Battle-3 紅蓮地獄
地獄があるのだとすれば、こういう光景なのだろうと吉暉は思った。
痛みはすでに遠い。それは神経が死んでいるからなのか、猿神の治癒力によるものなのかわからない。
だがいま大事なのは、意識があり、身体を動かすことができるということである。
氷の剣山の中で、首だけを動かした。見渡す限りの青に、己の身体についた赤がいやに目立っている。
シアンカムイの返り血に塗れており、右手の包帯などは真紅に染まっている。その包帯もほとんどが解けていて、中にあった黄金の猿の腕が露出していた。
「……どうなってるんだ」
音はもはや聞こえない。自分がつぶやいた声もごわごわとして、口を動かしたという事実だけが自分の状態を物語っていた。
立ち上がろうとするも脚に力が入らない。自分の身体の状況がわからない。あれだけの一撃を受けてなお五体満足である理由もわからないし、こうして意識がはっきりとしているのも理解できない。
ただわかっているのは、どうにか生きていて、しかし死へと向かっているということだった。
いまはもう右手にしか熱がない。猿神が宿っている右腕だけが、いまもなお生命として生きようとしている。
そして感じるのは、右腕に宿る猿神がその支配の手を伸ばしていることだ。少しずつ、自分の身体が作りかえられていく。はじめは肘までしか、猿になっていなかったはずだ。力を振るうたびに包帯型呪具が解けていき、それとともに侵食が深くなっていく。
わかっていたはずだ。猿神の力を振るうことは、猿神に近づくことを意味している。
ただ生きているだけで、自分はかつて神の使いと言われた存在、あるいは神そのものと、自分の身体を巡る綱引きをしているのだと言われた。
その身に猿神の霊力を巡らせることは、自分の身体を明け渡すことと同じだった。
にもかかわらずシアンカムイと戦い、その身をずっとすり減らしてきた。雪花との修練にしても、その侵食のペースを緩める、日常生活に支障をきたさない程度に力を抑え込むという程度のことに過ぎなかった。
そんな自分が戦おうと決めた時点で、こうなることはわかっていたじゃないか。吉暉は自嘲する。
遅かれ早かれこうなっていたのだ。せめてカッコつけて死ねたのであれば、満足というものだろう。
笑った。笑いたかった。笑いながら、立ち上がった。
幽鬼のように、ゆらり、ゆらりと歩んでいく。
右手を握りしめる。一歩進むごとに命が削られていく。「やめろ」という声がした。それは自分の内側からだった。
やめる、とは何をだ。歩くことか、戦うことか。
氷の山を歩いていった。時間にしてどれくらいだろう。長いこと歩いた気がするが、見える光景は止まっているように緩慢だった。すべてが一瞬の出来事だ。
視界が揺れる。赤く染まっていく。自分という存在がすり潰されていく。
————人のままでは勝てない。
天使を自称する少女の言葉が思い出される。
いままさに、吉暉は人の身から抜け出ようとしていた。人がたどり着こうとしている境地、いいや、忌避している場所へと向かって落ちていく。
シアンカムイは圧倒的だ。遠距離からの攻撃は無効化してしまう。一方で近づけば、その凍気によって氷漬けにされる。
ならば人をやめるくらいで、ちょうどいいのだろう。
「……まさか、こんなに諦めが悪いなんてな」
自分のことすら、まったくわかっていない。吉暉は笑う。死の淵にあってもなお、笑顔であった。
だって、諦められないだろう。雪花の屈託のない笑顔に気づいてしまえば、もう一度見たいと思うのは当然だ。
夢を見ていた。花屋になって、誰かを喜ばせたいと思ったのは小学生の頃だったか。自分の手で花を飾ることを覚えたのは中学校に入った頃だった。誰かを喜ばせる、感動させることに楽しみがあった。
それが潰えたのだと思った。猿神に憑かれて、いつ暴れてしまうかわからない。自分にはもはや自由はなく、こんな身ではひとどころに留まって商売などできやしないと。
ずっと苦しかったその夢は、文化を背負い、英雄の子孫である者をただの少女にしてしまうのだと、知ってしまった。思い出してしまった。いいや、より美しいものとして、目の前に現れた。
叶えたくなってしまった。
そこに雪花がいたのなら幸せなのだろうと、思ってしまった。
ゆえに勝つのだ。何度でも立ち上がるのだ。倒れぬ限り、負けはないと信じるのだ。
右腕が震える。そこから先へと行くなと叫ぶ。吉暉はさらに笑みを深くした。
「引っ込んでろ憶病者」
崩れつつある身体の感覚に惑いながら、吉暉は目指す場所を見失わない。
雪花が宙を舞った。嵐の中から降りてきた彼女は、その手に握った小刀をシアンカムイに突き立てた。
だが、何も起きない。夷虵斬は何の力も発揮しない。理由は明確だ。霊力の消耗である。夷虵斬が力を発揮するだけの霊力を、雪花はもう持ってなかった。
ならば、届けなければならない。
吉暉は、右腕に巻かれた包帯を引っ張った。きつく締めるためではなく、解き放つために。
走る痛みは身体を塗り替えられることによるものだ。全身の細胞が悲鳴をあげている。猿神の腕はすでに肩まで侵食していた。もはや身体の半分は猿神のものであった。
「これは俺の身体だ」
吉暉の気配はすでに悪鬼羅刹にも等しいものとなる。溢れ出る霊力を右腕に込めて、握りしめる。
まるで弓矢を構えるように、吉暉は右腕を引いた。左手はまっすぐ狙いを定めている。どうにか巻きついていた包帯が、霊力の嵐に靡く。
標的は真なる神。対するは神の成り損ない、荒御魂となった神使であった。
「ここは、俺の夢は……天使にも神様にもくれてやるものか!」
その言葉は、何よりも人間らしい傲慢さだった。
地面を蹴った。姿が消えたかのようにも思える速度で、吉暉はシアンカムイへと迫る。霊力の残滓が花びらのように散って軌跡を残していく。
シアンカムイは、その口に光を溜めている。雪花に目掛けて光線を発するつもりなのだ。自らの宿敵を葬り去らんと。
だが、それよりも早く。吉暉はシアンカムイのもとへとたどり着いた。
右手はまっすぐ夷虵斬へと伸ばされる。いま出力できる霊力のすべてを込めた拳が、シアンカムイに刺さった夷虵斬の柄へと叩き込まれた。
瞬間、視界に光が溢れる。夷虵斬はその力を発揮した。シアンカムイの内部へと断絶の刃が伸びる。
苦しむ声をあげるシアンカムイは空へと向けて溜めていた光を放出した。
だがその次には、動きが止まった。翼膜から鰭がまず固まり、次いで全身が凍っていく。呼吸器に寄り添うようにあった臓器が破壊され、蓄えられていた凍気が正常に処理できなくなり、全身を内部から凍らせたのだ。
それでも残った片方の瞳で、吉暉を見ていた。自分を殺した存在に対する怨嗟の念を込めているのか。
吉暉は着地する。そして、シアンカムイの最期を見届けようと、目を凝らした。
辺りには静寂が残った。音をたてるのは、ともに戦った四人の声だけだ。
だが吉暉にはもう音は聞こえていない。どころか残った視界さえも暗くなっていく。
包帯が膨らみ、そしてひとりでに巻きついた。あらゆる感覚が遠のいていった。もはや熱はなく、虚無が待ち受けていた。
傾いていく視界の中で、雪花が駆け寄ってくるのが見えた。
シアンカムイの首が地面についたのと同時に、吉暉は地面に膝をついたのだった。