珠洲の経歴
元々ご先祖様は北陸に住んでいたらしい。今は野瀬と言うけれど、平安時代は六条なんて大層な家柄で、京から都落ちした没落貴族の末裔と言い伝えられているけれど、どこまで本当か定かではない。
東京近郊に生まれ、普通の小・中・高・大学を経て、都内の中堅広告代理店に就職した。元々能力があったのか、今では同期で出世頭のチーフの役職を得ている。ここの広告代理店では、仕事が複数の班や課もしくは外部の会社に跨り、プロジェクトや組織を立ち上げる場合、その組織作りを統括する役職-プロジェクトリーダー-である。職務内容が多岐に亘り、様々な知識を必要とする。プロジェクト等が一時的な場合は、通常は部長級が兼任するのが通例(この場合、副チーフが選任され、これが実質的なプロジェクトのチーフになる)であるが、プロジェクト自体が長期に亘る場合、チーフは専任になり、珠洲の場合、これに当たる。
高校・大学は公立で偏差値も中の上クラス。就職時も特に目立った存在ではなかった。だが、学歴と仕事は別であるという例えにある通り、就職後めきめきと頭角を現していく。広告代理店という特性上、多くのプロジェクトがあり、その一つに加わると僅か半年でそのプロジェクトを社内でも1、2の収益を上げるものにしてしまった。元々、解散しかけていたプロジェクトで、欠員が生じたため、1年生であった珠洲は言わば敗戦処理的な役割で配属されたのだが、ネット配信に限定してコストを抑え、ターゲットを絞ったメディアミックスを展開すると、それが大当たりし、再びTVで続編が決定した。運もよかった。TVではそれほどの視聴率は取れなかったが、企業の間では高い評価を受けていて、後押しがあればというところに珠洲の会社が手を挙げたのだ。ところが珠洲は直ぐに別のプロジェクトへの移籍を希望する。珠洲的にはビギナーズラックだという思いが強く、変な期待をされても困ると思った。正直、自分はコツコツと実績を積み重ねていきたかったのに、就職してから短期間で成果を上げてしまった、自戒の意味もあった。運命とは面白いもので、その後も珠洲が所属するプロジェクトは悉く成功した。
それ以降、珠洲は女神的な存在で多くのプロジェクトに携わるようになる。上層部は若い珠洲を女神の如く崇め奉ったのだ。
(女神・・・か)
珠洲は独り言ちした。その女神ももう27歳。じっと自分の手を見つめる。一瞬、病いを帯びた痩せ細った白い手と重なりはっとする。
(彼女も元気だったら、宮仕えでもして仕事をしていたのだろうか)
珠洲はぼんやりと考えた。
(いや、後宮に入って妃候補かな)
第5プロジェクトのチーフ席に座り、過去へ思いを馳せていた。
「チーフ」
部下の一人が資料を持ってチーフ席に来た。
「何かしら?」
「このプロジェクトの企画書なんですが・・・」
このプロジェクトに所属して2年目の20代前半の部下だった。
(またか)
珠洲は内心苦笑いした。今のプロジェクトは立ち上がってから5年が過ぎ、かなり下火になっていて、上層部からもそろそろクローズすべきではないかと意見が出ていた。ただ、最近になってプロジェクトのメディアミックスの一環として行ったネット配信が好評で、再び脚光を浴びるのではと噂されていた。それにかこつけてその部下は何度か企画書を提出していた。しかし既存の範疇の域を出ず、ボツになっていた。このプロジェクト内では最年長になる彼は実績を残すのに躍起になっているのだ。
「取り敢えず、預かります」
「よろしくお願いいたします」
彼は期待を込めて珠洲を見た。彼が席に戻るを見て、珠洲は企画書を颯と一読した。
(目の付け所いいけど、考えが浅い・・・統計的な根拠に欠けている)
企画の内容自体は悪くないが、企画の内容を一面からしか見ておらず、多角的な視野に欠けており、根拠となる参考文献も記載されていない。さすがに2年在籍しているだけあって、プロジェクトの中身はよく分かっているけれど、一発屋と言うか、博打的な要素が否めなかった。
