……花兄様?」
「一花。お前は、私の味方か? 忠実に花を、庭を守ってくれるか?」
花兄の君は真剣に、私の目を覗き込んで尋ねる。
「ええ、もちろん。最初に誓った通り、貴方様とこの庭には赤心をお約束いたします。……どうか、なさいましたか」
じいっと私を見つめたままの彼に尋ねる。彼はふいと顔をそらした。
「確認をする時期を逃したから、訊いておこうと思っただけだ」
「そうでございますか。……懐かしいですね」
「ああ」
私がこの庭園の花守になったのは、凍える冬にひとりぼっちになった私を、彼が救ってくれたからだ。庭園の外の世界はとても貧しく、弱っているか有象無象の雑草が茂っているかの世界である。美しいわけもなく、どこまでも醜い生存競争を繰り広げているという。そんな中、弱く幼い子供がひとりで生きていくことなんてできない。私は名前と居場所をくれた彼に感謝し、忠誠を誓った。それは今でも変わっていない。それに、今は彼のお側にいられること、花兄の庭のために仕事をすること、こうしてお話すること。それらのすべてが幸せなのである。満たされた生活。花兄の君はそれらを与えてくれた。この方への忠義を失くしてしまったら、私はどれほど恩知らずな人かと責められなくてはならないだろう。
「徒名草の君が、妖花姫に呼ばれたそうだ」
珍しい。あまり多くの事情を語らない彼が、そんなことを話すとは。
徒名草の君は桜の庭の主だ。花兄の君がどこからか仕入れてきた噂によると、妖花姫――妖しい魅力を持ち、人を惑わす美女姫――は徒名草の君をいたくお気に召しているという。
「桜ですものね。花兄様だって素晴らしいというのに、徒名草の君ばかりでずるいです」
花兄様は、昔は徒名草の君以上に宮殿庭園の花形であったようだ。けれども、私のためにひっそり目立たぬように自身の権力を落としてくれていると知っている。だからこそ、花兄様の権力復活を、私が後押ししたいのだ。花兄様には実力も美貌も備わっているのに、あえてそれを見せないようにしている。
「いいんだ。私は、妖花姫を好かない。この呼び立ても、意味のないものだ」
小さく言った言葉に、花兄の君は応えた。その内容は、私の予想外のものであった。
「でも、名前の通りお美しくていらっしゃるとのことですよね? この宮殿庭園も半分は妖花姫の道楽のようですし、あまりそうおっしゃらないほうが良いのではありませんか?」
「お前も中々な言い草だな……だが、不要なことのためだけに行く必要はないはずだ。それに……」
そのまま、彼は黙り込んでしまった。沈黙がしばらく続くが、彼との沈黙は悪いものではない。その沈黙は、私の気分を良くさせるものである。けれども、ふと伝えるべきことを思い出した。
「今朝、花弟の君の御使いが来ていたらしく、春告から文を預かりました。春告は体調不良だそうですので、私からお渡しいたしますね」
手紙は基本、使いという人々から主へ渡される。花守は花と庭を守るだけの役目だ。しかし、今日は使いである春告が不調のようである。使いが五人ほどいる徒名草とは違い、花兄は不遇なことに使いが春告しかいない。しかし、これでも一応宮殿内部のため、交代要員を花兄の庭外部から持ってくることは危険である。春告は寒く体調も悪い中、この庭園を歩いてここまで来て、託していったのだ。
「そうか。春告には見舞いに行こう。花弟には後で返事をしにいく」
花弟の君は、菊の庭の主だ。話によると花兄の君の実弟らしく、花兄の君との仲も良い。庭に来てから私も何度かお会いしている。気さくで、人の心を読むことに長けている方だという印象だ。
「かしこまりました」
私は、そうして庭を離れていく主を見送った。そうしてまた一人となり、花兄の庭を見守る。何もなければ、ただそれだけ。花兄の庭は私の命も同然だ。じっと、ただじっと見る。花兄の君――というより、四季の庭の主というものは――いつも忙しい。庭の主は、基本名前だけだ。基本的には政こそが職務であるからだ。花兄の君もやはり外界に心を砕き、良い世界にしようとしていらっしゃる。だから、私もこの庭を守らなくてはいけない。外界と同じような雑草は生やさないようにし、花神様や花兄様をはじめとする鑑賞者が見たいものを魅せられるように気を配っている。
やがて、夜の気配が感じられるようになった。今日はやけに冷え込んでいる。私たち花守には休息や食事は必要がない。ひたすら、一人で庭を見守る。けれども、ここでは一人であっても独りではない。花兄の君や春告のように、同じように働く人々がいる。それはとても幸せなことだ。
