01-01:ヘロン亭の新人1
普通に生きるって、なかなかに難しいらしい。
ジャガイモを洗いながらそんな事を考えてしまって、リアは小さくため息を吐いた。
ここは宿屋兼食堂のヘロン亭。
安くて上手い飯を目当てに、結構な数のお客さんが出入りする店。地区の人気店と言っても良いくらいの店ではあるが閉店時間は早い。客層も夜を徹して騒ぐような人達ではないから、閉店間際になると客席は空席が目立つようになる。
それで良いと店主は言う。
ヘロン亭は酒場ではなく食堂なのだ。提供する酒は三杯まで、文句があれば酒場に行けというのが店主の主張である。金は払うのだから飲ませてくれ、と頼まれようが脅されようが首を縦に振ることはない。
だから常連客は食事を食べたらさっさと帰る人ばかり。飲みつつ騒ぎたい、語らいたい人達は来ない――はずなのだが、今日は女性四人組が陣取ってお茶だけで粘っている。
リアと同じくらいか、少し年上くらいの年齢だろうか。
聞こえてくる会話の中身は、気になる男性、流行、周囲の女性の評価の三つが主。
「それでさぁ、トラウってば流行遅れの青いリボンを付けて来ちゃってさ。しかも、自分はモテるんだってアピールしてくるとか本当面倒くさいの。リヴェはリヴェで、そんな気は無いのに男の人が付いてきちゃうんですとか言ってさ……」
リアは田舎から出てきたばかりだ。生まれ育った場所は、田舎でさえない山奥。そんなところから単身アルカクへやってと来たのは、育ての親の言いつけによって“普通の人間らしい生活”をするためである。
「うっわ。エリザの彼氏寝取ったくせに。」
おそらくは同年代の女性たちの会話を聞くほどに、背筋がひんやりしてきた。
彼女たちを普通とするならば、自分が普通になるのは難しい。人っ気のない山奥で、一人で勝手に生きていろと言われる方が気楽である。むしろ山奥に引きこもりたくなってくる。
ふっと息を吐いて、ジャガイモの芽を包丁の背でグリグリと抉った。
「なんだい、ホームシックかい?」
客席には聞こえないように押さえられた、低い女性の声。
リアが顔を上げれば、赤褐色の髪と目を持つ大柄な女性が厨房へと体を滑り込ませたところだった。ふっくらとした体型ではあるが、その動きは軽く滑らか。
「いえ、大丈夫です。女将さん、お疲れ様です」
からりとした笑顔を浮かべるこの女性こそ、ヘロン亭の店主である。
名前はヘレナ。しかし、ヘロン亭やその周辺で彼女をヘレナと呼ぶ人はほとんどいない。女将さんが呼び名と化しているのだ。リアも採用された際に、本人から女将さんと呼んでくれよと言われている。。
「なら良いんだけど。辛いことがあったら言いなさいよ? 助けてはやれないけど、話くらいは聞くからね。……っと、それでだ。今日も泊り客はなし。食堂も空いているからさ、早いけど賄い作ってくれないかい?」
ヘロン亭は宿屋兼食堂。
食堂は地区の人気店だが、残念ながら宿屋としては繁盛していない。
アルカクという街は国内でも一、ニを争う交易都市だ。大まかに分けても内壁に囲まれた貴族や富裕層が暮らす上区とその関係者が暮らす中区、一般市民や商人が行き交う賑々しい下区の三つに分かれている。外壁の外にも自由区と呼ばれるエリアが続いており、下町の体をなしている。
大きな町であるから、宿を求める人の数も田舎町とは桁が違う。
ならば、なぜ宿屋ヘロン亭には閑古鳥が住み着いているのか――それはヘロン亭が自由区に建っているからである。自由区で宿の需要がない訳ではないが、日が落ちると外壁をまたいだ移動が出来なくなるという難点があるのだ。そのため市場が目的の商人や、移動を兼ねて護送依頼を受けたい冒険者は下区に宿を取るのが大半。
財布を気にする場合であれば、雑魚寝の安宿を使うか、拠点にするなら自由区の貸し住居に住んでしまう。
対してヘロン亭は個室。部屋は狭いがしっかりとした作りで、寝台やクローゼットもある。宿泊料金は同レベル宿からすればかなり安いのだが、残念ながら自由区の宿屋に求められる範囲ではない。
ついでに食堂が繁盛しすぎていて、宿屋だという印象も薄い。
結果として、宿屋ヘロン亭の方は常に閑古鳥が鳴いている。アルカクに来た際の定宿としているお得意さんも居るそうだが、リアが働き始めて約一ヶ月の間で宿泊した客は居ない。宿屋スペースの二階で眠ったのはリアだけである。
「……私が、ですか? 家庭料理くらいしか出来ませんけど」
「アタシが店で出しているのだって家庭料理だよ。毎日大量に飯を作っているとね、人様が作ってくれたものが食いたくなるんだ。任せたよ」
リアは月に数回だけ皿洗いや仕込みなどの雑務を手伝っている。賃金は発生しないが、それで使われない宿の一室に住ませてもらっているのである。 アルカクに知り合いも身元保証人も居ない身としては、住む場所を提供してくれた女将さんは恩人。
その女将さんの頼みだ。
ハードルが高いが、嫌とは言いにくい。
