Battle-1 天に祈りを、地に花を
響子は炎とともに、大通公園のビルを跳んだ。
雪花のみならず、吉暉もまた戦線へと復帰した。そのことに反論する者はいなかった。来る者を拒めるほどの余裕はなかったからだ。
二人が参戦したからと言って戦況が様変わりするわけではない。囮が増えた程度である。むしろ雪花が一方的に狙われる形になっているは、よくない状況だった。
上佐が自らの刀の名を叫んだ。歴史の中で神風と謳われたものを操る神剣は絶大な威力を誇っていた。擬神器のように兵器として生み出されたものではなく、偶然かそのように作られたか定かではないその刀は、魔を討つ刃として十全に機能している。
竜巻がシアンカムイに向かって走った。凡百の妖怪ならば屠るだけの威力を孕んでいた。
だが、生み出された神風はシアンカムイに届かない。響子の目には、シアンカムイの持つ肌や鱗が弾いたのではなく、もっとそれより前に霧散させられたように見えた。
その原理を探るべく、響子もまた炎を操る。炎は巨大な奔流となってシアンカムイを襲う。これも通用せず。やはり目前にある何かにかき消されていた。
「結界か、それに類するものを使っている? いいや、そんな術を使えるほどの意識は残ってないはず。もっと単純な原理ね」
分析を重ねているうちに、響子の隣に何者かが降り立った。それは先ほど戻ってきた吉暉であった。
「作戦通達だ。鶴喰に策がある」
「それってさっきの、エゾノハバキリのこと?」
「……どうして知ってるかは聞かないからな」
やはり、勘がいい。その勘を理詰めするだけの能もある。響子は評価を上方修正させる。好感度は下落させた。
「そっちは奥の手だ」
「だとすれば、策というのは」
「高火力で薙ぎ払う」
なるほど、と響子は頷く。シアンカムイの防御については、雪花自身か、凜も気づいているだろう。それを突破しうるだけの攻撃をしなければならず、その手段も持っているということか。
「そのためには、シアンカムイをこの大通公園に釘付けにする必要がある」
「なら、両方から挟みましょう。私が北側、卜部とイキリ男が南側。あなた、正面であの光線でも受けておいて」
「無茶苦茶言うな」
「雪花ちゃんの騎士でも気取ってみたら?」
「柄じゃない」
素っ気なく言って、吉暉は響子の案を伝えに対岸へと跳んだ。
猿神による身体能力の向上は凄まじいものがある。擬神器はいまもなお祭祀される神々の分霊を宿し、その神威を借り受けて神通力を用いるものである。
一方で吉暉が宿しているものは、祭祀されないにしても神使として語られたこともある存在そのものだ。引き出せる力の量も質も桁違いだろう。
尤も、その無茶はいつまで続くだろう、と響子は思う。それは他ならぬこの身が証明している。土蜘蛛との混ざり物である自身こそ、彼の行き着く場所である。
彼のうちに宿る悪霊が妥協するならば、だが。
「さて、私も役目を果たすとしましょう」
身体に刻まれた刺青が、背中から腕の先にまで伸びる。おおよそ一般の退魔師では届かないほどの力と精密な制御を可能とするのは響子の技量であったが、術の省略や効率化を支えるのはこの刺青である。
これこそが八咫鴉が生みだした術式だ。『耳なし芳一』などに謂れ、そしてタイではサクヤンと呼ばれているものを転用した、経文そのものを身体に刻む術”曼荼羅紋”である。
普段は背中に不動明王の印の形に刻まれているが、必要があれば身体を這うように伸び、その能力を発揮する。
ビルのあちこちに潜ませた式神が飛び出る。様々な獣の形をした式神たちが、一斉に燃え上がった。
足止めをする必要があるのであれば、大火力よりも小規模な火力を断続的に撃つのが効果的であった。
式神たちはシアンカムイの周りを駆け回る。小粒の敵は狙いにくく、まとめて払うにしても散らばっていた。結界と思しき領域にわずかに触れるか触れないかの距離で、響子は巧みに式神を操った。