暁光が眩しく、しかし色を判別するにはまだ暗い頃。庭園入り口からこちらへ向かう、女性のものらしき人影が見えた。春告だ。
「一花様。昨日はご迷惑をおかけしまして申し訳ございません」
「どうか気に病まないで。花兄様もきっと、そうおっしゃるわ。身体はもう、よろしいの?」
壮齢の春告には辛い仕事だろう。体調を崩してしまっても、不思議ではない。けれども、花兄の君は一向に他の人を雇おうとしない。それがなぜなのか、はっきりと訊いたことはないのだが。
「ええ、すっかり。……それで、なのですが」
春告は柔らかく笑んだ後、周囲を警戒しながらひそひそとした声で私に話しかけた。
「妖花姫が、花兄の君に大層お怒りだと聞きました」
「えっ」
「どうやら、お呼びになったのにいらっしゃらなかったとのことです。一花様は、何かお聞きでないですか?」
「そういえば昨日、花兄の君は不要なことだとおっしゃっていたわね。他にも何か言いたげだったけれど、途中でやめてしまわれたわ」
「ああ。それで……」
春告は何かを納得した様子で足元を見た。しかし、私にはわからない。
「春告は何か、知っているの?」
「あ、いいえ。妖花姫の機嫌を損ねなさったとは、そういうことだったのですね。花兄の君がとは、想像がつきませんでした」
春告も、やはりわからないようだ。
「あまりお役に立てなかったでしょう。ごめんなさい」
「いいえ。とても有益な時間でした。では、失礼いたします」
春告は礼をしてから踵を返し、ゆっくりと去っていった。周囲が明るくなってきて、春告の姿がわかりやすくなっていた。
花兄様はどうしていらっしゃるのだろう。花兄様の不利益になるようなことには、ならないといいのだけれど。憂えても、力になりたいと願っても、私にできることはこの庭を守ることだけ。私は、花守は、こんなにも無力だ。
じっと見ていると、そのまま時が過ぎていく。庭園の緑は萌え、若緑が輝いて見える。日差しは強くなり、木陰にいても少し暑さを感じることもある。花兄の君とも春告とも、以来しばらく会っていない。そして、梅の実が大きくなってきたある日のことである。花弟の君が、この庭に訪問するというのだ。
「そうなんですか!」
花弟の君と最後にお会いしたのはもう随分前だ。確か、もう二年ほども前だったと思う。それからしばらくの日を置き、花弟の君が花兄の庭に訪れた。
「お久しゅうございます、花弟様」
花弟様に礼をとり、ひとまわりの庭の案内を開始する。花弟の君は、花兄様とこの後お話される予定であり、ある種の繋ぎである。
「ああ。久しぶりだな、一花。兄さんの庭も綺麗なままで安心したよ。よくやっているな、一花」
「ありがとう存じます」
花守ならば当たり前のように熟していることとはいえ、褒めてもらえるのは嬉しい。
石畳の上を歩きながら、苔生した地面も梅の葉や実も青々としている庭を眺めながら歩く。そこには一切の雑草がなく、必要なだけの植物が美しく管理されているだけだ。花守には植木や苔などの生命力を高めることと、雑草の生命力を落とすこと、災害から庭を守ることが使命だ。庭を巡りながら、ことあるごとに花弟様が褒めてくれることに喜びを覚える。花兄様は褒めることが苦手なので、褒め言葉のありがたみがよくわかる。
一巡し終えたとき、花兄様の姿が庭園の縁側に見えた。ひとつ礼をして、花弟様を見遣る。
「花弟様。ではまた後程お会いいたしましょう」
そうやって花弟様の姿が見えなくなるまで見送った。私は庭の状態の確認を続行し、その後はいつものようにいっとう大きな梅の木の下で庭を眺めていた。再び花弟様が庭に姿を現したのは、夕焼けの時間をとうに過ぎ、空には大きく夜が広がる頃だった。月や星の明かりがあるとはいえ、花弟様の表情まではわからない。
「お疲れ様です。では庭からお送りいたしますね」
花弟様は無言で首肯した。中で花兄様と何の話をされたのかはわからない。けれども、昼間に花弟様と庭を歩いたときよりも遥かに、空気が重い。きっと夜のせいではない。だってあまりにも、沈黙が痛い。
庭の終わりにまで辿り着いたとき、花弟様は静かに声を発する。
「一花」
はい、と私は応える。花弟様の眼は不自然に光っていた。
「――今は、幸せか?」
その問いに息を吞む。幼い頃に一度だけ、尋ねられたことがあったものであったからだ。あの頃は確か――
「そんなわけないじゃない」
