Scene-8 愛と憎の境
シアンカムイの威容が近づいてくるのを見ながら、響子は自分の身体を休めていた。
手稲山から大通公園まではおおよそ十キロだ。そしてシアンカムイの飛行速度がおおよそ四十キロだとするなら、あと八分もすれば戦闘になる。
せめてそれまでは身体の回復に努めるのが吉だろう。セーラー服のリボンを解いて胸元を開くと、湯気のように蒸気が吹き出てきた。火照った熱、というだけでは説明のつかない量である。
跳ね返ってきた自分の火気を発散する。自分の熱で焼かれてしまっては、面目など丸潰れだ。
場所はビルの屋上だった。遮るものもないこの場所であれば、シアンカムイの様子を見ることもでき、風通しの良さは身体を冷却するのにちょうどいい。
響子の身体は特別だった。無論のこと、美貌やスタイルの黄金比という意味でもそうだが、それ以上に尋常とは異なっていた。
なにせ、純正な人間などではない。八咫鴉による人工交配の末に生み出された半妖であった。そして混ぜられた血は土蜘蛛のものである。蜘蛛の妖怪として知られている存在ではあるが、かつては土隠りと呼ばれた地底人のものであった。
古の民の血を引く響子は膨大な霊力を持っている。そのように生み出され、その力を制御するための訓練を積んでいた。
この身体の熱は、施術によって得た力のひとつによるものだ。
そして、様々な教育を受ける中で、自分の願望を知ることにもなった。
黒猫がやってくる。ビルの屋上であるにもかかわらず、平然と壁を登ってくるこの黒猫がただの猫であるはずがなかった。
響子が立ち上がって黒猫を招き寄せる。すると黒猫は響子の脚を上っていき、スカートの中へと姿を消した。
途端に、響子の脳裏に黒猫が見聞きした情報が流れてくる。それは式神であった。響子の霊力によって編まれた思業式神は、元の霊力に戻ることによって響子と一体化するのだ。
「……鶴喰雪花」
ぼそり、と名をつぶやく。いままでとうって変わって恍惚の表情であった。
真性の同性愛者、というのが響子の真の姿である。
八咫鴉による歪んだ教育が産み出した誤算だったのか、あるいはそれすらも狙っていたのか、生まれ持ったものであるかすらも定かではない。響子にとってはどうでもいいことだ。
自らの内にある感情に従うことこそが、快感である。
式神を放って収集した情報は、主にPIROの動向についてだった。彼らがどの程度まで把握しているのかを知れば、動きも予想しやすくなるというもの。
しかし実際には、ほとんど核心に迫れてはいない。場当たり的判断での行動だった。白龍権現を呼び起こした者については明らかになったものの、いまはそんなことは問題ではない。
迫りくる白龍権現に向けて戦う姿勢をとっているからには、共闘するのが良いだろうと響子は判断する。
響子の興味は専ら、雪花に向けられていた。途中から本来の目的を忘れて、彼女を探るように指示を下していたほどに、惚れ込んでいた。
「堪らないわね、あの子。ぞくぞくする」
手に取るように、雪花の感情がわかる。アイヌの血を引くものとしての責任感、英雄の子孫として背負っている誇り。そうしたものに押しつぶされそうになりながら、必死に立ち上がり戦おうとする姿に、響子は胸を打たれた。
食ってしまいたい、虐めてしまいたい。嗜虐心がひどく擽られる。
あの気高さをそのままに、少しずつ蝕んでいこうか。少しずつ己の中にある秘めやかな願望に気づき、その恐怖に怯える様を楽しむのも悪くはない。
けれども、ただ純粋な少女として可愛がるのも悪くはなさそうだ。
普通の服を着せて、己の性を自覚させて、その望んでいる英雄像を少しずつ歪めていく。響子の望む美しい少女たちの花園で、己をただ一輪の花と自覚させて、在り方そのものを変えてしまうというのも、非常にそそられる。
せっかく冷ましていた身体が、逆に火照ってくる。だがこの熱さは昂りによるものであるから、響子はむしろ好ましく思った。
感情の高まりがそのまま術の高まりにもなる。響子はそういう風に出来ているのだ。気づけば自分の手が胸や脚に伸びつつあったが、身体の内へと潜った式神が時を告げた。
