第2章 訓練兵の日常
カシューン到着の翌日、全36名の訓練兵が南門砦の中庭に整列させられていた。
「訓練兵諸君、昨日は不甲斐ないスタートを切ったが、本日からが正式な訓練行程の始まりである」
ラミダ監督官は、中庭を見下ろすテラスから訓練開始の訓辞を述べている。
「諸君らは、仮にも将来を有望視され、この場に立っている。一人残らず一人前の駒に仕上げるつもりだが、カシューンはそこまで甘くない。油断をすれば、瞬く間に獣共の血肉となり、カシューンの塵芥と化すだろう」
訓辞、なのだろうか、これは。
「死にたくなければ、死ぬ気で鍛えろ。見捨てられたくなければ、見捨てるな。貴様らはいずれ本物の地獄を見ることになるだろう。今のうちに精々、生き残る術を見出だしておけ・・・以上!」
監督官に力一杯の拍手を贈った後、我々は次の行程に移る。先ずは、昼まで続く鍛練の時間だ。
全員整列した状態での走り込みし、息も絶え絶えになってからのタッグ同士での木剣試合に移行する。木剣試合は相手が気絶するまで行なわれ、気絶させた方が回復魔法を掛けて相手を治し、また打ち合うのだ。先の見えない死の遊戯を監督官はテラスから、ティーカップ片手に睥睨している。本訓練は、彼女の気が済むまで続けられるのだ。
さて、この木剣試合だが、始まってから既に12回、アシャ訓練兵を蘇生させている。アシャ訓練兵が話にならないくらい弱いというのもあるが、私が全く手加減していないというのが主因である。
私は彼女に不覚を取るわけにはいかないのだ。万が一にも、である。あらゆる勝利の芽を潰し、彼女が苦しみを感じる前に意識を消し飛ばす。
全てはアシャ訓練兵に、回復魔法を使わせない為である。
回復魔法の基本は、謂わば自己治癒能力の前借りである。魔法による干渉で自己治癒を速め、完治一週間の傷を一瞬で治せたりもするわけだ。ただ、重傷になると一般的な回復魔法では治せない。具体的には、肉体の損壊、失われたものは戻らないのだ。だが、強い魔力を放射することで、自己治癒能力を最大限に発揮させれば、失われた手足の再生なんてイカれ技も可能に出来る。
ここまでの説明で何を言いたいかというと、強い魔力しか発せないアシャ訓練兵が回復魔法を行なうと、過剰回復が生じてしまうのである。それは、治癒の暴走を意味し、必要以上に血肉を増やしてしまうのだ。増えすぎた血肉は皮膚を内側から圧迫、膨れ上がった肉体はやがて破裂してしまうだろう。そんな悲惨な最期を、私は迎えなくないのだ。こんな恐怖を今後毎日味わうことになるとは、火の魔法より警戒すべきであった。
鍛練が終わるまでに、私はアシャ訓練兵を52回打ちのめした。鍛練の後は、味の好ましくない昼食を取り、午後からはカシュンガル外縁の哨戒任務を行なう。タッグごとに、カシュンガル外縁を見回るのだが、どうもアシャ訓練兵の機嫌が悪い。まあ、分からないでもないのだが。
「アシャ訓練兵・・・言いたいことがあるなら言ってくれ。禍根を残しておきたくない」
「・・・ふんっ、私をあれだけ容赦なくボコボコにしといて、よく言えるわよね」
「その件については話しただろう? 君に回復魔法を使わせない為だと」
「理屈では分かっていても、気持ちが収まらないの! どこの世界に52回も殺されて、上機嫌でいられる変態がいるっていうのよ!!」
「回復魔法は完璧のはずだが?」
「そこじゃないの! 確かに怪我一つ無いし、むしろお肌の調子がすこぶる良いけど、心がメチャクチャなの! 何よ、この力量の差は!?」
「ははっ、照れるな」
「褒めてないから!? というか、回復魔法って自己治癒の前借りなんでしょう? これから毎日殺されて、私は長生き出来るの?」
「1000年は研究されてきたが、回復魔法と短命の因果関係は今のところ証明されてないな」
「そ、そうなの?」
