Fear to see, the next to be
魂は精神と合流し、新たな自分が誕生する。
閃光に視界を遮られた彼が目を開くと、そこはまたしても、壁に囲われた部屋の中だった。
しかし、その内部の構造は明白なほどに変化している。
先程の壁画に覆われていた部屋は基本的に暗闇の中にあったため、彼自身の周辺しか見通す事は出来なかった。
だが、この部屋は壁に一定間隔で松明のようなものが置かれており、壁際を明るく照らしている。
彼の目の前には緩やかな傾斜の階段が奥へと伸びており、階段を中心として左右対称になるような配置で松明が設置され、たった一つの道を強調していた。
そして階段の両端。
松明よりも外側には地面が存在しておらず、壁に到達するまでの全てが、底の見えない奈落のような空白なのだ。
彼の瞳には階段だけが、空間に浮かび上がっているように映っていた。
いや、そもそも此処を部屋といっていいのだろうか。
壁と壁の距離は最低でも百メートルほどはあり、その規模はただの室内というには大きすぎる。
見上げた先の天井は遥かに高く、目測で距離を図る事は出来ない。
上下が底抜けに遠く、左右には辿り着く事すら不可能。
そういう場所だった。
彼が振り返っても、そこに扉は存在していない。
一本道の階段を、登るしかなかった。
彼は恐る恐るといった様子で、一段だけ足を進めた。
左右は奈落へと続いているため、どうしても慎重にならざるを得ない。
一段目に足を乗せた瞬間、彼の重さによって、その足場は少しだけ沈んでみせる。
彼はギョッとして足を離すと、その段は元どおりの位置へと収まった。
まるで、空気を踏み抜いているかのような感覚だった。
彼は理解した。
階段はそれぞれの段差が独立した板のようなものであり、決して繋がっているわけではないことを。
やや乱れた呼吸を整え、もう一度足を乗せる。
先ほどと同じようにその場に少しだけ沈むが、決して抜け落ちるような事はない。
彼が更に一段登り、そこからもう一段登ると、足が離れた最初の段がふっと消滅する。
振り返らなかった彼は、それに気がつく事はなかった。
一歩、また一歩。
天へと近づいていく毎に、彼という存在が書き換えられていく。
年齢に対して平均的だった身長が、どんどん縮んでいく。
毎日見ていた顔に靄がかかり、成人男性から少年のそれへと変化する。
黒かった瞳は黄金へと移ろい、顔つきも異国めいた特徴が混じりはじめ、目立ちがハッキリしたものへと変貌する。
黒い礼服は粒子となって虚空に溶け、代わりに黄金細工が輝く民族的な衣装が現れ、彼の肉体を包み込む。
一歩、また一歩。
その階段を登るごとに、彼は何者かへと姿を変えていく。
彼はそれを知覚しながら、狼狽えることも、戸惑うこともない。
幼虫が蚕となり、やがて羽を伸ばすように。
赤子が時を経て成長し、一人の大人として二つの足で歩み、いつか老いて杖を持つように。
それが自然の摂理であるかのように、当たり前の事のように。
彼は自らの変化を受け入れ、そして自己を確立していく。
彼という魂が、少年の精神と溶け込んでいく。
一歩、また一歩。
そうして彼が全ての階段を登り終えた時、彼はラムセスという名の少年となった。
ラムセスが更に一歩足を前へと伸ばすと、地面に触れた爪先から幾筋もの光が放たれ、地を這って周囲へ拡散する。
それは規則的に分岐し、地から宙へと駆け上がり、空間に物質を形作る。
全てが終わった時、ラムセスの目の前には四つの石像が並立していた。
「これは…………前世の私?」
一番左の石像は、先ほどまでのラムセスの姿そのものだった。
すなわち、彼の魂を持っていた前世の自分。
ある世界の小さな島国にうまれ、無茶な労働の果てに衰弱死した、始まりの象徴。
両手を胸の前で交差するように組んだ姿勢をとり、両目を閉じて台座に腰掛けている。
「こっちは、今の僕だ」
左から二番目の像は、童子である現在のラムセスの姿と瓜二つだった。
座った姿勢であるのは一つ目と同じだが、両目は開かれ、片手に杖を持ち、反対の手に心臓のような形の彫刻を掲げている。
その造形は極めて精密であり、今にも動き出しそうなほどに現実味のある存在感を放っていた。
ラムセスはこの二つの像を見比べつつ、この空間がいったい何なのかを考え始める。
ラムセスの前世の姿は、当たり前だが今世の誰も知らない筈の事だ。