苦悶の声をあげるシアンカムイであったが、ダメージは一切入っていない。直接的な打撃を受けていない状態でいくら追い込もうと無駄だ。早々に決着をつけなければ、莫大な霊力を持っている響子であったとしても息切れで倒れる。
ふと見れば凜の方向から、火天の呪による信号弾の合図があった。
準備が整ったのだ。伝令は一瞬であった。凜の術が一層激しさを増すと同時に、強大な霊力を感じ取る。
その源は札幌のシンボルでもあるテレビ塔だった。
展望台の上に立っている者こそ、誰かと言えば鶴喰雪花である。
アイヌの少女は、その手に持つ擬神器を掲げていた。
「イメル、モス・モス」
それは失われた言葉であった。アイヌ文化において、継承とは口伝であった。そしてその多くは失われてしまった。ゆえに、雪花の祈りの言葉は古代より伝わるものではない。
それでも力を持つのは、ひとえに雪花の血筋か、信仰心からか。
「アペ、モス・モス」
雪花が祝詞をあげるたびに、雷が擬神器へ落ちた。
響子は知っている。雪花の持つ小刀型の擬神器、その名は”雷魔斬”という。その真名を特一式祓魔刀。現代において唯一の「アイヌの神霊を宿した」擬神器だ。
展開してもなお短いその擬神器は、妖という異形と戦うには不向きである。だがその異能の発言は通常とは違う過程を踏む。
「カンナカムイ、モス・モス」
アイヌの神話において、英雄神の父という最高の神格を持つ雷の神を宿す擬神器は、雷の力を宿すものである。だが、その真の力は、雷の神の神威そのものを発揮することであった。
その威力は、擬神器が発揮しうる中で無双のものである。
英雄神は、雷の神の力が宿る宝剣を振るうことで、暗黒の国を十二日間も焼いたのだという。
その再現である一撃を、放とうと言うのだ。
「ピウキ・カムイ・イメル」
雪花が謳うのは天の鳴き声。光はもはや覆い隠すことなどできない。
呼応するのは、白き龍であった。その威力を見て取ったか、あるいはそれを宿敵が生みだした隙であると受け取ったか。すぐさま攻撃行動へと移る。
シアンカムイはその口を開くと、冷凍光線を吐き出した。速射故に威力はさほどではなく見えるが、それでもまともに食らえば必殺の一撃である。間違いなく、雪花を殺すために放ったものであった。
溜めのない光線に反応できたのは、その状況にあっても冷静な二人であった。
「ノウマク、サンマンダ・ボダナン・ハラチビエイ、ソワカ——急々如律令!」
凜の土天の呪によって、土塊が浮かび上がり雪花の全面を覆う。さながら盾のように。だが足りない。それではシアンカムイの冷凍光線を防ぐのには足りない。
「オン、サンネイ・サンネイ・キレイギャレイ、ソワカ——急々如律令!」
響子が咄嗟に唱えたのは、最も得意とする呪文である。熊野権現への祈りは光にも等しい眩しさを放つ炎となり、凜の生みだした土塊へとぶつかる。
五行陰陽道において、火生土の関係にあった。火によって土が高められる。響子の術は凜の防壁をより硬いものに変じさせた。
冷凍光線が土の盾と激突する。激しい衝突であったが、盾にほころびが生まれる。まるで雪玉を握りつぶしたかのように崩れていく。
威力を完全に減衰させることはできなかった。通常であれば防ぐか躱すことのできそうなものであったが、最大の攻撃を放つ直前の雪花はあまりに無防備だった。
その間に割って入ったのは、吉暉だった。包帯の巻かれた右手で光線を殴りつける。上方に軌道がそれた光線は、そのままテレビ塔の中腹に激突した。塔を斜めに裂くように、氷の結晶が生える。
落下していく吉暉を見て、雪花が最後の言葉を告げる。
「—————シモントゥム・カフプカル・クス、ケイノンノ・イタック!」
振り下ろすと同時に発現したのは、巨大な雷の刃だ。
青白い光が大通公園上空を焦がした。空気すら帯電するほどの雷撃が、シアンカムイに向けて伸びていく。