「ああ、被験者は皆、戦場で若くして死んだからな。老衰者が居ないそうだ」
「んなっ!?」
怒りの余り、炎のダートを不気味な笑顔で構えるアシャ訓練兵。落ち着いて、ほんと落ち着いて。
「軽い冗談だから、回復魔法を受け続けて長命だった人や一回しか受けたことが無いのに短命だった人も居て、もはや個人差としか言えないわけだ」
「へぇ・・・私が若くしてしぬ時は、貴方を残る全ての力を持って焼くから、覚悟しておいてね?」
不覚にも、彼女の笑顔に寒気が走ってしまった。
「その時は・・・全力で反撃させてもらおう」
「あんたには責任感ってものが無いのッ!!」
我々は、南門を出て、道沿いに東門を目指している。最終目的地は北門で、東門はチェックポイントなのだ。ちなみに北門に着いたら、今日は上がりである。
カシュンガルの外縁には、多くの農地が拡がっている。どこもカシューンナッツや黒麦、泥豆を基本的に育て、いくつかの農家はそれを飼料に家畜を育てている。まさに、カシュンガルの生命線なのだ。
なので、カシュンガル外縁は比較的平穏が保たれている。何せ、駐留軍や短期訓練兵団、それに我ら長期訓練兵団がひっきりなしに見回っているのだから、問題の起き様が無いというものである。
「だからといって、油断するなよ? いつ何時、どんな問題が起きるか分からないからな」
「分かってるわよ・・・でも、息抜きの散歩みたいなものでしょ、こんなの」
駄目だこいつ、完全に嘗め腐ってやがる。
この高慢チキン(プライド高いくせにビビり)に七難八苦を、そんな事を神に祈っていたその時である。
「お~い、兵士様~」
どこからともなく、我々を呼んでいるとおぼしき声が響いてきた。
「むむ、何奴?」
「あ、ナディット、あれ見て」
アシャ訓練兵が指差す先を見ると、とある農家の畑で何者かが手を振っている。
「行ってみる?」
怪訝そうなアシャ訓練兵に、私は頷いてみせた。
「何かあったのかもしれないな。民草の守護者として看過出来ないだろう?」
「民草の守護者って・・・まあ、良いわ、行きましょう」
さて、その畑に近寄って行くと、手を振っていた農夫らしき人物が、血相変えて走り寄ってきた。
「どうされたのです?」
「助けてくれ、兵士様! 黒麦の畑にヤブーの群れが入っちまったんだ!?」
「何、ヤブーが? アシャ訓練兵、畑に急ぐぞ」
「・・・」
アシャ訓練兵は、キョトン顔で、畑に急行しようとする私の袖を引っ張った。
「ヤブーって、何? どういうこと?」
「説明している暇は無いが、とりあえず作物を食い荒らす奴らだ」
「何ですって、大変!?」
事態を察したアシャ訓練兵は、一目散に畑へと駆け出した。
「向かってくるものは全て倒せ! 絶対に魔法は使うなよ!!」
「分かってるわよ!」
いち早く畑に着いたアシャ訓練兵は、キョロキョロと辺りを窺った。
「どこに居るのよ・・・というかヤブーってどんなのよ」
その時、彼女の足元で黒麦の葉が揺れた。その直後、眼前にそれは飛び出してきた。
長い耳と逆関節の脚部が特徴的な小動物、ヤブーである。
「わぁ、何これ、可愛・・・」
アシャ訓練兵が抱き止めようとした次の瞬間、ヤブーの前肢が彼女の頬をおもいっきりひっ叩いた。そう、ビンタである。
「へぶっ!?」
思わぬ一撃に、アシャ訓練兵はバランスを崩し、尻餅を突いた。
「痛たっ・・・何なのコイツ!?」
「アシャ訓練兵! それがヤブーだ!!」
「えぇ!? これが、ヤ・・・痛ッ」
ヤブーは、尻餅を突くアシャ訓練兵の膝小僧に乗っかると、容赦なく頬をひっ叩いた。
「気を付けろ、馬鹿みたいにビンタしてくるからな!」
「早く言って・・・ひゃっ!?」
間髪入れず、ヤブーのビンタが炸裂する。
「この・・・許さないんだから!!」
アシャ訓練兵も負けじと、ヤブーの頬をひっ叩いた。だが、ヤブーは動じない。悠然と彼女の頬を叩き返した。
「んなッーー!?」