そう言った気がする。「どうしてお母さんを殺した人と一緒に過ごさないといけないの。そんなので幸せなわけがない」――と。
「それは違う、と言ってあるはずだが?」
どうやら口から思考が漏れていたようである。ひとつ呼吸を置いて、私は口を開いた。
「ええ。最初は幸せなどではない、幸せになどなりえないと思っていたのですが。――存外、今は幸せなようです」
花弟様は満足そうに首肯して、その場を去っていった。
再び、私は花兄の庭を守る。
季節は廻り、ある雪晴れの日のことである。私は何の前触れもなく、元の体に戻った。身軽だった感覚が唐突に失せて、地面に縫い付けられたように錯覚した。それと同時に景色も一変する。精霊化する前の肉体が置かれていた部屋にいたのだ。つまり、花守ではなくなったということだ。どういうことなのかと思い、重い肉体で這って庭へ出ると、花兄の君のお越しがあった。ただし、その様子は異様といえるものであった。息を弾ませ、目を見開いてこちらに駆け寄ってくる花兄の君。今までに見たことがないほど取り乱した彼の様子に動揺する間もなく、次の衝撃が到来した。――追手がいる。花兄の君を狙って、刃を向け、あるいは矢をつがえ。
宮殿庭園では、武器となるものを禁止するのではなかったか。安全に、庭を守る必要があるのではなかったか。花神様に捧げる四季の庭を、穢してはいけないのではなかったか。いや、今はそんなことどうでもいい。花兄の君をお守りしなければ。身体が重い。けれども、花兄様をお護りしなければ。
「花兄様!」
「来るな!」
私が駆け寄ろうと叫んだのと、花兄の制止の声が同時に響いた。なぜですか、と私は問う。状況がわからない。花兄の君は、多くを語らない。なぜ、追われているのか。なぜ、こんなところで。なぜ、なぜ、なぜ。尽きない疑問に、花兄の君は何も答えない。
「……私を襲うのは構わない。だが、私以外の者には危害を与えないでいただきたい」
しばし、待たれよ。いつも通りの圧のある声でそう告げ、花兄の君は私の元へ駆け寄ってくる。襲撃者たちはなおも臨戦態勢であるが、そこから動こうとはしない。言葉通り、待っているのだろうか。
花兄の君は私の目の前で止まり、私の両肩を掴んだ。
「一花。私のことはもう忘れろ。そして、『双葉』として妖花姫のもとへ行け」
「でも!」
花兄の君は、花兄の庭は、私の思いはどうなる。口にしようとしたが、花兄の君の手により塞がれた。花兄の君は、強い瞳と安心させるような語調で話す。
「この庭は、別の者に託す。悪いようにはならないだろう」
「嫌です!」
庭のことだけじゃない。花兄の君はどうなるのか。そんな思いは必死になって胸の内に隠す。すると、強い拒絶の言葉が口から滑り出していた。だが、それを無視して花兄様は言う。
「行け。今すぐに」
「だって」
「いいか、ここは危険なんだ。一花はもう花守じゃない。一花には生きていてほしい。だから」
「花兄の君。いや、この偽花め!」
諭すように優しく微笑んだ花兄の君の背後から、大男が刀を振る。花兄の君がそれをかわす。良かった、と安堵したのも束の間。次の瞬間には矢が刺さる。
「行け!」
そう言ったとき、刃が彼を一閃した。紅い華が咲き、彼は崩れた。そこに、息の根を絶やさんと刃が振り下ろされた。華が、紅い湖となっていく。
「い、嫌……」
手足が震え、冷たく、感覚がなくなっていく。私のせいだ。頬には涙が伝う。動けないままの私を引く手があった。
「一花様! しっかりなさいませ!」
「は、るつげ?」
「はい。春告でございます。花兄の君のおっしゃる通り、参りましょう。きっとご無事でいらっしゃいますから」
春告に手を引かれ、走る。春告がいてくれて良かった。優しい春告しか、頼れる人がいない。向かう先は、妖花姫のもと。私はもう「一花」ではない。私は「双葉」だ。妖花姫のために尽くそう。そうすればきっと、花兄の君との思い出もすべて忘れられる。そうでなければ、あまりにも辛い。――どうか、生きていて。そう願わずにはいられない。
それ以降の記憶が曖昧だ。気づいたときには、本殿の妖花姫の前で頭を下げていた。
「お前が双葉か。顔を上げなさい」
恐る恐る顔を上げると、思わず引き込まれそうな美女がいた。この方が、妖花姫。ふうっと微笑った彼女の顔は、ぞくりとするほど美しかった。
「まことに姉さまと似た娘だこと。気に食わない……」
姉さま、ということは母の妹。思わず目を見開き、そして口を開こうとした。だが、それは妖花姫の言葉に遮られる。
