Scene-9 悪夢の名前
咆哮を聞いて、寒さとは違う震えが上佐の身体を走った。
シアンカムイの高さはビルに負けないほどであるが、白龍と言われていただけあって胴は長い。しかしその様を蛇と言ったのはいささか無理があるのではないかと思えた。
覗いた鮫歯が恐怖感を掻き立てる。全身のあちこちにある膜は、鰭のようなものだろうか。その巨体を飛ばすには些か翼が小さいのではないか。空が曇ってきたのはこの怪物のせいかだろう。天候まで操るとは、いったいどんな……。
「上佐! 怯むでないぞ!」
「ッ! わかってらぁっ!」
凜の言葉に意識を取り戻した上佐は、慌てて臥嵐裂禍を抜いた。
大通公園からほとんどの人が退去したのは幸いであった。それは妖怪などの怪異を人に見せることへの忌避感からではなく、思い切り力を振るうことができるからである。
だが、先んじて動いたのはシアンカムイであった。口を大きく開けると、光が見えた。ヘラとの戦いを経てその意味を理解した上佐は、臥嵐裂禍の能力を使用する。刀身が気化し、見えぬ刃となったのだ。
巻き上げた風が木々を薙ぎ払って突き進む。起こされたのは鎌鼬にも似た真空現象であった。
しかしその攻撃は、シアンカムイに到達する前に消滅した。霧散した刃が再び形成されていくのを見て、自身の攻撃が通用しなかったのを見てとった。
「くそ、なんだこいつァ! 全員散れ! ビームがくるぞ!」
上佐の言葉に、他の四人は従った。それぞれが散り散りになったと同時に、光線が大通公園を走った。その光線の後には、次々と氷の柱が生み出される。美しい結晶のようでもあったが、一瞬でそれだけのものを生み出せること事態が神威の強大さを示している。
臥嵐裂禍の一撃は、かろうじて避けるだけの時間を稼ぐことに成功していた。しかし満足のいく結果は得られず、かえってシアンカムイの脅威を示した。
「マジかよ、食らったらひとたまりもねえぞオイ」
「奴らの一挙一動は全てが災厄だと思うがよい。何せ奴は荒ぶる海の化身たる神であった。その力の顕現こそがあの光よ。まともに受ければどうなるかなど、想像もするでない」
風水屋の店主でありながら、この半年でいくつもの死線を乗り越えてきたという凜の言葉には重みがあった。
「シアンカムイ、アイヌの言葉で真なる神か……その名に違わぬ、絶大な力じゃな」
ただの一撃で大通公園の光景を一変させるほどの力を前に、凜はそう言った。
怖気付いたわけではない。ただの感嘆の言葉だ。
くそっ、と吐き出すと同時に、背後から炎が吹き上がったのがわかる。振り返れば、氷の柱を砕きながら響子が飛び上がっていた。
同時にそこから飛び出したのは吉暉だった。右腕の包帯が解け、尾のように棚引きながらシアンカムイへと迫った。鬼気迫る表情はその身に宿している神霊によるものか。
右腕を大きく振りかぶる。霊力が目に見えるほど漲っていた。
だが、シアンカムイは吉暉の渾身の攻撃を、巨体に見合わぬ俊敏さで避ける。大きく飛び退き、自らが産み出した氷の柱のみならず、雪まつりの足場なども巻き込んでいく。
続いて吉暉がビルの壁面を蹴って、二撃目を加えようとした。しかしそれは、擬神器によって身体能力を向上させた雪花によって止められる。
「上佐、ぼうっとするでないぞ。いまが隙じゃ、仕掛ける!」
凜がその手に擬神器”奇弥央扇”を広げた。世にも珍しい扇型の疑神器であり、正式名称を”一五式護身扇”と言った。
上佐もまた、臥嵐裂禍を大きく振るった。連続使用はできず、日に十も振るうことができない臥嵐裂禍の能力であったが、出し惜しみは無意味と判断し、再び刀身を気化された。