少女と小動物の間で繰り返される、ビンタの応酬。あの娘、小動物と本気で喧嘩している。
私が呆れながらその光景を眺めていると、足元で動く気配がした。どうやら、こちらにも来たようだ。
次の瞬間、眼前にヤブーが飛び上がってきた。そして、繰り出されるビンタ。私はその分かりきった攻撃を手の甲で受け止め、ヤブーを拳で叩き落とした。これでヤブーは目を回して動けない。
ヤブーは必ず、頬を叩いてくる。それさえ判っていれば、対処は簡単だ。
「シャアァァッ!!」
「痛い、痛い、許して~!?」
知らないと、あんな目に遭う。
アシャ訓練兵が袋叩きに遭っているうちに、私はヤブーを一匹ずつ確実に仕留めていった。そして、最後に彼女の元へ行くと、アシャ訓練兵は泣かされていた。
「うぅ・・・ナディット~」
「はいはい、お疲れさま」
私は、アシャ訓練兵に往復ビンタをかましているヤブーの耳を掴み、後頭部に当て身を食らわせて、気絶させた。
「うぅ・・・早く助けてよぅ」
アシャ訓練兵の頬は、見るも愉快に膨れ上がっていた。流石に可哀想なので、笑いを堪えながら回復魔法を掛けてやった。
「これで良し、もう痛くないだろう?」
「うぅ・・・ヤブー怖い」
「重症だな・・・ほら立て、後片付けをするぞ」
「うぅ・・・後片付け?」
「ああ、気絶しているヤブーを集めて、畑の持ち主に渡すんだ」
「何で?」
「ヤブーの肉と毛皮は、けっこう良い値で取引されるのさ。この数なら畑の被害を差し引いても釣りが来るだろう」
その後、数十匹のヤブーを農夫に引き渡すと大変喜ばれ、照れ臭いほどの賛辞を頂いた。心ばかりのお礼として、冷えたダラクアをご馳走にもなった。
「・・・うぅ」
巡回に戻り、東門を過ぎても、アシャ訓練兵はまだ涙目である。
「いつまで泣いてるつもりだ? それでも誉れ高き王国軍兵の端くれか?」
「うぅ・・・だって、普段やらかす子だと思われてるから、このくらいこなしてやるって頑張ったのに。小動物にまで袋叩きされるなんて・・・」
「なるほど、自信喪失か? 自信あったのか?」
「そうよ、当然でしょう!? 午前中は相棒にボコボコにされて、午後は小動物にボコボコにされる気持ちが、貴方には判らないでしょう!?」
判らないでもないのだが、今は言っても信じないだろうから、あくまで事務的にフォローしておこう。
「アシャ訓練兵、君は十分に役目を果たしていたのだぞ?」
「・・・へ?」
「君をボコボコにしていたのは、ヤブーの群れのボスだったのさ。本来、ヤブーは群れで連携してくるから大いに助かった。何せ、近付いたら反射的に跳ねてくるヤブーを狩るだけで済んだからな」
「そう・・・なの?」
「ああ、だからもう泣くな。無い胸を張れ。王国軍兵士がメソメソした姿を晒すんじゃない」
「そっか・・・あのさ、ナディット?」
「何だ?」
「今・・・無い胸とか言わなかった?」
「言ってない」
「言った」
「気のせいだ」
「うふ、そういえば私、回復魔法の練習がしたいの」
「止めろ、それは洒落にならない。落ち着くんだ、訓練兵!」
「シャアァァ」
アシャ訓練がゆっくりと手を伸ばしてきたその時である。
「お~い、兵士様~」
どこからともなく、我々を呼んでいるような声が響いてきた。
「おっと、またヤブーかな?」
「イ、イヤーー!?」
泥濘に嵌まった馬車を、押し出す手伝いの依頼でした。
ヤブー事件の翌日、その日の午後の巡回は、カシュンガル外縁のさらに外、用水路兼お堀を越えた先、都市の東に広がる森の探索へと変更された。概略は以下の通りである。
「監督官の名において、訓練兵に命じる。本日の午後は、タッグ単位での試験を行なう。内容は単純、東の森へ行き、日暮れまでにヤブーを生きたまま捕まえて来い。ああ、落第は最前線送りだ、以上」