「花弟から話は聞いているわ。お前は今日からこの部屋の使いとして働きなさい」
それから始まった双葉としての日々は、今までの幸せとはかけ離れたものであった。妖花姫は私のことを無知の人だと認識して目を付け、同じ使いの人々からもあまり良く思われていない。身体は花守の頃とは違って重く、睡眠や食事が必要となり、不便になった。もう無尽蔵の体力などない。そして何より、花兄の庭や花兄の君の許に行けないことが辛かった。忘れろと、言われたその声が忘れられない。凄惨な光景は、どんなに忘れようとしても忘れられるわけがない。
妖花姫の使いは、他に二十人いる。けれども、私はその中に馴染むことができなかった。使いの人々は、ことあるごとに私を貶し、叩き、嘲笑する。
「何にもできない小娘が」
「気に食わない」
「愚図」
そんな言葉が次々と投げつけられる。いつまでも慣れることができなかった私は、いつしか頻繫に体調を崩すようになっていた。その度、弱った心が母のこと、花兄様のこと、春告のことを思い出させる。
そんな初夏の日、使いの仕事で掃除をしている途中――立ち上がった瞬間に、視界が暗くなり、平衡感覚が掴めずに倒れこんだ。その後の記憶はないが、次に目覚めたのは、使いが使用する大部屋であった。敷かれた布団は誰が用意してくれたものなのかと考えたが、周囲には誰もいない。時刻もわからないので、それを知ろうと身支度をし、使いの仕事部屋の戸をすうっと開いた。
それに使いの長が気づいたようで、彼女は顔を上げる。双葉、こちらにいらっしゃいと声が響いた。それに従って私は使いの長の元へ進む。指示された通り座ったとき、彼女は双葉、と再び鋭い声が発せられた。
「あなた、もう三日も寝たままだったのよ。これは仕事に穴をあける行為よ。どうして言わなかったの!」
「……その、体調が悪いなんて、とても言えるようでなかったから、です」
私は非常に委縮し、抑圧されていた。だから言えなかった。けれども、今なら少しは聞いてくれるかもしれないと思った。
「そんな風に言えばいいと思っているのね。けれども、言い訳は無用よ。これは罰です」
そう一方的に宣言されたあと、私は強く頬を打たれた。ああ、それでもなお聴いてくれないのか。絶望の半ばに諦念のようなものが浮かぶ。
「もう結構です。あなたには、謹慎してもらいます」
連れて行きなさい、という使いの長の言葉に反応して、どこから出てきたのか屈強な男が私を羽交い絞めにしていった。まだふらついた足元で、広間を通って小さな暗室に押し込まれた。ここは噂でしか聞いたことがなかった場所――落窪だ。
日中でも薄暗く、夜には真っ暗になるその場所で、私は日がな一日膝を抱えて座っているような状態が続く。そうやっていると思考がだんだん弱っていくのがわかった。
そうやって謹慎と称した閉じ込めが行われて数日が経った後。唐突に、妖花姫のお越しがあった。
「まあ。醜い姿だこと。使いの長に歯向かったらしいじゃない。それでこんな姿だなんて、いい気味よねぇ」
妖花姫は鮮やかに嘲笑し、私に手を伸ばす仕草をする。けれども、決して私に触れようとはしない。
「そんな汚らわしいお前にも、良い報せがある」
笑い声の一切を排除して低い声で次の言葉が紡がれた。
「双葉。お前を供花とする」
「きょうか?」
私はその意味を測りかね、鸚鵡返しをした。
「呆れた。お前は何にも、ものを知らないんだねえ。花神様への貢物のことよ。お前は、花神様の花嫁になるの」
私は、思わず顔をしかめる。花神などという実態があやふやなもののために、私が利用されるなんて、想像したくもない。
「お前にとってもそう悪いことじゃないはずよ。神のものとなれるのだから」
「それは――私に、死ねと?」
私が問うたとき、彼女はさらりと流れるような語調で返した。
「あら、どうしてそう思われるの?」
「神だというのならば、このような不浄の地におられるわけがありません」
妖花姫の態度に気圧されながらも、負けるまいと心に刻んで言い返す。
「ふうん。確かにそうかもしれないわねぇ。でも、それの何が問題なの? これ以上ない誉よ?」
妖花姫の言に対して思ったのは、一般的にはそうなのかもしれないということである。けれども、その割には押し付けるようだ、とも感じた。
「私は、ここで生きていかなくてはなりません」
これは決意であり、覚悟である。花兄様から託されたものを、簡単に擲つわけにはいかない。