「その性根を晒せ、シアンカムイ! 」
凜の奇弥央扇が宿している神霊の稜威を発した。土気を纏った風は嵐となって突き進む。上佐はその風に重ねるように臥嵐裂禍を操る。
二重の嵐がシアンカムイへと襲い掛かる。着地する瞬間とは、あらゆる生物にとって隙になる。それはいかに巨大であり、伝説に謳われる存在のシアンカムイであっても同じだった。
その風は再び阻まれる。まるで見えない結界が張られているかのようであった。
だが、声は違った。凜の呼びかけた真名に対し、シアンカムイは明確な反応を示した。赤い目を向けられながらも、凜は笑った。
「やはりな。奴め、白龍権現の名が大切であったようだ」
「アア? たかが名前だろうがよ。それも人につけられたやつだって、あのちびっこも言ってたじゃねェか」
「口を閉ざせ、いまは逃げる一手よ!」
シアンカムイの口から、再び光が放たれる。その光線を、上佐と凜は自分の擬神器の風で飛ぶことでビルの上へと退避しやりすごす。
そこに駆けつけてきたのは響子だった。炎を手足に纏いながら、膝をついている上佐を見下す。
「やはり馬鹿ね、一木上佐」
「ンだとコラ。ってか、どうしてオレの名前知ってんだよ」
「……嘘でしょ、気づいてないのあんたぐらいよ」
そうは言いながらも、響子はシアンカムイへと炎を飛ばす。その炎はシアンカムイを囲むように四方八方より撃ち込まれ、自分たちの位置をくらましていた。
「名とは力よ。いまこの北海道の地にいる日本語話者の数を考えてみなさい。シアンカムイと名乗るより、白龍権現と言った方が通りがいいでしょう」
「ただの目立ちたがりやってことかよ、ヘッ。アイドル気取りか?」
「もうそう思ってなさい」
呆れながら響子は言った。だがその真意を理解できない上佐は、自分の解釈が正しいと信じたままであった。
「それで、はぬまんはどうなったんだ?」
「通信は入っておる。鶴喰捜査員が、一度退かせると」
「んだよそれ。頼ったり頼らなかったり、忙しねェな」
「わからぬでもない。もとより彼女は、葉沼が戦うのを是とは言うておらぬ」
遠い目をして、凜は言った。その言葉に上佐は反発心を覚える。
後ろに控えろと言う。それは良い。だが、それで全てが上手くまとまるかのように言われてしまうのは堪えるのだ。
お前は無力だと、お前はいらないと。そう言われているように思えて、苦しくなってしまう。
祖父に「退魔師にはなるな」と言われた時に抱いた感情がそれだった。ふざけるな、オレは強くなれる。あんたに心配される筋合いはない、と。
だから、言わねばならない。上佐は吉暉を通して自身の思う丈を映し見取った。
「だけどよ、本人が戦うって言ってんだ。オトコってのは、オンナの後ろでペラペラと解説キャラに甘んじてるなんて真似、みっともなくてできねェもンなんだよ」
「そういうものなのだろうとはわかる。じゃが、それで待たされる身になってみよ。身を裂かれる想いぞ」
「ほお、卜部さんでもそういう風に想う相手がいると?」
凜は頬を赤らめる。戦いの最中にあったからこそ、不意に出てしまった本音に自分で戸惑ってしまったのだろう。
だが、すぐに仕切り直す凜は、上佐の頭を叩いた。
「……ええい、たわけ! 集中せい上佐! いまはどうでもよいことじゃ!」
「どうでもいいけど、ここ、狙われてるわよ」
えっ、と口を揃えた上佐と凜は、シアンカムイを見た。その口は砲口である。それも特別な威力を誇る光線を放つものだ。
三人は同時に、隣のビルへと飛び移る。元いた場所が氷漬けになったのは、その次の瞬間の出来事であった。