まったく、唐突で意味の判らない試験である。ヤブーは昨日に腐るほど捕まえたというのに。まあ、一番の問題はアシャ訓練兵がただのチキンと化していることだが。
「・・・アシャ訓練兵、そろそろ私の背後に隠れるのは止めてもらえないだろうか?」
「嫌・・・ヤブー怖い・・・夢でも袋叩きにされたの」
深層心理にまで刻まれる程の傷だったのか。
「それを言うなら、今隠れているのは、ついさっきまで君をボコボコにしていた奴だぞ?」
「そうだけど・・・何故か恐怖心は無いのよね。気付いたら気絶させられているかしら?」
あれ、嘗められているのだろうか。気遣いが仇になっていたとは。
「・・・アシャ訓練兵!!」
「ヒィッ!? またあの発作なの?」
「発作とは何だ? これは王国軍兵として当然の振舞いであって、私に非は無い」
「うぅ・・・当然、大声だすから発作なのよ!」
「アシャ訓練兵、ここは民間の学校でも無ければ、親睦を深める為のハイキングでも無い。最高指揮官からの指令であると心得よ」
「貴方・・・絶対楽しんでるでしょう?」
「はぁ・・・遺憾だ、誠に遺憾なのだよ、訓練兵。私は貴様の様に私情を挟んでなどいない。全ては軍務、命令、仕事である。いつまでも町娘気分でいると、命は無いぞ?」
「・・・分かったわよ。それで、先任訓練兵殿はどの様にして、あの腐れヤブーを捕まえるおつもりで?」
「ああ、妙案があるぞ。アシャ訓練兵、走りたまえ。反応したヤブーたちが飛び出してくることだろう」
「私、活き餌!?」
「案ずるな、回復魔法は掛けてやる」
「そこじゃない! うぅ・・・本当に走るの?」
「ヤブーの潜む森に日暮れまでに居たいのなら、ハイキングと洒落込もうじゃあないか?」
「ッ・・・もういい、走ってやるわよ! すぐ助けてよね!!」
「ああ、善処する」
「それくらい確約しなさいよ~!!」
叫びながら駆け出していくアシャ訓練兵、さっそく何かが反応し、動き出す。
「あれ・・・木の上?」
アシャ訓練兵がとある木の下を走り抜けようとしたその時、枝葉の間からヤブーが落っこちてきた。そのままアシャ訓練兵の顔に着地、踏み台にして再び木の上へ戻っていく。
さらに間髪入れず、2匹のヤブーが怯んだ彼女の足元から駆け寄り、交互にビンタをかまし、駆け抜けていく。
「へぼッ!?」
キツいのを喰らったアシャ訓練兵は、よたよたとあらぬ方向へ歩いていき、急斜面から転がり落ちていった。もはや、悲鳴すら聴こえてこない。
「・・・はぁ」
ヤブーというのは、縄張り意識の強い生き物で、例え肉食獣であろうと、ビンタで追い払うという。まさか、森のヤブーは木の上を縄張りにしているとは、まさにやぶ蛇である。恥ずかしいので言葉にはしないでおく。
急斜面を覗き込んで見たが、かなり下まで続いていて、アシャ訓練兵の姿は視認出来なかった。
「追うしかないか・・・」
たとえ冷たくなっていようと、仲間は連れ帰ってやらねばなるまい。
とはいえ、ヤブーを捕まえてからでも良いだろう。そう思い、振り返った私は、己が目を疑った。数百匹のヤブーが私を半円状に取り囲んでいたのである。
いくらなんでも、多すぎるだろう。
「・・・因果応報か」
私は拳を握り、少し小動物たちと触れ合っていくことにした。
それから、どのくらいの時が過ぎたのだろうか。私の周りには気絶したヤブーたちが積み重なり、ちょっとした山を築いている。
見れば、もう陽が傾き始めていた。私は支給されていた背負い籠に可能な限りヤブーを押し込み、急いで急斜面を降り始めた。
滑り落ちそうになりながらも、木々や岩を回避し、どうにか急斜面の底へと辿り着くことが出来た。
急いで、アシャ訓練兵だったものが周辺に落ちていないかと見回してみたが、そのようなものは見当たらなかった。まだ生きているのか、獣に持ち去られたのか。地面を注視してみると、ブーツの足跡があった。うむ、生きているらしい。
足跡を追いながら、私は彼女に呼び掛けた。
