Prologue-1 師走晦頃
壁に描かれた有翼人は、天使の似姿である。
平成二十七年、十二月八日のことだ。北海道の小樽市に存在する赤岩山内部の洞窟には、今に謎を残す壁画が残されていた。整備された海路による美しい街並みにばかり目が行きがちな小樽市であったが、この赤岩山こそがいまにアイヌの文化を伝え、開拓時代の光景をも残す隠れた観光名所である。
と言っても、普段から人は多くなく、それも平日の昼間ともなれば、まったく人は立ち寄ることはなかった。
明治のときよりその謎を明かさんと、多くの学者が有翼人の正体へ挑んだものの、明確な正体はつかめないままであった。議論はいくつか交わされたものの、現代ではかつての巫術の儀式における礼装であるだとか、かつての人々の空への願望が写されているのだとか、そういった話で収束している。
少なくとも、アイヌの誰かが残したものであるだろう、という事実だけが残り、謎を残したままいまもなお赤岩山に横たわっている。
誰もいないはずの洞窟に、光があった。
そこにいたのは、内より光を放っているかのように輝く少女であった。暗闇の中であっても銀色の髪と青い瞳はほのかな明かりとなっている。背丈も顔つきも、幼いと言うほどではないにしろ、大人びているわけでもない。
そしてさらに不可思議であったのは、その少女の背にある、折りたたまれた片方のみの翼である。欠けているのは神秘性か、あるいは一方で十分なのか。
「さあ、起きなさい。あなたが待ち望んだ人がそこにいるわ」
言葉とともに、壁に刻まれた有翼人の跡を細い指が撫でた。なぞられた跡は、突如として輝きを放つ。
同時に地響きが鳴った。赤岩山は揺れていた。少女がそのきっかけであることは、疑うべくもない。
崩れていく山の内側より、その巨影は立ち上がる。同時に小樽の街は吹雪に包まれた。視界が白に染まっていく中で巨大な影は大きく膨張する。
隻翼の少女もまた、畳んでいた翼を広げて空に漂っていた。
巨大な影の赤い瞳を見つめた彼女は、ほくそ笑む。
「……”シアンカムイ”。さあ、我が門へと降れ。”氷竜の道”のために!」
少女は名を呼ぶ。返答のように響いた咆哮は凍える息吹となって、雲を引き裂いた。
* * *
数日後、神奈川県は横浜市の某所のアパートにて。
気候はしっかり冬めいてきたものの、ようやく紅葉が訪れたかという葉の色に、高砂衛介はため息をついた。このころの秋はと言えば風情もへったくれもなく、夏と冬が交互にやってくるような有様であった。
同居人である住吉千歳からは「秋の食べ物で冬の食事なんて、太るに決まってんじゃん」などと言いながらもりもりと食うから、もしやすると熊かなにかではないかと衛介は疑っている。
千歳は、先日に出したばかりの炬燵に腰を丸めて収まっていた。学校の疲れからか、だらしない顔をしている。普段であればやかましくも快活で、誰もが振り返るような美貌の少女であるが、気を抜いていればこの有様である。
学校や仕事でのお小言が少しばかり漏れる。お互い違う学校に通っているから、事情などはよくわからないが、こういうときは黙って肯定しておくのが吉であると、半年を超える付き合いになればわかってくるものであった。
聞き耳を立てながらも、衛介の視線はテレビに向いていた。
「うん? ああ、これね。飛鳥とも話してたわ」
報道されてたのは、先日に北海道であった異変だった。
『小樽市で発生した異常気象により、百五十人もの死者が出たとの発表がありました。その多くは昼に外出していた外国人観光客であり、”甲府の惨禍”以来からの怪獣事変による観光客の減少にさらに拍車をかけると思われ……』
ニュースでそう言われているのを他所に、衛介は千歳と向き合う。
二人は妖怪ハンターである。
魑魅魍魎の類を退治する、というのはその通りである。だが、ニュースでも言われていた”甲府の惨禍”……ヤタガラスとの戦いから、おかしくなったらしい。
