人知れず、世も知らず
巨大な魔人によって王都が襲撃される、その少し前のこと。
「ひゃああああああ! し、死ぬ! 死んじゃいますよぉ!」
「君は一々大袈裟だなぁ……もっと、こう、落ち着くことは出来ないのかい?」
祭り特有の騒乱に包まれたアリストクラットのとある喫茶店で、一人の少女が悲鳴をあげていた。
白い礼服を身につけ、目尻に雫を溜めて慌てている様は、見る者に事の深刻さを印象付ける。
それを笑顔で嗜めるのは、少女と似た意匠の礼服を身につけた人物だ。
その胸元に輝くエンブレムから、彼、あるいは彼女の身分が、聖教国の上級階級である司教だということが分かるだろう。
のほほんとした雰囲気を漂わす司教に対し、少女は必死そのもので抗議を試みる。
「だ、だってウェザー司教! ワタシの今日の死亡確率が一割を超えたんですよ!? あ、あぁ…………ま、まだ上がってるぅ!! だから王国なんて来たくなかったんですよぉ! なんでわざわざ火中に飛び込まなくちゃいけないんですかぁ! 国王への情報提供はウェザー司教だけでいいじゃないですか! もう役割は終わったんですし、早く逃げましょうよぉ!!」
少女にウェザーと呼ばれた司教は、自らの目の前のカップを手に取ると、ゆったりとした動作で中身を口に含んだ。
そしてしっかり舌の上で味わうと、音を鳴らさないように静かに喉の奥へと呑み込む。
それだけで只ならぬ静謐さを発する司教を見て、少女は無意識のうちに唾を飲み込んだ。
自らの上司の判断、その沙汰を待つ。
ウェザー司教は少女へ顔を向けると、にっこりと笑みを浮かべた。
少女は自分の意見が認められたと判断し、喜びで頬を緩める。
ウェザー司教はそんな彼女の頭に手を乗せると、笑顔のままでこう言った。
「ダ、メ」
「なんでええええええええ!?」
一瞬のうちに意地悪そうな笑顔に切り替えたウェザー司教に対し、少女は鳩が豆鉄砲を食らったかのような顔を見せ、その直後に絶叫した。
両手に握った本で手を叩き、抗議してくる少女に対して、ウェザー司教は口を開く。
「そうやってすぐに逃げようとするのが君の悪いところだよ、シスター・モーセ。せっかく魔法の力に選ばれたんだから、もっと上手に使いこなしたまえ。見えるものから目を逸らしていては、自分の視野を狭めるだけだ。もっと力を受け入れ、肉体の一部のように操るんだよ。だいたい君はいつも」
「今は説教はいいですから! あ、あぁ…………ま、また確率が上がった! このままじゃ手遅れになっちゃいます! 南門…………およそ一割五分、せ、西門は……二割、東門は三割…………ぴぃっ! 北門は五割超え!? 南門! 南門から逃げましょう!! ここが一番安全です!!」
「ふーん、北門ってそんなに危険なんだ」
「はい! 間違いありません! 南門は聖教国に近い方向でもありますし、これはまさしく天命かと! さぁ、こんな所で優雅にティータイムを満喫している暇はありません!! 今すぐにでもーーーー」
「じゃあ、北門に行こうか」
「なんでえええええええ!?!?」
少女の提案を真っ向から否定し、ウェザー司教は彼女の提示した中で最も危険な選択肢を選ぶ。
モーセと呼ばれた少女は、ウェザー司教の部下として王国に派遣された特使扱いの修道女だ。
基本的に位の高いウェザー司教には逆らう事が出来ず、司教が決めた事には従う義務がある。
だからこそ、彼女は必死に司教の考えを否定しなければならない。
だが、彼女はこの時点で半ば諦めかけていた。
ウェザー司教と何度か行動を共にしてきた彼女は、司教が一度決断した事を撤回した事がないという事実を知っているのだから。
しかし、それでも彼女はなにか出来ることはないかと思考を巡らせる。
彼女が見えている数字は絶対であり、それはどう足掻いたところで変わることのない事実なのだから。
このままでは、二分の一の可能性でモーセは死ぬことになってしまう。
コイントスを一回行って、その裏表を当てるのと同じ確率。
そんな危険な数字に命を掛けなければならないなど、モーセからすれば正気の沙汰ではないのだ。