「お~い、アシャ訓練兵~」
「・・・ナディット~」
近くからか細い呼び声が聴こえた。聴こえてきた方向へ駆けて行くと、とある木の洞の中に、すっぽりと収まるアシャ訓練兵を発見できた。
「無事か、訓練兵!」
「ええ・・・擦り傷だらけで足も挫いちゃったけど」
「すぐに回復魔法を」
「あ、それならこの子を先にお願い!」
アシャ訓練兵は、抱き抱えていたものを私に差し出してきた。
「これは・・・ウサギか?」
彼女が差し出してきたのは、毛並みの良い白ウサギであった。怪我をしているようで、呼吸が荒い。
「大変だ、すぐに処置しないと・・・肉が不味くなる」
「・・・おい」
「ん?」
「回復魔法だから! 助けてあげてって言ってるの!!」
「おお、そうか」
私は直ぐ様ウサギに回復魔法を掛けてやった。瞬く間に傷は塞がり、見るからに元気を取り戻していった。
「良かった・・・」
「それで、いったい何がどうしたんだ?」
「私が変な植物に襲われた時に助けてくれたの。でも、その時怪我しちゃって・・・」
なるほど、それで情が湧いたのか。変な植物というのが気になるが、今は時間が無い。
「刻限が近くなっている。急いで戻らないと最前線送りになるぞ」
「あ、そうだ、日暮れまで・・・早く私にも回復魔法を!」
「その・・・余力が無い」
「ええ!? じゃあ、自分で」
「止めろ。そんなに焦った状態で上手くいくものか」
私はアシャ訓練兵を抱き上げた。
「これで行くぞ」
「ちょっ、はずかしっ!?」
「ウサギを助けることを選択したのだから、このくらいの恥、耐えてみせろ」
「せめて背負って!?」
「籠がある、それにウサギも連れ帰るのだろう? こうしないと抱いていられないぞ」
「っ・・・バレてた?」
「ああ、子犬を拾ってきた戦友と同じ顔をしているからな」
「どんな顔!?」
「・・・」
死相だ、とは言えないな。
「走るが、こけた場合、投げ出されるから覚悟しておけ」
「えぇ・・・また転がり落ちるの?」
「万が一だ。それと、籠のヤブーが目を覚ましたら、気絶させといてくれ」
「イヤーー!?」
相棒の絶叫は無視して、私は西へと駆け出した。森の中だが方角は大丈夫、地理は把握している。
数十匹のヤブーとアシャ訓練兵とウサギを抱えたままの走り込みとは、何とも厳しい状態である。息切れ、というか息継ぎも出来ない。腕の感覚が薄れていく中、足先の痛みだけが明確に伝わってくる。
それでも、私が落第するわけにはいかないのだ。
最後の手段を取るべきか、そんな事を考えていた、その時である。
「オオォォォ・・・」
背後から、雄叫びのような音がした、気がする。
「おい、アシャ訓練兵・・・後ろから何か来てないか?」
「え、後ろ? ・・・あれ、何か追ってきている?」
「ッ・・・追われてるだと? どんな奴だ?」
「大きい・・・とにかく大きな・・・毛玉?」
「・・・毛玉?」
普段なら、何を馬鹿なと笑うところだが、私には思い当たるものがあった。
「デーベラウ・・・」
「え? 何?」
「追い付かれそうか?」
「え、ええ・・・何あれ、凄く速い」
だろうな、私の想像しているものと同じなら、追い付かれないわけがない。
「・・・アシャ訓練兵、しっかりとウサギを抱いていろよ」
「へ?」
私は、残った腕力を振り絞り、アシャ訓練兵を前方へと放り投げた。
「何でよ~!?」
転がり落ちる相棒を尻目に、私は踵を返した。背後からは、巨大な金毛の毛玉が猛然と迫っていた。毛玉からは四本足と猫に似た顔が生えている。デーベラウ、最悪の肉食獣だ。
私はヤブーの詰まった籠を、毛玉が通るであろう地点に置き去りにし、打ち所が悪かったのか気絶しているアシャ訓練兵を抱き上げ、再び駆け出した。荷物が減った分、先程よりも速度が上がったが、毛玉は簡単に距離を詰めてくる。
「オオォォォ」
