存在しない人
「くちゅん」
「? バステト…………体、冷やしちゃった?」
「あっ、いえ…………その、大丈夫です、にゃ」
「兄様! これでどうですか!」
「兄様! これでどうでしょう!」
アトムとアンナーーーー双子によって練り上げられた魔術が起動し、水流が竜巻となってラムセスとバステトの二人に迫る。
バステトに気を取られていたラムセスがそれに反応するよりも一歩はやく、バステトがラムセスの前へと飛び出した。
「だめです、にゃ!」
バステトが両手を地につけると同時に、彼女とラムセスの立つ場所が盛り上がり、一気に天へと突き出る。
それは巨大な壁となり、双子の魔術を受け止めた。
「『濁流となって押し寄せろ』」
壁の上に立つラムセスが呪文を唱えると、水流の制御は双子の手元を離れ、彼のものとなる。
そのまま周囲の水を大量に汲み上げたラムセスは、ひとまわり大きくなった水流を双子に向けて解き放つ。
「あっ」
「えっ」
押し寄せる濁流に抵抗できず、二人は水の流れに飲み込まれる。
ラムセスは水流を円状につなぎ合わせ、その中で循環するように流れを操る。
当然、双子も水の中を周回し続ける。
「同属魔術障壁」の影響で、彼らが触れた水はラムセスの手を離れてただの水となるが、ラムセスはその都度制御を取り戻し、魔術を継続させる。
「兄様! たのしいね!」
「兄様! もっと強くして!」
「二人とも、あんまり羽目を外しすぎちゃだめだよ?」
ラムセス達は屋敷の庭で遊んでいた。
遊んでいた、というと少し語弊があるかもしれない。
彼らは庭で魔術の訓練をしていたのだ。
双子がラムセスを誘い、彼はそれを了承した。そして、バステトはラムセスが連れてきた。
ラムセスとバステト、アトムとアンナ。
彼らは二対二に分かれ、戦闘訓練を行っていた。
「やっぱり兄様はすごいわ! あんなに自由自在に魔術を操れるなんて!」
「僕…………もっと兄様と一緒に訓練したいな…………ね? いいでしょ? おねがい!」
兄に構ってもらえることが嬉しいのか、双子は高揚した気分のままにラムセスへじゃれつく。
濡れてもいいように、耐水性の高い軽装に身を包んだ彼らは、その肌の多くを太陽の下に露出させていた。
そして、それはラムセスとバステトの主従も同様であり。
有り体に言えば、彼らは全員で水着を着て水遊びをしていたのだ。
双子がそれぞれ、ラムセスの片手を掴んで気を引こうとしている。
バステトはそれを、ラムセスの背後から眺めていた。
「いや、もう日も落ちてきたからね…………今日はここまでにしよう」
ラムセスの言うとおり、既に空は夕焼けの色に染まり始めていた。
先ほどのような魔術の応酬を、彼らは何度も繰り返していた。
双子が結束して魔術を放ち、ラムセスがそれを返り討ちにする。バステトは時々、防壁という形で手を出す。
つまり、訓練とは名ばかりの兄弟の童戯のようなものだった。
「そんな! まだ太陽が落ちきっていないのに?」
「まだ月が見えていないのに?」
「だーめ、あまり長い間外にいて体を冷やしたら困るでしょ? 今のうちに体を清めて、夜ご飯を食べたらちゃんと寝るんだ」
「うぅ…………そんなぁ…………」
「分かりました! 僕はいい子だからちゃんと兄様のいうことをきけます!」
「ちょっとアトム! 自分ばっかりいい子ぶらないでよ! 私だって兄様のいうことをちゃんときけるわよ!」
「ほら、はやく戻ろう」
双子の背中を押し、ラムセスは屋敷の方向へと歩き始めた。
双子は最初こそ二人で言い合っていたが、やがて兄の両手を取って大人しく横を歩く。
ラムセスは体を後ろへと向け、バステトに目を合わせて微笑む。
「いこうか」
「はいです、にゃ」
それは全くもって平穏な、日常と呼ぶにふさわしいやり取り。
魔人達による王都襲撃から、過ぎること半年。
最も日差しが強く、長く降り注ぐ季節が訪れていた。
コンコン、と扉を叩く音が辺りに響く。
中から返事があったのを確認してから、ラムセスは扉を開けた。
「それでは坊っちゃま、私はこれで」
「うん、ありがとう。また後で、よろしく頼むよ」
部屋の中で待機していた年輩の使用人が一礼し、慣れた様子で退室する。
事実、このやり取りはこの半年間ほとんど毎日行われていた。
ラムセスは両手に抱えた本を机の上に置いてから、ゆっくりとした足取りでベッドへと向かう。
部屋の中は閑散としており、家具も最低限のものしか置かれていない。
そこは清潔感こそあれど、生活感はほとんど存在していなかった。
ラムセスはベッドの枕元近くに置かれた椅子に座ると、そこに寝たきりになっている女性の顔へと手を伸ばす。
今では見慣れた褐色の肌に触れ、頬を撫でる。
双子達と遊んでいた時には見せなかった、深く思い悩んだ表情を浮かべながら、その名を呼ぶ。
「ホルス…………」
返事が返ってくることはない。
王都での戦闘の後。
適切な処置で一命をとりとめたホルスは、しかし一度も意識を取り戻すことはなかった。
王都にいた医者に診せても、名医として知られる父親に診せても、状況は変わらなかった。
片翼を失った獣人の女性は、深い眠りの中に取り残されたままだった。
それは、ラムセスがあの戦いで唯一失ったものだった。
寝たままのホルスを見るたびに、ラムセスの頭の中に誰かの声が響く。
『手のひらから零れ落ちたのなら、掬い上げればよいではありませんか』
「僕は…………」