「お前のことなど誰が構うものか」
そう言いながら、鼻で笑う。
「約束したんです。私は生きると。だから、私はその方のために生きなければなりません」
確たる意思を持っていることを認め、妖花姫はすうっと息を吸って広間に向き直った。
「……誰か! 双葉を牢に入れておきなさい! 花神様への背信行為よ」
そうか、この思いは罪だったのかと自覚したのもあとの祭り。そのまま大男二人に牢に連れていかれた。
今、私は落窪が可愛く思えるほどの暗い部屋にいる。暗い、暗い牢。ただ閉じ込めるために存在しているかのようなその場所に、私はいる。ここにいると、色々なことを考えてしまう。良くないことばかり。けれども、これこそが牢なのだ。
私以外には誰かいないのかと気配を探るが他にはだれもいない。じっと、ただじっと暗闇の中で思考する。これで良いのか。打開策はあるのか。花兄様や春告はどうなっているのか。そんなことを、ただじっと思考する。
明るい光が目に飛び込んだ。慣れない光に目がちかちかする。私の食事を投げやりに置いたあと、彼女たちは牢の建物の入り口を開けたまま世間話を開始した。
「そういえば、最近牢に入った方、どうなのよ」
「ああ、そこの方でしょう。背信者らしいじゃない。命があるだけでも運がいいわね」
どうやら、世話係の中に相当な事情通がいるようだ。
「そうよね。ああ、そういえば、もう一人の御方は?」
「ああ、あの方はねぇ、元々宮殿庭園の庭持ちなんですって。兵を呼び込んで荒らす原因を作ったか何からしいわよ」
その言を聞いて気づく。ここにいるらしい、感知しえない誰かは、花兄様だ。
「どうして、花兄の君が」
開いた唇が震える。心臓が大きく脈打つ。身体も、呼吸も震えが止まらない。
「花兄様……」
どうかお元気でいらしてください。そう願ったとき、小さな声がした。なんと言っているのか、と耳を澄ますと、恨めしいか、と聞こえた。
がばりと顔を上げる。けれども、そこにだれかの姿は見えない。
「恨めしいか?」
再び、声がした。
「……花兄様?」
呟いてみたが、それは違う、とすぐに否定を入れる。花兄様の声は、このように恐ろしさを感じる澄んだ声などでなかった。花兄様の声は、もう少しだけ、空気を含んだもののはずだ。
「あの、どなたですか」
「私は弄花だよ。よろしくね、双葉さん?」
恐る恐る問うた私に対して声の主はそのように挨拶をしたが、私にとってそれは嘘でしかなかった。嘘だ、と直感したのだ。しかし、気づいてしまっては良くないことが起こるという予感がする。だから私の本能に従って、気づかないふりを決め込むことにした。
「双葉さん。私は少々人脈が広くてね。貴女のことは噂で聞いたよ。貴女は、花兄の君が憎くないのかい?」
胡散臭い口調に、私の正体を見抜いている発言だ。
「……なぜ、あの方を憎む必要があるのです?」
「君は花兄の君のせいで追われたらしいじゃないか」
花兄様のせいだという彼に、私は怒りを覚えた。けれども、それを抑えるようにして返答する。
「いいえ。あの方は寧ろ被害者だと思います」
「そうか……貴女がそう思っているのであれば、それでいいんだ。けれども、ひとつだけ忠告しよう――花兄は、お前が思っているような人物ではない」
なんとなく、わかっている。けれども、それでもいいのだ。私から見る花兄様は、花兄様への色眼鏡がかかっているはずだから。私が見たい花兄様しか、私は見ていないはずだから。
「……それでも、いいんです。花兄様には赤心をお約束いたしましたから」
私は心の靄を晴らすように、私は無理やり笑ってみせた。
そうして弄花と名乗る人物と会話をしてどれほどの時間が経っただろうか。久々に、牢の鍵が開けられた。誰かと問う気力も残っておらず、もう随分前から思考は空だった。だから、ただ眩しい光に目を細めることしかできなかった。
「双葉」
そう私を呼んだ声の主は、私が知るそれのどれにも当てはまらない。首を傾げると、彼は私の姿勢の高さまで屈んだ。
「僕は、徒名草の庭の者だ」
そう言って彼は私に手を差し伸べた。徒名草の庭の方が、一体私に何の用だろうか。
「こっちに来るといい。本殿――妖花姫の許よりは安全だろう」
安全。本当にそうだろうか、と私は思う。花兄様の庭で襲撃に遭った。ならば、「四季の庭」の一員として保障されている安全などというものも、あまり意味がないような気がしていた。
「さあ、おいで」
優しい声色で告げられたそれを拒絶することはできなかった。斯くして、私は徒名草の庭の使いをするようにと命じられた。
