Ending-2 黒羽色のガラス
PIRO北海道支局の長である橘支局長が紙面とにらめっこしているのを、響子は眺めていた。
シアンカムイとの戦いからこの方、ろくに休んでいないのだろう。橘支局長の目の下には隈が浮かんでいた。
「お疲れですね、支局長」
「さすがに、な。まあ、こういう時間で息抜きができるけどね」
そう言って、コーヒーを飲みながら響子の顔を伺う支局長に、そっと微笑んだ。何事もなかったかのように居座る響子を、むしろ支局長は歓迎した。
彼の仕事は多岐に渡っている。被害状況の報告もただの数字ではない。
「シアンカムイが倒れたことによって、北海道にある呪術的均衡の乱れの試算……言わば龍脈の乱れというやつだが、そいつが厄介だ。何せこの地は未だ未開で、知られていないことが多すぎる」
「……まあ、それは大変ですね」
他人事のように響子は言う。
いま現在、北海道支局の人員は北海道中に散っているのだという。各々が駐在所を拠点にして龍脈の捜査にあたっている。中には妖怪の類が活性化し現れることもある。そういう事態を逐一把握し判断するのが支局長の仕事だった。
その一方で、人員についての問題があった。北海道という広い土地では、人員の配備が上手くいかない。札幌にさえまともな戦力となるのは雪花しかいないような有様だったのだ。
「幸いにして、PIRO北海道支局の捜査員に死者はなし。葉沼くんの容態は心配だけどね。まさか彼について、総本部長からもお達しがくるとは思わなかったけど、君は何か知ってるかな」
支局長は指で紙を叩いた。そこにあったのは三枚の紙だ。
一枚目は葉沼吉暉の扱いについて。正式に捜査員として登録するための申請である。
二枚目は天使を自称する少女についての処分のことであった。遠目から見る限り、北海道支局での預かりとするようである。
そして三枚目は、咲楽井響子の配属届けであった。
それも本部から届けられたものである。支局長の認識では、響子は本部より派遣された人員という扱いになっていた。
無論のこと響子も、そのように振る舞う。偽りのものであるとは言え、正式に京都にあるPIRO本局の捜査官として登録されているのだ。
ここでそれらしい態度さえ取っていれば、信じさせるのも容易い。
「いいえ、特には。しがない一捜査官ですので」
「そうか。うん、すまんな詮索をするような真似をしてしまって。君は少し大人びて見えるからついね」
「他の人たちと比べれば、大人です」
「私から見れば子供であることに変わりないよ」
笑う支局長に、曖昧な笑みで返した。
八咫鴉から新たに与えられた任務は、PIRO北海道支局への潜入調査であった。
無論のこと明確な目的があるわけではない。言ってしまえばPIROなど半官半民の中途半端な組織なのだから、相手にする必要もない相手だ、と八咫鴉の中でも響子の属する派閥は考えている。
けれども、響子は言った。無視することはできないと。雪花という少女はこの北海道という土地の中心に立つ者だ。今後の動向を共にすることで、どこかで八咫鴉が北海道を手にする契機を見出すことができるかもしれない。
尤も個人的興味もあった。雪花という少女に向けての強い想いは、どうにも捨て切ることのできないものだ。
彼女を屈服させることへの願望に燃える。
そしてそれと同時に、あの男をいつかこの手で……。
想念を抱いた響子を見て、八咫鴉の者たちは笑った。ならば好きにするがいい、必要なものは全て揃えようと。
ゆえに、響子は望んだ。PIRO北海道支局の捜査員という立場をだ。
「咲楽井くん、どうした?」
ぼうっとしていたのか、支局長がそう声をかける。いいえ、と首を振れば深くは聞いてこなかった。
「戦いの疲れもあるだろう。今日はゆっくり休みなさい。そうだ、葉沼くんの見舞いに行ってみるのはどうかな?」
「は?」
「……うん?」
「いえ。今日は荷ほどきなどがありますので」
「そうかそうか。じゃあお見舞いは鶴喰くんに頼むとするよ。言わなくても行くと思うけどね」
ぎりり、と響子は唇を噛んだ。失礼します、と言って執務室を後にし、北海道支局からも出た。
札幌の冷たい空気を物ともせず、薄着の響子は歩く。自分の内側からの熱によって常に暑く感じている響子にとっては、心地よい程度の気候だ。
これからしばらく、この地で過ごすのだ。少しでも楽しみがあればと、そう思うのに。
鶴喰雪花という魅力的な少女がいる。アイヌの娘であり、女神の血を引く北海道の防人だ。熱く、純粋で、けれども与えられた役割との距離を誰よりも感じている者だった。彼女を屈服させる想像をするだけで、響子は己の昂りを感じる。
葉沼吉暉という忌々しい少年がいる。猿神に憑かれたというだけで絶望した顔を浮かべ、かと思えば夢を思い出しただけで奮起した。そして雪花との距離を詰める。シアンカムイとの戦いは結局のところ、雪花と吉暉を繋ぐ絆が起こした奇跡によって得た勝利とも言える。そのことがひどく、ひどく腹立たしい。
二つの相反する感情を向ける者たちを前に、響子はかつてない感情の揺れを覚えることとなった。いままでの任務でこれほどのものを抱いたことはない。この想念は相乗効果をもって、より響子の内にある昏い炎を盛らせた。
自分の体を抱きしめる。寒さとは違う震えがあった。
響子にとって想定外のことだった。自分の上役たちは、自分を教育した者たちはわかっていたのだろうか。彼らと出会ってしまえば、こうなってしまうことを。すべて計画の内なのだろうか。
ここにきて、わからないことばかりだった。おおよそこの大八洲において知らぬことなどないように教育されてきたにも関わらず、自分自身のことが何よりもわかっていない。
あるいはその真相を知りたいから、響子は北海道にいるのかもしれない。