「……そろそろかしら」
白龍権現を他所に、響子はビルの下を眺めた。自衛隊による避難活動が行われており、指定避難地域への誘導や車両に載せての退避をしている様子が見える。
そしてその中に逆行するように、着物の女と学生服の男が歩いているのが見えた。そしてその後ろにいたのは、バンダナの少女だ。
視認したときには、響子はビルの上から跳んでいた。中空を漂うように炎を撒きながら、雪花の元へと降り立った。
「なんじゃ!?」
「テメェ……!?」
二人の声など無視し、響子は雪花に顔を近づける。驚きの表情のまま何も声を発さない彼女がどうにも愛おしく思えて、抱きしめて頬ずりをする。
身体を固くして手足を張る様子など、誘っているようにさえ思えた。
「んん〜、やっぱり可愛い!」
「ふぇっ、な、なにするんですか!?」
「ねえ、私のところ来ない? 絶対に楽しんでもらえると思うのだけれど」
響子はじっと、雪花の瞳を覗き込む。最初は戸惑いの色が濃かったが、少しずつ感情そのものが溶けていく。
もう少し、と思ったとき、手によって阻まれた。
現れた少年は……葉沼吉暉は強引に雪花と響子を引き離した。雪花の目を左手で覆い、包帯の巻かれた右手は響子の目を覆うように突き出されている。
ふうん、と響子は吉暉を見た。向ける感情は殺意である。それと同時に感心もあった。吉暉のことは事前の調査でよく知っている。彼が妖などと関わったのはここ二ヶ月程度である。知識に乏しいはずで、妖怪などへの理解は深めても、術などは微塵も知らないと見ていいだろう。
だからこの行動をとったのは、勘なのだと推測できる。獣の直感か、生来の勘か。おそらく前者だろう、と響子は分析した。
既存の術式系統から外れている、身体の機能として持っている術を防ぎうるのは、戦いによって育まれる勘か、響子と同じく身体の機能として備わっているものに他ならない。
事実として、この少年はずっとこちら側に気づいていた。黒猫を通じて見ていたことに、言葉にできずとも知っていた。
「……まあ、利用価値はあるかも」
「なにを言ってんだ」
「こっちのハナシ。ねえ、あなたたちもあれを倒そうとしてるんでしょう?」
あれ、と指差したのはいまにもやってくる白龍権現のことだった。意識がはっきりした雪花が、吉暉の手を払って前へ出てくる。
「では、そちらも?」
「もちろん。私の名前は咲楽井響子。詳しいことはややこしいから後で。ここは共闘といきません? 猫の手も借りたい状況なんじゃないかと思うのだけれど」
にゃあ、と響子のスカートから黒猫が現れる。それも三匹だ。雪花と吉暉のみならず、上佐までもが驚いていた。
だが、凜の方は冷静に黒猫について考察を重ねる。
「思業式神じゃな。簡易な使い魔ではあるが、かなりの使い手とお見受けする。それに先ほどの炎の扱いは、並大抵ではない」
「さすが、卜部の人はわかるのね。それでどう? お役に立てると思うけど?」
「……お願いします。お力をお貸しください」
雪花は悩む素振りを見せたが、すぐに言った。響子はその様子に、満足の表情を浮かべた。
「判断が早いのは、指揮官としては優秀な証拠よ。使えるものは使うというのも、大局的に見れているということ」
「は、はい。ありがとうございます」
礼を言う雪花であったが、吉暉がさりげなく身体を前に出し、半身で雪花を守る姿勢をとった。その行動の意味するところを理解し、響子は少しばかり機嫌を損ねた。
暗い影が落ちる。影は少しずつ色を濃くしていった。
大通公園で一番賑わう場所に白龍権現は降り立ったのだ。
吹き荒れる風で木々が凍結する。その身から放たれる凍気によって、周囲は氷の世界へと変貌した。身にまとっていた冷気によって生み出された雪が、風に乗って波のように押し寄せる。
「鶴喰より支局長へ。目標のシアンカムイは札幌駅前通りに着地しました。また、現地にて別の術者の協力も得ました。作戦を開始しますが、よろしいですか?」
雪花が無線を通して連絡を入れる。それと同時に白龍権現、いや、シアンカムイは赤い瞳で五人を見た。
咆哮が街中に響き渡る。それは戦闘開始を告げる合図でもあった。