守り猫5:船守猫
遠くへ行きたい
打ち寄せる浜辺に一人立った少年は、水平線の向こうに消えていく船をいつまでも眺めていました。少年の名前はイハエル。漁師の住む村に生まれ大人になれば漁師になると思っていました。
少年の考えが変わったのは10歳を過ぎた頃のこと。海の遠くに消えていく船は一体どこへ行くのか。水平線の向こうの国々や景色を見てみたいと思うようになりました。漁師の家で育ったというのに船乗りになることにしたイハエルは、小さな船を用意しました。
家族や親戚、村の人々が止めるのも気にせず、ある晴れた日に一人船出しました。小さな船ではあまり遠くへ行くことができません。たどり着いた町や村で別の船に乗せてもらい、働きながら船や言葉、商売を覚えていきました。
イハエルの旅は危険もありましたが、ほとんどが楽しいものでした。珍しい国の食べ物や布、わからない言葉、その国のしきたり。イハエルには理解できないような文化もありました。そのすべてが新鮮で、イハエルの前で輝いています。夜になれば空に浮かぶ星を数え、海図と天体図を教わりました。人魚の入り江を通る時は、決して油断するなと言われ、打ち捨てられた古い神殿は昔、海底にあったものだと教えてくれました。
楽しい、面白い、怖い、不思議。未知の世界が広がり、どれほど旅をしてもイハエルは全てをまわれないだろうと思いました。
どれほどの時を旅に費やしたが、気づけば自分はどこに向かいたいのだろうと考えるようになりました。たくさんの人に会ってきましたが、みんなそれぞれ旅の目的を持っていました。
イハエル、君はどこへ行くんだい?
遠くさ、もっともっと、遠くさ。
聞かれるたびにそう答えていましたが、目的をもった旅人が羨ましくなりました。家族の元へ帰る人、商売のために海を渡る人、海賊から海を守る人。漁をする人、新しい土地を探す人。みんなそれぞれ目的があります。ただ遠くへと願う自分がどうもちっぽけで大したことがないように思えました。
長い間旅をつづけたイハエルは、お金を貯めて小さくて丈夫な船を買いました。イハエルだけの船です。この船に乗りどこまでもどこまでも行こうと思いました。
港で船出の準備をしていると、黒い子猫がこちらを伺っているのに気がつきました。黒い前足をきちんとそろえ、瞳は深い緑色をしています。海の中に生えている苔のように鮮やかな緑でした。
子猫はミハエルと目が合うと、小さな口を大きく開けてなあんと鳴きました。
イハエルの船は人を乗せられるほど大きくありません。自分一人と子猫一匹。それなら大丈夫だろうと思いました。
「行き先はわからない。乗るのは僕ひとり。それでも良ければ一緒に行くかい?」
子猫はととととっと走り寄り、まるで自分の船だと言わんばかりに舳先にちょこんと座りました。子猫が早く船出しようと言わんばかりに鳴いたのでおかしくなりました。
「お前の名前を決めなきゃね」
なあんと鳴く子猫をイハエルは、ハロルドと名付けました。ハロルドは勇敢で賢い猫でした。嵐にも負けず荒れる空をきっと睨みつけます。霧の深い日にもちゃんと方角がわかっているようで、イハエルにこっちだこっちだと鳴いて知らせます。ハロルドと旅をしていて、迷ったことが一度もありません。港に着けば、イハエルと一緒に町を歩き回ります。
「やあ、君の猫は素晴らしい猫だね。つやつや輝く黒の毛並みは、美しい黒のビロードのようだ」
褒められたハロルドは得意そうに鳴きます。イハエルも嬉しくなって、ハロルドのことを自慢しました。この猫といるとひどい嵐にあわないこと、霧が深くても必ず港につけること。
「一度サメに囲まれたことがあってね、ハロルドが歌うように鳴いていたら、サメが遠くの方へいってしまったんだ」
「君の猫は海の神からの贈り物だね」
照れたように笑うイハエルのそばでハロルドが鳴きます。まるでそうだと言っているようで、イハエルは嬉しくなりました。港町で食料を調達した後、天候の良さを見て船旅に出ることに決めました。今回は運の良いことにちょっとした荷物を運ぶ仕事があります。隣の島に寄れば良いだけの簡単な仕事でした。
「荷物を届けたら少し自由にまわろうか。ハロルド、お前はどこへ行きたい?」
ハロルドは深い緑の瞳を瞬かせて、イハエルとハロルドの乗る船へと走って行きました。ハロルドの特等席、舳先に座ってイハエルに早く来いとばかりに鳴きます。イハエルは、ハロルドがいるならどこにでも行けそうな気がしました。
ハロルド、どこへ行きたい?
遠くさ、もっともっと、遠くさ。
きっとハロルドもイハエルと同じことを考えているのでしょう。イハエルとハロルドの帰る先はこの小さな船で、船という名の家は海をすべってどこまでも走ります。
家が海の上を走るだなんて、なんて素敵だろう。
イハエルは目的がないことを気にしなくなっていました。今日もイハエルとハロルドは海を走っています。
読んでいただきありがとうございました。