それが石像としてここに存在していて、それを今のラムセスが眺めている。
直前までの記憶がない事も含め、ラムセスの思考は疑問に埋め尽くされていた。
どうして此処にいるのか、どうやって来たのか。
そしてそもそも、ラムセスという少年は|どういう人間であったのか(・・・・・・・・・・・・)。
その全てが忘却の彼方であり、今のラムセスは自分の名前と意識のみの存在と化していた。
しかし、ラムセスはその事について何も感じていなかった。
疑問こそあるが、これは心根を揺るがすほどのものでもない。
不思議な事ではあるが、今すぐ解決しなくてはならない訳でもない。
今のラムセスは、自分という存在に対する興味が限りなく希薄になっていた。
沢山の疑問が降って湧いては、その全てがどうでもいい事のようにひとりでに消えていく。
彼自身の像についても、目の前にあるから注目しているにすぎない。
彼の精神は、極端に平静なものになっているのだ。
そんなラムセスの興味は、見慣れない姿の二つの像へと移り変わっていく。
「それで…………こっちのは、うん…………余だ」
三つ目の石像は、青年と呼ぶに相応しい体躯の彫像だった。
記憶に存在しないものだったが、ラムセスはそれを見て「これは自分だ」という根拠のない確信を得ていた。
確かに、その石像には今のラムセスの面影がある。
顔つきは父であるレムリットに近づき、幼さを失った代わりに精巧さを身につけている。
しかし、その片目が閉じられており、瞼の上から切り傷のようなものが彫られている。
現在よりもずっと伸びた身長に、鍛えられた肉体。
体の大きさに合わせて新調されたと思われる杖と、より芸術的に刻まれた細工を身につけている。
そして何より、その胸元に存在する太陽を模した紋様と、そこから全身へと走る幾何学的な規則性を持った線。
二つ目の石像と見比べれば、なるほど。
順当に成長すれば、こうなるかもしれない。
そう思わせるだけの類似性が、その二つに存在していた。
しかし、ラムセスが三つ目の像を自分であると判断したのは、そんな憶測混じりの不確定なものからではない。
もっと根本的に、心の奥底から。
所謂第六感的な直感を持って、ラムセスはそれを確信にまで至らせていた。
いずれ、自分がこうなる。
その事実に満足したように頷いたラムセスは、最後の石像に視線を移す。
それは、全身を布によって包まれたーーーー。
そこまで認識して、ラムセスは急に最後の石像に対する興味を失った。
視線を元の位置へと戻し、それを視界にすら入れない。
明らかに不自然な挙動だったが、ラムセスはそれすら疑問に思うことは無かった。
そして彼の興味は、また別のものへと移っていく。
ラムセスは二つ目と三つ目の石像の間に、一つの道が続いている事を認識した。
それは先ほどまでは、全く見えていなかったもの。
いや、見えてはいたが認識していなかったものだった。
意識した瞬間に、それが元からあったことを理解させられたラムセスは、数瞬の間で認識が切り替わった事に首を傾げた。
しかし、それがどういう事なのかを深く考える事もなく、その道へと足を進める。
『お待ちください、我が王よ』
そんな彼へと、声をかけるものがいた。
このラムセスしか存在し得ない空間において、それは明らかに異物であった。
ラムセスの少し前の位置に、突如炎が吹き上がる。
燃えるものもないというのに、その炎は勢いを増し、生き物のように躍動し、そして一つの形へと変化する。
ラムセスはそれを、ただ無感動に見つめていた。
そこに現れたのは、一匹の蛇だった。
しかし、ただの蛇ではない、
体から溢れる気炎を揺らめかせ、生命の力を感じさせる。
炎蛇。
それがラムセスにこうべを垂れ、来訪を歓迎していた。
『王の帰還、首を長くしてお待ちしておりました。此処から先は、わたしが案内させていただきます』
畏る炎蛇に対し、ラムセスは一つ頷く。
それが当然といったように、堂々とした佇まいで受け入れる。
ラムセスの許しを得た炎蛇は、彼へ背を向け、ゆっくりと道を進む。
ラムセスは、黙ってその背を追った。
彼の顔には、隠しきれない喜色の笑みが浮かび上がっていた。
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Kar:精神