珠洲は企画書を持って部下のところへ行くと、多くの人にこの企画書を見てもらう事とこの内容が一年以上続く根拠を提示する事を打診した。
珠洲が所属するプロジェクト部は、ビルのワンフロアを仕切りを作らず各プロジェクトが見渡せるようになっている。さすがに部長室と副部長室は仕切られていた。プロジェクト毎に机が島を作っていて、隣りのプロジェクトとの間隔も広く、余裕を持った作りになっている。事務室と言うと、各課毎に仕切りや書棚が周りを囲っていて、ひどく手狭なイメージがあるが、プロジェクト部は外部からの出向も多く、出入りも激しいため、こういったスタイルになった。書類や資料は別の階に資料室に格納されているが、基本電子ファイル化され、ペーパーレス化が進んでいる。原則床に書類やそれ以外の物を置く事が禁止されており、その代わり資料を広げるスペースが設けられている。同じフロアにはガラスで仕切られた休憩室も設けられており、飲食が可能なようにテーブル・椅子が等間隔に置かれている。また、プロジェクト部の社員もしくは外部からの派遣社員限定-セキュリティや他フロアへの入室制限の関係-で複数の階に、更衣室、シャワールーム、仮眠室、トイレ、化粧室(女性が化粧直し出来る)、スポーツジム、娯楽室(ゲーム機が置かれている!)、喫茶店、食堂、売店、自動販売機(カップ麺・うどん・蕎麦・おにぎり・パン・お菓子・アイス等々)、休憩スペース(食事可能)が併設されており、外部派遣社員にも好評だ。特に食品自動販売機は下手なコンビニに行くより格安で、食堂や売店が定時で閉まってしまうのとは違い24時間営業で、種類も豊富で、季節毎・月毎に品揃えが替わるのでおり、次はどんな食品が入るのか楽しみにしている社員もいる。斯く言う珠洲や一重もその一人である。
「石井君も焦っているようですね」
珠洲が休憩室に行きコーヒーメーカーからコーヒーを入れていると、副チーフの一ノ瀬(女性、26歳)が珠洲にさり気なく囁いた。
「ま、企画書を出す事は買うけど・・・」
「このプロジェクトも終わりが見えてるですが、分からないんですかね」
「しっかり教えてやってね、一ノ瀬チーフ」
「えっ」
一ノ瀬は驚いて珠洲を見た。
「まだ、内々の話なんだけど、次の人事であなたがここのチーフに決まったわ」
と囁いた。一ノ瀬は他の社員に見えないようにガッツポーズをした。
「今日、残業していいっすか?」
すっかり体育会系のノリだった。私とは違うタイプだと珠洲は思った。優秀でムードメーカーな彼女はプロジェクトのメンバーには必須だった。だからこそ、彼女のモチベーションを上げるために事前に極秘事項を話したのだ。仮に上にバレても私が怒られればいいのだから。
「それで野瀬チーフは?」
「第3」
「ああ・・・今一番安定しているプロジェクトですね。出世じゃないですか」
「まあ、プロジェクトに優劣はないんだけどね」
数年前に珠洲が受け持ったプロジェクトが解散し、他のプロジェクトのチーフが入れ替わったばかりで珠洲に見合うプロジェクトがなく、一時的に今のプロジェクトに珠洲が配属されていた。短期間と聞かされていたので、終息間近なプロジェクトは珠洲にとっては片手間だった。
「わあ、野瀬チーフと一ノ瀬副チーフが休憩中だ」
他のプロジェクトのメンバーの若い男性が隣りの同僚に声を掛けた。
「絵になるよな。プロジェクトのメンバーの中でも出世頭'sだからな」
二人の遣り取りを見ていたイケメン男性メンバーは凛々しい珠洲の姿に憧憬の眼差しを向ける。二人だけではない。他の男性陣も口には出さないがチラチラと休憩室に視線を遣っている。
「彼氏、いるんだろうな」
「いや、いないらしいぜ。どうも男性は苦手らしい」
「ふうん」
確かに珠洲のプロジェクトは女性のメンバーが多数を占めていた。
「あんなに美人なのに・・・勿体ない」
珠洲は社内でも男性陣に人気があった。結婚適齢期を迎えた男性社員の中には、珠洲に告白した先輩もいるらしいが、玉砕したらしい。