もう一匹の龍が現れたかのようであった。雷の神は天の稲光を龍に見立てていると言われているが、それも納得がいく。雷の走る様はまさしく、天を駆ける龍そのものだ。
絶大な威力を誇る光はシアンカムイに突き立った。いや、正しくはシアンカムイの防御壁へと激突し、押し出した。木や車、雪を巻き上げながら、光に呑まれていく。
雷撃を放つ雪花に影が落ちた。光線を浴びたテレビ塔が中腹から折れ始めたのだ。氷が砕け散り、その先には雪花がいる。
「臥嵐裂禍……!」
限りある霊力を用いて、上佐が自らの得物を振るった。
生み出された嵐はテレビ塔をさらに細かく砕き、しかし雪花の居た場所だけがくり抜かれたかのように空いた。
馬鹿のひとつ覚えでも、役に立つものだ。などと響子は思った。
一瞬の間に起こった出来事であった。響子はシアンカムイを見る。雪まつりのために集めた雪を巻き上げ、さながら吹雪のようになって、シアンカムイの姿が見えない。
「……いいえ、違う。雪なんかじゃない。あれは、シアンカムイの力?」
「の、ようじゃな」
響子の隣に、式神の天狗を連れて降り立ったのは凜だった。
「北海道開拓使である黒田清隆の話に、このようにあった。白龍権現……シアンカムイの寝ている赤岩山へ大砲を撃った際に、砲弾は逸れ近隣の民家の娘を死なせたと。最初は砲術の腕の悪さを誤魔化す方便かと思うたが」
「遠距離からの攻撃を全て防ぐ権能だとでも言うの?」
吹雪に見えたそれは、氷の防壁であった。シアンカムイは自らの支配する空間を持ち歩いているのだ。その外より飛来してきたものを自動的に防ぐ障壁なのだと凜は推測したのだ。そして、その推測は恐らく正しい。威力など関係なく全て防ぐ力だ。まさしく真なる神の名に相応しい防御力である。
凜の推測は限りなく真実であり、そしてそれは、自衛隊や米軍の現存戦力では敵わないことを意味している。
シアンカムイは乾坤一擲とさえ呼べる一撃を受けてなお無傷である。響子はまだ戦えるが、火力不足である。一方の上佐と凜は厳しそうである。彼らはこの日に札幌に降り立ったばかり、疲労の色も濃い。
そして肝心の雪花は、テレビ塔の瓦礫の中で膝をついている。すでに霊力の多くを使い果たし、残す切り札は夷虵斬のみ。
では、吉暉は。響子が彼を探すと同時、ビルの壁面を蹴ってシアンカムイへと飛びかかる影があった。
吉暉だった。彼は諦めていなかった。雪花の一撃が失敗したときのことを考え、帯電する空気を引き裂いてシアンカムイに迫ったのだ。
猿神の稜威のままに、白き龍へと襲い掛かっていたのだ。
「……火天よ!」
短く命じた。吉暉を支援することは望んだところではないが、シアンカムイへとダメージを与える千載一遇の機会であることは確かだ。
シアンカムイの視界を封じるように、式神を炸裂させた。炎を防ぐべく氷の壁が生み出されるが、それこそが狙いであった。
炎と氷を潜り抜けて、吉暉はシアンカムイへと拳を突き立てた。生き物の身体の中で最も脆弱な部分、瞳に向けて。
嫌な音が響くと同時、シアンカムイの瞳から血が吹き出た。苦しむ声をあげるシアンカムイの姿に、わずかな希望を見出す。
まだ勝ち目はある。そう思った瞬間であった。
地面に降り立った吉暉へとシアンカムイの残った目が視線を合わせた。蛇の瞳は、相手の動きを封じるだけの気迫があった。吉暉もまた、戦い慣れていないからか、着地に大きな隙を見せてしまった。
シアンカムイの口に、光が収束する。その光線の威力は今までの比ではないことが見てわかるほどに。
そこに駆けつけられる者はいない。先ほどのように、防ぎうるだけの手段も持っていない。
それでも、と凜が駆け出そうとするのを響子が抑えた。
圧縮された光の玉から、細い光が放たれた。それは着弾した瞬間に、大通公園を氷の剣山へと豹変させた。
吉暉がその中に呑まれたのは、明らかだった。