失意、嘆き、怒り
「今のは…………」
巨大な震動は一度では収まらず、その後も王都は断片的に揺れ続けていた。
しかし、それは最初のものと比べれば微弱であり、立っていられない程のものではない。
ホルスは自身とラムセスの体勢を整えると、この現象についての疑問を口にする。
それは思わず、といった様子の一言であり、彼女にとっては無意識のものだった。
しかし、その疑問に対して答えが返ってくる。
他でもない、サンリルオンによって。
「ふふ、ちょうど着いたみたいね。私…………最初は一人でおうさまに会う予定だったの。でも、おうさまったらこんなにも人の多い所に来ちゃっているじゃない? だからね、計画を前倒しにしてみんなに迎えに来てもらったの。お祭りだからって、他の国の人たちも来ているんでしょう? だから、折角だし…………ね?」
ホルスはそれを耳にすると同時に目を泳がせ、信じられないものを目の当たりにしたかのように動揺する。
サンリルオンが言ったことは、ホルスの知識にはない事だったのだ。
彼女の知る限りでは、ドッペルゲンガーの魔人に仲間などいなかった。
力も弱く、しかし人間を一人殺す事は出来る程度で。
ラムセスと出会ったのも、ただの偶然であるはずだった。
その筈だったのだ。
しかし、現実はどうだろうか。
明らかに向上している魔人の力。
ラムセスがどのような人物なのかを、以前から知っていたかのような口ぶり。
そして、「みんな」と「計画」という不穏な言葉。
ホルスはここにきて、自分が思い違いをしていた事に気がついた。
此処は、ホルスの知っている未来ではないと。
彼女はようやく、それを悟った。
恐怖に体が震え、失意に涙が流れる。
歯はガチガチと音を鳴らし、瞳の焦点が目の前を映さない。
ホルスは、現実に敗北したのだ。
そんなホルスとは逆に、ラムセスは冷静さを取り戻していた。
彼女が自分以上に動揺しているのを目撃したことで、精神の立て直しに成功したのだ。
ベンニーアの事も気になるが、まずは目の前の魔人をどうにかして対処しなければならない。
魔術師としての力量が頼りになるホルスは、異常なほどに何かに怯えている。
ならば、自分が。
そう思ったラムセスは崩れかけた精神を持ち直すとその場に立ち上がり、一歩前に出てホルスを背に庇う。
「あっ……………………」
ホルスが何かを口にしたが、ラムセスに後ろを振り返る余裕はなかった。
嬉しそうに笑うサンリルオンを見据え、会話を試みる。
タイミングよく訪れた地震とサンリルオンの口にした内容を擦り合わせれば、何が起きているのかは凡そ察しがつくものだ。
それはあくまでラムセスの推測であり、事実であるかは定かではない。
ならば、まずは情報を手に入れなければ。
ラムセスたちの現状が恐ろしく不利に傾いている事は、他でもないラムセス自身が痛いほど理解していた。
サンリルオンの襲撃、ベンニーアの魔人化、王都を襲う巨大な衝撃。
何もかもが後手に回ってしまっているのは、明白だった。
しかもそれは恐らく、ラムセスが想像しているよりもずっと前から建てられていた、集団的かつ計画的な犯行なのだろう。
今回の事件の背後には、何か大きな意図が存在している。
大切なのは、全貌とは言わないまでも、その一端にでも触れること。
それを強く意識し、ラムセスは問いかけた。
「サンリルオン…………この揺れは、君の仲間が原因って事でいいのかな?」
「たぶん、そうじゃないかな? こんなに分かりやすいものだと、多分ラヒリちゃんかなー? 私と仲がいいの、あとでおうさまにも紹介してあげるね? …………私たちの、仲間になった後で、だけど」
「それは遠慮させてもらおうかな。僕はまだまだやるべき事があるからね、君たちの思い通りになる訳にはいかないんだ」
「ふーん? まぁ、いいよ。照れ屋さんなおうさまは、私がしっかり導いてあげるからね」
その時を想像したのか、サンリルオンは恍惚とした表情で唇を舐める。
それは毒のような色気すら纏っていて、ラムセスは思わず顔を顰めた。
その瞬間、今まで何も反応を示さなかったベンニーアが口を動かした。
「…………ぁ」
「え? どうしたのバンシーちゃん…………うん、うん? うーん、まぁ…………いいかな?」
拘束輪で口を塞がれているため、その言葉は喘ぎ声となって空気に溶けていく。
サンリルオンはベンニーアの意図を理解したのか、僅かに思案したのちに、彼女の提案を承諾する。
ラムセスは動かない。
どのように状況が変化するとしても、警戒を解くわけにはいかないのだ。
下手な行動が最悪の結果へと繋がることを、彼は危惧していた。