だが、その一鳴きの後、追い縋ってくる気配が消えた。おそらく、仕掛けが上手く働いたのだろう。
私は、気絶するヤブーに精一杯の回復魔法を掛けてから、籠を置いてきたのだ。あまり回復効果は無いが、意識を取り戻すには十分である。そこに毛玉が近付いてきたら、どうなるだろうか。もちろん、縄張りを侵されたと判断し、ビンタしに行くはずだ。
今、あの毛玉は数十匹のヤブーと戯れていることだろう。それでどうにか、腹を満たしてくれることを祈るしかない。
森を出る頃には、陽が暮れてしまっていた。夜の帳が降りていく中、お堀に渡された橋関所へと辿り着けた。疲労のせいか、橋の真ん中に仁王立ちする監督官の姿が見える。
「遅いッ!!」
うわ、本物だ。
「失望したぞ、ナディット訓練・・・貴様、どうした?」
「っ・・・監督官、デーベラウが出ました。すぐに警戒を!」
「デーベラウだと? 訓練兵貴様、落第を免れる為に虚言を吐いているわけではあるまいな?」
「虚言では・・・」
説明を述べようとしたその時である。
「オオォォォ」
あの鳴き声が、思ったよりも近くから響いてきた。
「・・・疑ったことを赦せ。橋を上げろ! 松明を灯せ! 巨獣が来るぞ!!」
命令が発せられるや、関所は兵士が慌ただしく駆け回る最前線へと変貌した。橋が物凄い勢いで巻き上げられ、松明によって真昼の如く周囲が照らし出される。
監督官は、アシャ訓練兵を引き受けると、私に随伴するように指示してきた。
早足で南門砦へと舞い戻り、衛生兵にアシャ訓練兵を託すと、執務室での訊問タイムである。
「消耗が激しいようだが、報告は出来るな訓練兵?」
「・・・はい、監督官」
「ふん・・・そう、息も絶え絶えではな」
監督官は、私に回復魔法を掛けてくれた。一瞬にして疲れが溶けてゆくのだから恐ろしい。
「報告します」
私は、体験した事実をありのまま語った。もちろん、デーベラウに追われてからである。
「・・・なるほど、良い機転だとは言っておこう。だが、分からない。何故、奥地の生き物であるデーベラウが、このような人里近くに現れたのだ?」
「それは、私にも判りません」
「だろうな、赦せ・・・」
その時、執務室に伝令が姿を現した。
「報告、東橋関所にてデーベラウとおぼしき獣が姿を見せ、魔法による威嚇により、逃走しました。追撃致しますか?」
「馬鹿な・・・夜はあちらのテリトリーだ。追撃は禁ずる。警戒態勢の維持を厳命しろ」
「はっ!!」
伝令が去ると、監督官は実に愉快そうに笑い出した。
「追った獲物は逃がさない、出会った者は必ず死を覚悟するデーベラウ(人間殺し)から逃げ延びるとはな」
「ええ・・・上手くいって助かりました」
「運が良かった、とは言わないのだな。不遜な男だ、帰って休むが良い」
「あの・・・御聞き頂きたいことが」
「何だ、訓練兵?」
「前線送りは、私だけにして頂きたいのです。今回の失態は、私の力が及ばなかったことにあるので」
「確かに・・・貴様はもっと上手く事を運べたはずだな。これを教訓に、明日からの訓練に従事せよ」
「ですが・・・我々は合格要件を満たしていません」
「律儀も考え物だな・・・訓練兵、貴様らを迎えた時、明るかったと記憶しているが?」
「あ・・・明るかったです」
松明ですね。
「ナディット訓練兵、アシャ訓練兵が抱えていた耳の長い生き物を、私はヤブーだと認識していたのだが・・・間違いか?」
「いえ、相違ありません」
嘘です、ウサギです。
「なら問題あるまい・・・まったく、貴様らを贔屓されていると噂されても目障りだ。問題を起こすなとは言わないが、次からは上手く処理して見せろ」
「・・・はい、監督官」
監督官の配慮に痛み入りながら、私は執務室を後にした。
今回は大目に見てもらえた、私はそのような状況を許さない。このような恥辱を味わわせてくれた毛玉君には、相応の礼をしてやらねば収まらない。