「……使って良いのは、このジャガイモと、何かありますか?」
「この卵は使っちまいたいね。そのジャガイモも全部使っちまおう。余ったものは明日の飯にしなよ。あとは、まぁ、二人分くらいなら好きに使って良いよ」
「うぅーん……トマトソースと付け合せのスープも良いですか?」
「鍋のスープは使い切っても良いよ。トマトソースは、こっちなら良し」
目の前に出された卵と、小ぶりのビンに入った女将さん謹製のトマトソース。
このトマトソースは美味しくて、未開封ならば日持ちもする秀品。開けたものがあったのは運が良い。これを使用できれば、ジャガイモと卵は短時間で料理に転じてくれるはずだ。
どこか気の抜けた笑顔を浮かべつつ、リアは芽をとったジャガイモを鍋へ入れていく。ジャガイモが隠れるくらいまで水を入れたら火にかけて、その間に卵を割ってかき混ぜる。
ジャガイモが良い具合に茹で上がれば、鍋を持ち上げて洗い場へ。
業務用サイズの大鍋は、小柄なリアには大きすぎるように見える。それでも彼女は危なかっしさを感じさせず、しっかりとした手付きでお湯を切った。ほう、と女将さんが感心したような声を漏らす。
「よーいしょ――うぉ、熱っ!」
濛々と立ち上る湯気でリアの姿が揺らぐ。
「ちょっと! 大丈夫かい!」
「大丈夫ですー。……イモ、イモッ、お芋さん」
心配したのが馬鹿らしくなるような、気の抜けた声。
鼻歌のような節回しでイモを連呼しながら、小さな手で転がすようにして芋の皮を剥いている姿が見える。その横顔もやっぱり気が抜けているように感じられて、女将さんは口の端だけで笑った。
皮を剥いたジャガイモは小さめに角切りに。半分くらいの量を取り分けて塩で下味をつけ、溶いておいた卵に混ぜ込む。浅めの片手鍋に流し込めば、後はじっくりと弱火で焼くだけだ。
「なかなか手際が良い。若いのに感心だね」
「私は十八歳ですよ! 前にも仕込みは手伝っていましたし」
「……十五にもなっていないように見えるから、つい、ねぇ」
「女将さんっ!」
ハッハッハと笑いながら、女将さんは大きな手でリアの頭をポンポンと軽く叩く。
背が高めの女将さんと、平均よりも背の低いリア。並ぶとリアの頭は女将さんの顎に届くか否かというところだ。十五に見えると言われて唇を尖らせつつ、リアはジャガイモを茹でた鍋を洗う。
本人は気付いていないが、そうした表情がより一層幼く見えるのだ。
「……そんなに、私、子供っぽいですかね?」
「小柄だし、可愛らしい顔って事だよ。羨ましいねぇ」
「……何にも良いことはないですけど」
「門番のイザックが心配して様子を見に来たじゃないか」
「あれは、仮成人もしていない子供と間違えられたから……」
「心配してもらえるっていうのも強みだろう? アタシなんて死なないと思われてるさ」
確かに女将さんは魔物の居る山を一人で歩いていても、心配されないかもしれない。むしろ道行く人々を心配して豪快に救いの手を差し伸べていそうだ。元冒険者でもあるそうだし。
そんな御本人には言えない想像を膨らませつつ片手鍋を見れば、卵には程よく熱が入っていた。
「えいやぁっ!」
気合を入れて鍋を揺らし、天地を返す。
初めての厨房と鍋で不安だったが、きつね色の焼き色が付いた面が綺麗に表面に躍り出た。リアはほっと安堵の息を吐いて、火を止める。
ここまで来れば予熱でも十分に火が通るのだ。
残ったジャガイモはしっかりと潰して、ジャガイモの三分の一くらいの小麦粉と塩を一つまみ混ぜる。少し水を入れたら体重を掛けて捏ねる。しっかり捏ねる。手触りがもっちりに変じたら、一口サイズに丸めて少しだけ平らに。鍋に入れて軽く下茹でしてから、スープに入れて温め直すついでに軽く煮込む。
沸かないように横目で眺めつつ、隣でしっかりと焼き固められていた卵とジャガイモをそっとお皿に移す。温まったスープをそれぞれのカップに入れれば完成だ。
「出来ました!」
「はい、サラダも食べようね」
「え! いつの間にっ?」
知らぬ間に調理台の端の方は即席のテーブルと化していた。
女将さんの手際の良さに驚きつつ、リアも慌ててスープを注いで食器を運ぶ。
簡単な料理。二品とも無事に出来て心底ホッとしているのは秘密だ。
「じゃ、早速いただこう。これはオムレツ……の仲間かな? こっちは見たこともないが、出身はラボル辺りだよね? ラボルにはこういう郷土料理があったかい? どっちも私は見たことが無いんだけど」
「えーと、どこの料理かは分かりません。祖母に習ったんですが、ラボルでも見かけないはずです。卵とジャガイモを混ぜて焼いたのはスパーニャ・オムレツ、スープに入れたのはジャガニョッキと呼んでいました」
ヘロン亭で働き出して約一ヶ月。
実際に下働きをしているのは十日に満たないくらいだが、まだ客がいるのにご飯を食べるのも、自分が作ったものを女将さんが食べるのも初めてのこと。少しだけ緊張しながらも、嬉しそうにリアはフォークを握りしめた。