01-07:山娘の日課と経歴3
記憶を辿りながらリアは空を眺める。
なぜ今日はこんなにも昔のことばかりを思い出すのだろう。いつもはもっと漠然とした空想だったり、料理の作り方だったりするのだけれど。女将さんの言うホームシックも今更感がありすぎる。
(そうか、瘴気だ。昨日久しぶりに瘴気を感じたから……)
ぼんやりと空を見上げながら、一人納得する。
瘴気という言葉と存在を初めて知ったのは、七歳を少し越えた頃だった。
リアがルミナで住んでいたのは山奥ではあるが、年に数度は人が来ていた。
ほとんどが行商人や冒険者である。
町から町への移動は街道を使うのが一般的だ。街道沿いには村や町が多いし、魔物と遭遇する危険も少ないからだ。だが、街道は基本的に大きな街と街を繋ぐもの。ラボル周辺やそれよりも更に南から南都ルズールへと向かう場合、街道を使うと大回りに迂回することになる。
短距離を望むのならば、リア達が住んでいた山を越えた方が圧倒的に早い。
街道のように整備されているわけではないので、大型の馬車は通ることが出来ない。また、山道は街道沿いとは桁違いに強い魔物と遭遇するリスクも高くなる。不思議と魔物は街道沿いや町中に現れることが少ない。人里離れた、魔素が多い場所ほど出現率は高いというのが一般論となっている。
不便で危険。
しかし、自身の戦闘力もしくは逃げ足に自信があるような人ならば、移動時間短縮のために山越えを選ぶ。毎年同じ時期に山を越える、顔なじみの行商人も居たくらいだ。彼らがついでにと注文の品を持ってきてくれるから、山の中でもそこそこに文化的な生活が出来ていたのだろう。
リアが瘴気を知るきっかけになった者も、旅人だった。
彼は笑顔を浮かべ、リアにも愛想よく話しかけてきた。
別段不気味だと思う要素は無いはずだが、一目見た瞬間からリアはその男が怖かった。男が近付くほど、動くほど、ピリピリと皮膚の表面が焼け焦げているような感覚がある。だと言うのに胸の奥は氷を埋め込まれたように冷えていくのだ。
本能が近寄るなと警告しているような、嫌な感覚。
あの人は怖い。嫌だ。
男が席を外した隙に、リアは必死に怖いから泊めるのは嫌だと言い、ルミナは頷かず「寝るのは私の部屋にしなさい」と答えた――はずである。恐怖を感じながらも、夜にルミナのベッドに潜り込んでいたことだけは鮮明に覚えている。
その夜。
嫌な予感の通り、男は表面に貼り付けていた“善人”の仮面を剥ぎ取った。
寝静まったとでも思ったのだろう。目を血走らせて、歪んだ醜悪な笑みを浮かべて祖母の部屋へ押し入ったのである。足音が聞こえるよりも前から、リアは肌で男が近づいてくることを感じていた。
普通の女性が住人だったなら、男に蹂躙されたはずである。
だが、残念ながらルミナは普通ではない。そうでなければ山奥に一人で住むなんてしないだろう。当時のリアにとってはルミナこそが普通だったが、今思えば全くと言って良いほど普通ではない。
ルミナは魔術師であり、狩人としての腕も一流。
扉を開けずにぶち壊すというリミッターの外れっぷりを披露した男も、ルミナの手にかかれば呆気ないものだった。小突いかれただけでくたくた崩れ落ち、二度と動くことはなかったのだから。
リアは十歳を過ぎた頃にやっと、あれは死んでいたんだな、と分かったくらいである。
自分よりも大きな男を担いで出ていったルミナは、その翌朝リアに瘴気というものを教えた。
曰く、瘴気は妄執や悪意などが凝り固まった悪しきモノ。
曰く、瘴気は時間が経つと薄れて消える。
問題なのは人に取り込まれた瘴気は消滅しないこと、瘴気に魅入られる性の者が少なからず存在する事だ。他者を傷つけることに、命を奪うという行為に快感を覚える者。そういった者達は瘴気に染まり、瘴気によって己の残虐性と狂気を膨らませていく。
『リアは瘴気を感じられるみたいね。嫌な感じがする相手には近寄らず、最大限の警戒をしなさい。瘴気を払う方法は私も知らないから、決して近づかないということが最も確実に身を守れる方法よ』
それから現在に至るまで、リアは何度か瘴気を漂わせた者を目にしてきた。
ある者は祖母に襲いかかり、ある者はラボルで人を殺した。
何もせずに通り過ぎて行った男も一人居たものの、後に手配書が回ってきて町中が大騒ぎになった。その事実を知った時にはもっと自分の本能を信じようと思ったものだ。
昨晩アルスという男から感じたものは瘴気によく似ていた。
しかし、ほんの一瞬だったことが気になる。