徒名草の君の、徒名草の庭での生活は、本殿と比較にならないほどの良い待遇であった。花兄の庭よりも多い六人目の使いとしてだが、雰囲気もよく、私を隔てもしない。それが心地よかった。けれども、やはりそんな日々は花兄様のことを思い出させた。
そうやって心を取り戻しつつあったある時、徒名草の君は私を姫として扱うようになった。妖花姫が告げた決定が、まだ有効だったからだ。徒名草の君でも妖花姫を止めることはできなかったらしい。そうして、私の命が残り少ないことを知った。そして、そんな状況でも――否、こんな状況だからこそ、勉強の日々が始まった。これは花神に仕えるための勉強。使いのひとりである姥桜が、私に教育を施してくれる。曰く、花神様に捧げられるときは決して苦痛などない。曰く、正しく婚姻の儀を行えば四季の庭は安寧が約束される。曰く、美しい振る舞いを心掛けてなさい。姥桜は何でも知っているおばあちゃんで、しかしその美しさは尽きることがない。教養だけでなく、優美な所作も舞も教えてくれている。
そんな彼女が、ある時ぽつりと語ってくれた。
「本当は、私がお代わり申し上げられたらよいのにと、何度も思って参りました。非力な老い耄れでは、花神様の栄養にならないのでございます」
「栄養?」
「ええ。花神様が宮殿庭園を維持なさっているのは、世界の秩序の維持のためなのです。美しきものが残れば、そのうち醜いものは淘汰される。そうすると、醜い気など起こさぬだろう――という思し召しなのでしょう。女の美の頂点は、花神様に召し上げられて世界を助けるのだそうですよ」
「女の美の頂点?」
「ええ。あなた様のことでございますよ、夢見草の姫」
「……私?」
わからなかった。だって、私はずっと花守で、使いで。だから、妖花姫の姉の子であったとしても貴人などではなく。
「あなたはお美しい。きっとご自身ではお気づきにならないのでしょうが、それは間違いないことです」
美や権力とは、縁遠いものだと思っていた。
「え、でも妖花姫のほうが……」
「あなた様は、かつて宮殿庭園の権力を集めた狂花姫一花様をご存知ですか」
「狂花姫、一花?」
胸がざわつく。一花というかつての私と同じ名前。今ここでそれが出てくるなんて。
「彼女は、望まない権力を手に入れてしまったばかりに命を落としました」
呼吸がままならない。その話を、私は知っている。だってそれは。
「私は、もう二度とそのような人が現れてほしくないのです」
姥桜の声が、誰かと重なる。
「夢見草の姫。あなた様は、狂花姫に、あまりにも似すぎているのです」
私が、狂花姫に似ているという。ならば狂花姫というのは――私の母だ。それがわかっているから、彼はそう言うのだ。
「――弄花。姥桜はあなただったのね」
私が名を読んだ瞬間、姥桜が消える。姥桜のいたところには、虚空が広がっていた。
「そうですよ。さて、どうなさいます?」
「どう、とは?」
「……いえ、何もございません」
弄花が私に何か伝えようとしてくれているのはわかる。けれども、私にはそれが何なのかを把握する頭がなかった。
ついに婚姻の儀の日がきてしまった。今日で私の命も終わりである。今までに、もう散々覚悟を決めてきた。だからもう、大丈夫。ひとつ心残りがあるとすれば、花兄様と春告だ。花兄の庭を出てから一度もお会いしたことがない。
そんな私の心など関係なく、今生の中では最初で最後の豪華な籠——花筐というそうだ——に入れられた。着せられた真っ白の装束の衿元には懐刀が入っている。
宮殿庭園の最奥、〈祈りの庭園〉。ここは玉砂利と木製の祭壇、そして飛び石のみの広間である。ここに全ての季節の、色とりどりの花が飾られた。これは花守の力で意図的に狂い咲きを起こしたものだと推測できる。
花筐を降りて、祭壇の元へ進む。私の関係者として徒名草の君が、花神様の関係者として妖花姫が呼ばれ、祭壇の前で私に花束を差し出した。徒名草の君には感謝をしているが、花兄様でなかったことを残念に思った。――その瞬間のことだった。
誰かが、私を白刃で斬りつけた。誰、と思うよりも速く顔から流れる紅。他人事のように思えて私は立ち尽くした。そしてその犯人として名を呼ばれたのは。
「花兄の君!」
生きていた。嬉しい。けれども、どうしてそんなことを。とても信じられなかった。
「すまない。けれども、やらなければならない」
私は、その身体と話し方に表れる焦燥を感じ取った。何がそんなに彼を追い詰めているのだろうか。