発熱するほどに考え、目をグルグルと回してまで否定する材料を探す。
そんなモーセに、ウェザー司教は質問を投げかけた。
「シスター・モーセ、君の言う死亡確率というのはどんな条件の上に成り立っているんだい?」
モーセはその質問にキョトンとした顔を見せた。
そして、説得のきっかけになる事を祈ってなるべく詳しく説明する。
「えと、えっと…………その、特に指定していないので…………このまま普通にワタシがそれぞれの場所に移動した場合と、ここに残った場合の死亡する可能性を数値で可視化していて」
「じゃあ、それとは別の確率を求めてくれるかな?」
「? はい。でも、その、一体どんな…………」
「そうだね…………私の死亡確率を求めてくれないかな? この後それぞれの危険な場所に向かった時の、私の死ぬ確率を求めてほしい」
「えっ、でも…………」
「いいから」
今までモーセの魔法に興味を示さなかったウェザー司教が、自らに関する確率を知ろうとしていることに、モーセは首を傾げた。
モーセの魔法は運命を数値化する。
それは条件を加えることで変動するほど不安定なものだが、逆にいえば適切な条件さえ指定できれば、限りなく現実に近似した結果を求める事が出来るという事。
信心深いウェザー司教は、自分の天命を前もって知覚する事を避けている。
モーセはそれを知っているからこそ、ウェザー司教のこの行動に疑問を持ったのだ。
初めて会った時にウェザー司教から釘を刺されているため、モーセは一度も司教に関する確率を求めた事はない。
つまり、今日この時が初めての経験になるのだ。
「じゃあまずは…………そうだね、ここにいる場合の僕の死亡確率は幾つかな?」
「ええっと…………はい、一厘の十分の一、です…………ね」
それが、どれだけ小さい数字なのか。
例えどんな人間でも、何をしていなくとも。
突然の不幸で人は死ぬ。
避けられない運命というのは存在している。
あくまで数値は可能性に過ぎず、一分の確率だけでも運が悪ければ人は死ぬ。
だからこそ、基本的に死亡確率というものは最低でも一厘程度は存在しているのだ。
突発的な可能性というものは、何処にでも付きまとってくるもの。
それを乗り越える事が出来るのは、よほど運に恵まれているのか、あるいはーーーー。
「……? どうしたんだい? そんな得体の知れないものを見るような目をして」
「いえ、随分と生きやすそうで羨ましい限りです」
「? そうかな?」
ーーーー死ぬ可能性を限りなく小さくする事が出来るほどの、超越した存在であるか。
(強い強いとは思っていましたけど…………正直、ドン引きです…………)
口にしたら拳骨を落とされるのが確定しているので、心の中で気持ちに整理をつける。
(そりゃ、これだけ自分に自信があるなら危険に対して鈍感になるかもしれませんけど…………ワタシをそれに巻き込むのはやめてほしいといいますか…………)
「じゃあ次だね、私が北門に行って死ぬ確率はどれくらいなのかな?」
話を進めようとするウェザー司教に促され、諦観半分でモーセは魔法を行使する。
「あっ…………えっと、一割を少し下回る位ですね…………」
「それは、どれくらい危険なのかな?」
「具体的には…………たぶん、慣れた人が少し危険な山に登る時くらい、ですかね…………」
「じゃあ、次で最後だ」
この意味があるかどうか分からない時間がようやく終わる事に、モーセはなんともいえない感情を込めたため息を吐き出す。
モーセは、いざとなったら一人で逃げ出す選択肢すら視野に入れていた。
彼女の魔法で出る数値は、時間変動によって結果が変わる。
それを駆使し、死ぬ確率が低い道を選んで逃げ続ければ、一人だけでも生き残る事が可能なのだ。
表面上は慌てていたとしても、モーセには余裕があった。
いや、慌てているのは本心からだったが、逃げ道がある事を確認した彼女は、精神的な支柱が存在しているのだ。
それを再確認して落ち着きを取り戻しつつあったモーセは、それゆえに。
ウェザー司教が口にした条件での確率を求めてから、絶句した。