今までリアが目にした人達は、害意があろうが無かろうが“常に”リアに独特の不快感を与えてきた。リアに対しての感情も、その時の彼らの気分も関係ない。目には見えないが、取り憑かれたときからずっと瘴気という膜に覆われ続けているのだろうと想像している。
(まっ、考えても仕方ないか。女将さんが紹介してくれたけど、話す機会なんて無さそうだし)
一瞬だけ感じた瘴気のような何かが気にならないわけではないが、考えても仕方ない。世直し行脚をしたいわけでもないから、自分、もしくは自分と親しい人に被害がなければそれで良いのだ。
そういうところは割り切っている。
それにリアはただ昔を思い出し、物思いに耽っているわけではない。
魔力を拡散しながら獲物を待っているのである。
周囲に溶け込みつつ獲物を探せ、というのがルミナの教えである。
世界は生きている、目に見えなくとも常に動いている。だから、見る人から見れば、気配を消しすぎていると逆に浮き上がって感じられるのだそうだ。完全に溶け込めば相手に気付かれること無く、気配を殺しているものの位置も把握できるらしい。
感覚的すぎて掴みどころのない説明だ。
何年かけてリアなりに辿り着いたのが、魔力を出しながらぼんやするという方法だった。思考の大半を自分の内側へと向け、魔職と一欠片の意識で周囲を“感じる”。そうしていれば魔物や獣の位置をぼんやりと感じられる。魔物と獣や鳥との区別もつくし、調子が良ければ魔物の強ささえも朧に分かった。
残念ながら、傍目から見れば半目の少女がぼんやりしているだけ。
人様の前ではやらないほうが良いのはリアと手承知だ。
ぼんやりするという前提があるため、動き回りながらこの方法で周囲を認識することが出来ないのも残念さに拍車をかけている。
満足しているわけではないが、色々試してルミナからギリギリ合格点を貰えたのがこの方法だったのだから仕方ない。
これ以上に優れた探索方法も思いつかないし。
(ん?)
視覚よりも先に、リアの感覚がこちらに向かって空を飛んでくる影を捉えた。
真っ直ぐに進んでくれば丁度狙いやすい位置を通る。
ほとんど意識もしないまま、条件反射で番えておいた矢を引き絞っていた。
視覚が空を舞う鳥の姿を捉えると同時に、放つ。
落下してきたのはレッドグース。
コモングースと呼ばれる灰色の中型鳥の一種で、胸元に数本だけ赤い羽根がある。強さも味もコモングースと変わらないが、この赤い羽根がある分だけ高く売れる。ラボルで狩っていたブルーバードからすれば大分に劣るものの、レッドグース一体で飾り羽の無いコモングース三体分くらいの収入になる。
「よっし、今日はもう帰ろう」
今日明日の食事代くらいにはなる。
早めに戻ってアルカクの街を見物してみようか。
いや、レッドグースの肉は高級品ではないが、不味いというわけではない。肉は納品せず、解体場を借りて肉として持ち帰ったほうが食事代は浮くかもしれない。節約は大事。
そんな事を考えながら、リアは落ちたレッドグースの回収に向かった。
歩きながら上着の胸ポケットをゴソゴソと弄り、縦中の形をした金属製のケースを取り出す。
中に入っているのは吸血虫の針。
吸血虫の針は魔物から得られる素材で、死体に刺せば全身の血を吸い取ってくれる。抵抗力のある生者には効果を発揮しないが、若干は血を抜かれてしまうので取扱注意の品ではある。また、一定量の血を吸うと容量オーバーで機能しなくなるという面もある。
それでも便利なことには違いない。
体のどこかに刺せば短時間で血抜きが完璧に出来る、狩人にとっての必須アイテムである。子供の頃から数えるならば、もう何本使ったか分からない。弓矢と同じかそれ以上に扱いなれたアイテムであり、ポケットに入っていないと不安になるくらいだ。
「焼き鳥、いや、あのキッチンなら小さく切って炒めるくらいかなぁ」
どう食べるかを想像しながらレッドグースを器用に紐で括る。
ベルトに引っ掛けるようにして、腰からぶら下げた。
同じようなことを何度もしてきたのだ。
このくらいのサイズならば担がなくても大丈夫。引きずらないように、揺れて自分にぶつからないようにするコツは心得ている。レッドグースは抜群の安定感で吊るされ、リアの動きをほとんど阻害しない。
山育ち故、山娘もしくは山猿と呼ばれ続けた少女リア。
侮蔑を含んで呼ばれるのは嫌だが、その渾名がよく似合うことは自分でも認めていたりする。
魔物は全て“体”で数えます。