衛介も千歳も、それ以前の妖怪退治というものをよく知らない。だが、怪獣という常識外、あるいは規格外の生命体が現れ、それが人目に触れるようになってから、妖怪退治の最も大きな仕事は、災害に匹敵するほどの巨大生命体と戦うこととなった。
無論のこと、小さな妖怪騒ぎだって放っておけばどうなるかわからない。だが怪獣騒ぎというのは、都市そのものを破壊し尽くすほどの脅威なのだ。
荒覇吐神と青龍権現が戦った新宿の傷は未だ癒えず。しかし今や全国各地で、地震や台風以上の恐怖として語られる怪獣との戦いや対策は続いている。
「卜部さんから聞いたんだけどよ」
先に切り出したのは衛介である。ニュースはちょうど、山から現れた巨大な影が飛翔する瞬間を映していた。どうやら近隣の住民が、スマートフォンで撮っていたもののようで、画質はあまりよくない。しかしそれは、小樽市で発生した異変が怪獣によるものだと確信するのに十分すぎる証拠だった。
「……あんた、凜さんのところいたの、今日?」
「んなこたぁよくて。あいつ、次に現れるのは一ヶ月後だそうだ」
「凜さんの占いかなんか?」
「みてぇよ。一儲けのちゃんすじゃ! なんて言って、準備をしてはいたけどよ」
「準備って言っても、できることは限られてるでしょ。アタシらも関東から離れるわけにはいかないし」
「そこらへんは卜部さんもわかってらあ。求人のためのポスター作成だとかでよ、俺の知恵を貸せってくらいで」
「ふうん」
卜部凜、という二人の共通の知人は、寿満窟という小さな風水雑貨屋を営んでいる。だが、客足は基本的に遠のいており、いつか潰れるんじゃないか、という予感を常に漂わせている。
一方で、卜部という家は有力な家らしく、また卜部凜の持つ知識と咒の腕前は本物である。このところは自衛隊などにも協力を頼まれるようになったりなどで、収入の活路をそっちに見出しているのではないかと、衛介はむしろそちらを危惧していた。
今回に至っては、物理的に巨大なだけでなく、気象をも操る力を持っているだろうことは容易に予想はできた。
それがわからぬ卜部凜ではないとは知りながらも、なおも衛介に不安がよぎるのは、彼女が自分に負けず劣らず危険ごとに首を突っ込んでしまう性質だからだろうか。
「そーいえば、アタシは今日、PIROの方に行ってたんだけどね。歓奈ちゃんが北海道行ってるみたい」
「おいおい、こんなときに」
「この小樽の怪獣とは関係なくて……護送任務?」
「へえ、そうかい。護送とはまた、面倒というか、厄介な代物なのかね」
「人、らしいけど」
顔を曇らせる千歳の心情を、衛介はわからないでもなかった。
護送ということであればよほど重要な物であるか、あるいは人である。高校生ながら大家の跡取り娘で、関東支局の指揮官を務める桧取沢歓奈に任ぜられるのだから、よほどのものだろう。だがそんな話は関東支局で聞いていない。
ならば、今度はその逆に、取り扱いに危険が伴うものだと考えるのが自然だ。
制御できない道具というのであればわかるが、制御ができない人というのはさらに物騒なものである。そして、かつてそういう人物だった者に二人は心当たりがあった。かつて黒神へと変じ、暴れた知己がいる。先ほど千歳が名を挙げた東海林飛鳥という人物である。
一歩間違えれば、飛鳥と離れ離れになっていたかもしれない。あるいは、そういう境遇の人もいることへの感傷か。
彼女の、友にかける想いの厚さゆえである。
衛介はニュースの方に再び視線を移した。
「まあ、アレだ、俺たちには関わりのないことよ。正月くらいはゆっくりしてえなあ」
「……初詣行く? 振袖着たいなあ」
「お、そいつはいいや。待ち遠しいぜ」
「その前に、クリスマスだけどね」
などと言って、笑う。晴れやかな気持ちには遠くとも、前向きになる、というのは衛介が千歳と共に過ごすことで得たものでもあった。