その言葉を耳にするたび、ラムセスは自嘲せずにはいられなかった。
結局、全てを救うことなど出来ないのだと。
自身の無力さを自覚し、暗然とした気持ちに包まれる。
「ーーーーぅ、さま…………」
ラムセスの耳元に、ホルスの呻くような言葉が届く。
意識を取り戻さなかったホルスはしかし、時々こうして誰かを呼ぶことがあった。
「…………ホルスっ……」
頬を撫でていた手を戻し、代わりにかけ布団から飛び出ているホルスの手を掴む。
そして、魔術を用いて彼女の状態を確認する。
毎日繰り返しているその動作のおかげで、ラムセスはすっかり他人を診断する事に慣れてしまっていた。
水の魔術を用いた、精密な検査。
しかし、いつもと変わらぬ結果だけがそこにある。
ホルスの肉体は、片翼が無いということを除けば健康そのものなのだ。
これまでに診察していった魔術師達が、どうして意識が戻らないのかを不思議に思うほどに、彼女の肉体に異常はなかった。
それを確認したラムセスは再び魔術を行使し、ホルスの肉体に癒しの力を注ぎ込む。
ホルスの顔が安らぎ、呼吸が大人しいものへと変わる。
「お、とう…………さ、ま」
「…………ホルスっ!」
手を繋いだまま、ラムセスは三度彼女の名前を呼ぶ。
虚ろな精神を現実に止めるために、この場所へと呼び戻すために。
しかし、彼女は一向に目を覚まさない。
ラムセスはあの日から、自らの魔術を医療の方向へと伸ばすための訓練を始めた。
魔人との戦闘を経て、ラムセスの火の魔術は大幅に力を増していたが、彼はそれでも水の魔術の訓練に力を注いだ。
それは、ホルスという存在を取り戻すため。
そのために彼は毎日こうして彼女の元を訪れ、書斎から持ち出した医療関係の書物を読み漁っていた。
「ホルス…………今日はバステト達と一緒に魔術で遊んできたんだ。アトムとアンナは訓練って言い張るかもしれないけど、ね」
ホルスに向けて、その日一日の出来事を語りかけるのも、もはや日課となっていた。
「ハルは冒険者として活動するためにここを出ていっちゃったけど、たまに手紙が届くよ。必ず君のことを尋ねてくるんだ、きっと…………君と一緒に仕事ができたらって、今でもそう思っているんだ」
独り言が会話へと変わる事を願って、ラムセスはホルスへと話しかける。
「ねぇ、ホルス…………」
ラムセスには、心配事が二つあった。
一つは、戻らないホルスの精神について。
何かしらの病気なのか、それとも他に原因が存在しているのか。
書物から知識を、経験から力を手に入れながら、ラムセスはそれを解決するための手段を模索していた。
そして、もう一つ。
「ホルス…………君は、いったい…………」
それは、ホルスの身柄についての事だった。
彼女はA級の冒険者であり、それは王国での身分証明の代わりとなっている。
そして、その出身は共和国という事になっていた。
かつて共和国からの留学生として、王国の学園で魔術を習っていた事は、父であるレムリットから既に確認が取れている。
共和国からの支援を受け、王国を訪れていたのは間違いないのだ。
その筈だというのに。
体の奥から吐き出すように呟かれた言葉は、部屋の中に静かに木霊する。
「ーーーー君はいったい、何者なんだ」
ラムセスは屋敷に戻ってから、すぐさま共和国へとコンタクトをとった。
父であるレムリットを頼りに、ホルスの家族へと現状を伝えようとしたのだ。
ホルスが頻繁に「おとうさま」と呟くことも、その行動の強い理由になっていた。
留学生としての立場があったのだから、そこを辿れば間違いなく連絡がつく。
ラムセスはそう思っていた。
しかし、結果は予想外な方向へと進んだ。
少なくとも、共和国出身の「ホリィ・スィー」という人物は存在しない。
それが、共和国から返ってきた情報だった。
学園に問い合わせても、「ホリィ・スィー」という留学生は過去に存在していなかった。
レムリットもこれには眉をひそめ、徹底的に情報を洗った。
しかし、結果は散々なものだった。
どれだけ探しても、「ホリィ・スィー」という女性についての情報は見つからなかったのだ。
それこそ意図的に消されたことを疑わざるを得ないほどに、彼女という存在が生きていた痕跡が見つからなかったのだ。
冒険者組合に連絡しても、それは同じだった。
今まで何処を拠点に活動し、どのような依頼を受けていたのか。
それら全ての情報が、綺麗さっぱり消失していたのだ。
しかし、A級冒険者としての身分は確かに存在している。
つまり、「ホリィ・スィー」という女性は「突然この世に現れた」としか言いようがなかった。
本来なら、ホルスはそれが判明した時点で国に拘束されてもおかしくない。
しかし何故か王国も共和国も彼女を取り抑えようとはせず、今も彼女はこうしてラムセスの屋敷に留まっている。
だがラムセスにとってはそんな異常な出来事ですら、彼女の無事に比べたら二の次だった。
戦いの時の、ホルスの身を挺した行動を思い返しながら、ラムセスは口を開く。
「無理にとは言わない。でも…………もし、君が僕に隠し事を明かしてもいいと思ったら、その時は…………」
ホルスの片手を両手で握りしめながら、ラムセスは言葉を続ける。
「ーーーーだから、早く目覚めてほしい。僕はまだ、あの時の礼を告げることすら出来ていないんだ」
王都での戦いから、はや半年。
しかし彼女の時間はまだ、あの場所に置き去りにされたままだった。