「私が君を守る事を約束した上で、私と君が北門に向かった時に、君が死ぬ確率を求めてほしい」
「……………………えっ?」
モーセには、その数値がはっきりと見えていた。
ウェザー司教の提示した条件での死亡確率、一割の十分の一以下。
一人で逃げ出す時のどの可能性よりも低い、下手すれば日常生活を送っている時よりも小さい数値を見て、モーセは言葉を失ったのだ。
そんな彼女へ微笑みながら、ウェザー司教は尋ねた。
「いくつだった?」
そう、モーセは潜在的にウェザー司教と行動を共にした場合の可能性を排除していたのだ。
魔法という特別に選ばれた彼女は、とてもじゃないが普通とはいえない人生を送ってきている。
その過程で彼女は、他の人々が経験する事のない選択を、常に強いられてきた。
だからこそ、彼女は考慮していなかった。
誰かと共に生き残るという、選択肢を。
それを自覚した彼女は、手の中にある本でウェザー司教から顔を隠し、消え入るような声で言った。
「う、ウェザー司教よりは低い確率です…………」
「じゃあ、君の命を私に預けてくれ。何があっても守ると誓おう…………だから、君の魔法で私を…………いや、人々を導いてくれ」
「……………………はい」
ウェザー司教はモーセの返事に満足そうに頷くと、机の上に店への支払いを置き、席を立った。
モーセは歩き出したウェザー司教を慌てて追いかけると、その三歩後ろを歩く。
そして、司教の背中に向けて問いかけた。
「でも、どうしてわざわざ危険に飛び込むんですか? ワタシは、絶対に逃げたほうがいいと思うんですけど…………」
「シスター・モーセ。魔法というのはね、自分だけのために使うには過ぎた力なんだ」
自分が生き残るために魔法を使ってきたモーセは、その言葉にムッとした表情を見せる。
訳あって一年ほど前に聖教国に保護された身であるモーセは、国の教えを丸ごと信じているわけではない。
彼女には彼女の信念があり、生き方があり、これまでの経験則があるからだ。
直接的な力のない彼女にとって、自分の魔法は生命線でもある。
それを自分のために使用している事を、まるでいけない事のように言われて、気分を悪くしたのだ。
しかし、上司に面と向かって口答えするつもりもない。
しかし彼女は、ウェザー司教の次の言葉を、一生忘れることはなかった。
それだけ、彼女にとって鮮烈な思い出だったのだ。
「だからね、私はこの奇跡を…………人のために使うと決めたんだ。私が嘗て救われたように、今度は私が人々を救う…………シスター・モーセ、君の力は私のそれよりも、遥かに可能性に満ちている。自分のために使うのもいいだろう。しかし…………そう、ほんの少しだけでいい。視野を広げ、他の人々の事を考えられるようになってほしい。それがきっと…………君の後悔を忘れさせてくれるだろう」
「だけど今は子供らしく、私達の背中を見ていなさい。この戦いで私が道を示しましょう…………あとは君が選択するんだ。他でもない、君自身の生き方をね」
王都を襲う脅威に立ち向かうのは、王国の魔術師だけではない。
人間とは根本的に群れを成す生き物であり、それは国という枠組みだけに収まらない。
必要とあらば自ら戦いに身を投げ出し、人々を守る者がいる。
そう、この人物もそんな存在のうちの一人。
聖教国最高戦力、四大司教第一席。
「さぁいこう、誰かが救済を待っている」
その行く末、いつかの未来ではこう呼ばれている。
「嵐動王」、ウェザー・マリアと。
「やっぱり聖教国ってバカばっかり…………バカ、ほんとバカです」
その背中を見つめるのは、可能性の寵児。
幾つもの選択肢を乗り越え、その先にある何かを求める次世代の英雄。
「奇蹟王」、シスター・モーセ。
今は、ただの魔法使いのモーセ。
そんな二人の歩む道のりは、誰にも知られる事なく始まりを告げたのだ。
今回のファラオ'sキーワード
「確率魔法」
提示した条件を含めた上で、現実に起こりうる出来事に対して、それがどの程度の確率で発生するのかを数値で求める事のできる魔法。