「花兄の君。いくら庭持ちだからといって、許されることではありません!」
徒名草の君が、花兄様を責める。咄嗟に私は婚礼衣装を脱ぎ、花兄の君の許まで駆けた。顔が熱をもち、ひどく痛む。けれども、何よりも痛かったのは、心だった。だからそれを隠すように、花兄様の許へ向かう。
「花兄様。あなた様は何に焦っていらっしゃるのですか。そのお心のうちを、お聞かせ願えませんか」
脈打つ心臓。痛みに耐えて、できるだけ優しく尋ねる。けれども、彼は私を前にして固まってしまった。
「花兄の君。お願いです。聴かせてください。貴方様が側にいてくださるだけで、私は幸せでいられるのです。斬られようとも、よいのです。貴方様の幸せが、私の幸せでございます。だからどうか――」
「花兄の君。もう終わりにしましょう。もう遅いんだ、なにもかも……」
花弟の君の、ひどく冷えた声が耳に入る。花弟様の貌を見た。そこには――笑壺に入った笑みがあった。それを見て、私は全てを悟った。これは、私を殺すものだ。花兄様と花弟様は――妖花姫だけではない。私のことも標的にしているのだ。
「我らは偽花なり」
「我らは偽花なり」
口々に声がする。ついに、花兄様も口を開いた。もう、一寸の迷いもない様子だった。
「我らは偽花なり」
なぜ、なぜ、なぜ。
「いいか、一花。お前は、妖花姫の亡くなった姉の娘だ」
それは、知っている。
「お前の母は、宮殿庭園を滅ぼそうとした大罪人だ。だから、お前はいてはいけない子だ」
この声を知っている。弄花のものだ。
「私には、関係ないことです」
「お前の存在はこの世界にとって害悪だ。今すぐ消え失せろ」
ぽろり。雫が落ちた。壊れていく気がする。落花情あれども流水意なしとはよく言ったものだ。残花だけが、私のために果ててくれるのだろうか。もしかしたら、残花すらも私と運命を共にしてくれないのかもしれない。ぽろり、ぽろり、ぽろり。涙は留まるところを知らない。私はいらない。私はいてはいけない。私は、花兄様の邪魔。私は、私は、私は……あああああああああああああああああああああああああ!
なぜ私はこんな世界に、こんな風な生まれをしたの。なぜ思い通りにならないの。なぜ私ばかり辛い目に遭わなくちゃいけないの。幸せになれないの。存在を否定されるの。なぜ、なぜ、なぜ。
懐の懐刀を取り出す。幸いこの懐刀は、かなり斬れそうである。きっと彼がすり替えたのだ。ああ、これで終わりにしようか。それはとても甘美な誘いだ。だが、その対象は私ではない。不遇で、騙されて、何もかも奪われた私がこの運命を辿るなど、許されるものか。
「あああああああああああああああああああああ!」
憎い。慕わしい。残酷だ。優しい。憎い。好き。許せない。感謝している。憎い。憎い。憎い。――ああ、そうだ。私は、花兄様が憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い――!
激情が私を支配し、花兄の君に向かう。優しかった彼。だが、そんなことはどうだっていい。彼を生かしてはいけない。彼を殺さなければ。だって彼は私の気持ちを弄び、私のことを裏切った。ならばもう、忠誠を誓うなんてできるわけがない。
真っ直ぐに振りかぶる。かわされる。もう一撃。――刺さった。そう思ったが、次の瞬間、後ろから動きを拘束された。背後にいるのは。
「花け――」
「諦めろ。お前の存在は永遠に許されない」
彼が冷笑しながら発せられた言葉で、すうっと熱が冷める感覚がした。手に握っていた懐刀をじっと見る。――覚悟ならここに来る前に決まっている。この世に居場所がないとすれば。これで楽になれるのなら、きっとこれが最善なのだ。
「花兄様。お慕い申し上げておりました。あなたの隣にいることが、私の幸せ。なれば、この怨念だけは、貴方様の隣に置いていきましょう」
迷いなどない。滲む視界の中、私は己の身体に向かって懐刀を振り下ろした。一瞬のひやりとした感覚の後、熱と痛みを胸に感じる。震えてままならない腕を無理に使ってそれを抜き、そのまま頽れた。
*
ぽろぽろと、天から零れ落ちた雪がちらつく。それはある冬の日のことだった。陽の出ない夜は寒さをより一層強くさせる。着古された上等な紅の衣服を身に纏い、襤褸できつく目を巻かれた幼き子は、小柄な男に背負われていた。男は上等ではないがそれなりの服を身に纏い、笠を頭につけている。ぴゅう、とひと吹きした寒風が肌に触れ、幼子が身を縮める。
「……ごめんな」
男は痛ましげな顔で、幼子を背から降ろす。子は、何かを察した様子で男にすり寄る。けれども、男はやんわりとその身体を引き剥がす。
「俺には、どうしようもないんだ。俺に着いてきても、殺されるだけだ……どうか、元気でな」
幼子が崩れ落ちたとき、男は静かに立ち去った。幼子は、何をする気力も残っていないようである。
私は物陰からその光景を見ていた。しばらく様子を伺っていたが、男が戻ったことを確認すると幼子の手をとった。
「一緒に来ないか?」
声も出せなくなってしまっていた幼子は、怯えて手を引っ込めようとする。そういえば布が目の周りに巻き付いたままだ。それに気づいた私は、その布をできるだけ丁寧に剥がす。
幼子は急に開けた視界に驚きながら、私を見る。目が合ったとき、ぴくりと身体を跳ね上げた。
「どうだ、一緒に来ないか?」
子が、躊躇いがちに手を伸ばした。私はその手をしっかりと握り、抱き上げた。そのまま、私は歩き出した。ぽろり、ぽろりと降る雪は、その勢いを弱めていった。
幼子を排除したのは一花――狂花姫の子だからだが、私はその狂花姫こそを愛してしまっていた。せめて最期の願いだけは叶えたいと思い、密かに花兄の庭で養い、花守として置いていた。だが、それが狂ってしまったのは花神様からのお告げだ。「狂花の娘を供花とし、妖花を同行させることとする」というものだ。
花神様は絶対だ。抗おうとするならば、確実な罰が降ることは間違いない。世界の均衡が失われることだって起こりうる。だから、そうせざるをえなかったのだ。けれども、それで易々と一花を手放すことは許容しがたい。私はひとつの可能性に賭けることにした。けれども、彼女の心の動きは予想外だった。結果、花神様との賭けは惨敗かつ、私は大きな罪を背負った。
私を呼んで力尽きた彼女。――これで排除のお達しは完了した。だが、それとは対照的に私の心は重く暗い気持ちで支配されている。彼女を生かしてあげたかった。彼女を手放したくはなかった。初めは狂花姫の形見を手に入れたかっただけだった。けれどももう、母と同じように子も愛してしまっていた。母のように美しく、けれども母よりも強く脆く育った彼女に、確実な想いを寄せていたのだ。一体、私はどうすれば良かったのだろうか。
十七年前。花神であるこの国の王は、予言をした。「美しきと季節外れの花には気を付けよ」と。はじめは何のことかがわからず、一花の母である一花姫とその姉である妖花姫を入れてしまった。だが、これは自然な流れだった。非常に美しい彼女たちを受け入れないとなれば不審を抱かれるからである。そして彼女たちを、花神様は中央から手放そうとしなかった。これも、目の届くところに置いておきたかったとすれば良い選択だ。問題はここからだ。一花姫と妖花姫は、その美貌のために権力を持ちすぎてしまった。
美は権力だ。美しいものに囲まれた宮殿にしようと思ったのがこの庭園の始まりだから。身が美しければ、心も美しくなろう――と。だが、想定にないほど美という権力に流れてしまったようだった。特に妖花姫は、権力を巧みに使い、頂上へと上り詰めた。狂花姫は、権力を好まないが権力に愛されてしまっていた。花神様はこの庭園に直接干渉できない。だから我々を使って排除しようと画策した。花神様が想定外だったのは、我々にも情があるというところだ。私も、一花のことはかなり気に入っていたのだ。花弟も、かつては一花姫に心奪われていた。徒名草の君も、妖花姫のことを気に入っていて、排除の指示に従おうとしなかった。徒名草の君と妖花姫については、傍目には反対に見えていたかもしれないが。
「さて、妖花姫。花神様からの命令だ。お前にも死を賜ろう。一花を貶める、私権の濫用、その他諸々の余罪がある。連れていけ」
私はそう命じ、部下をこの周辺から離した。妖花姫はきっと一花が閉じ込められた暗い牢へと閉じ込められるのだろう。これで、ようやく一花と二人きりになれる。
私は一花の亡骸を抱きしめる。落花枝にかえらず。けれども、せめてもの償いとして私はそうしたいと思った。
「一花、私もだ。弄んで悪かったな。お前は母と同じ狂花――季節外れの、綺麗な花だった。恨みつづけるのは辛かろう。今はせめて安らかに……」
地に落ちる。水に落ちる。朽ちる。流れる。血も、涙も、心も。長い年月を経て正しくそれらがなくなったことを確認し、私は泣くように笑った。そして、己を同じ懐刀で貫いた。