そして同時に、覚悟を決めていた。
たとえ、相手が知人であったとしても。
魔人になってしまったのならば、倒さねばならない。
それを躊躇うわけにはいかなかった。
何故ならばサンリルオンの言葉を信用する限り、この顚末の原因はラムセスに存在しているのだから。
その結果起きた出来事に対して、ラムセスは責任を果たさなければならない。
貴族として、魔術師として。
そして未来のファラオとして。
此処から逃げ出すことはできない。
サンリルオンがベンニーアの口元に手を当て、その拘束輪を取り外す。
ベンニーアは調子を確かめるように口を閉じては開き、口内の渇きを消す。
サンリルオンはそんなベンニーアの頬を垂れる唾液を、自らの舌で舐めとる。
その行為にも動じず、ベンニーアは目隠しによって遮られた視線をラムセスへと向けると、再度口を開いた。
何を言われるのか、全く想像がつかない。
恨み言か、糾弾か、それともーーーー。
ラムセスはその場で身構え、神経を研ぎ澄ました。
そして、ベンニーアが言葉を吐き出す。
赤く光りを放つ、炎とともに。
『寂しい』
「嘆きの罰火」とは、生前口にすることが出来なかった未練を譫言のように繰り返す魔物だ。
炎で出来た肉体を持ち、同じ言葉を吐き出すことで生者の同情を誘う。
そして命あるものに抱きつくと、自分ごと相手を燃やし尽くして殺害する。性質の悪い存在でもある。
ベンニーアには、自分の父親に言いたいことが沢山あった。
悲しい、寂しい、褒めてほしい。
もっと自分を、見てほしい。
それは本来ならば全て、あの日に伝えられるはずの言葉だった。
ラムセスとの決闘に負けたベンニーアを、その父親が慰める。
そして彼女は胸の内に秘めた思いを告げ、一歩前へと進む。
そうなる筈だった。
サンリルオンという魔人に目をつけられ、その命と姿を奪われることさえなければ。
今のベンニーアは魔人であり、そんな感情を抱いていた事すら、なんとも思っていない。
それでも、その性質ゆえに。
口にしなければ気が済まないのだ。
なんで、どうして。
わたしがこんなにも、苦しまなければならないのかと。
それこそが、「嘆きの罰火」という魔物。
苦しい思いが、悲しい記憶が。
彼女を、そして生きる人々を苦しめる。
ベンニーアは言葉を吐き出す。
どうにもならない未来を、どうにも出来なかった過去を恨んで。
そしてそれが、新しい魔物となった。
「ね? ね? ベンニーアちゃん、凄いでしょ? こんなに沢山の魔物を産み出せるなんて…………やっぱり、才能だよね! 私の見立ては間違ってなかったよ!!」
ベンニーアが口にした言葉は、瞬く間に燃え上がり、人型を作り出す。
その炎はまるで少女のような姿を見せると、その顔を悲痛に染めて周囲へと飛び出す。
それを見て、ラムセスは呆然とする。
魔物が生まれたことに対してではない。
それ自体はさほど驚く事ではない。
ただ、その言葉があまりにも苦痛に塗れていたからーーーー。
『苦しい』『死にたくない』『助けて』『お父さま』『どうして?』『どうして』『痛いよ』『熱い』『あの子さえいなければ』『わたしは何の為に』『なんでこんなに』『やめて』『痛い』『みないで』『わたしをみて』『勝たないと』『勝たないと』『強くならないと』『勝たないと』
『殺さないと』
『殺さないと』『殺さないと』『誰を』『弟を』『お父さまを』『誰を』『どうして』『愛してよ』『なんでわたしを』『わたしが』『みないで』『殺して』『殺さないと』『お願いだから』
『ーーーーわたしを、愛して』
その一つ一つが、魔物となって周囲に飛びたつ。
命令を待ち、他者の命を奪う為に彷徨い続ける。
それは救いを求めているようでーーーー。
ラムセスは激昂した。
「サンリルオン!! 君は…………貴様は!! その子に何をした!? どうやってこんな…………こんな!!」
「むー、そんなに怒らないでよ。私はちょーっとだけ素直になれるように、手伝ってあげただけだもの。これはこの子が元々押さえつけていた感情、それを口にできるようにしてあげたんだから……………………感謝してほしいくらいだよ」
「ーーーーふざけるな!!」
ラムセスは魔人という存在を甘くみていた。
彼らも、元を辿れば人間。
歪んだ願望や、捻れた精神。
人を殺す以上、人類の敵であることは間違いない。
しかし、どうあればここまで非道な事ができるのか。
ベンニーアの嘆きが、その助けを求める声が、ラムセスの心を揺れ動かす。
どれだけ酷い最期を迎えれば、ここまで人は苦しむ事が出来るのだろうか。
そしてどこまで堕ちれば、それを笑って眺める事が出来るというのか。
サンリルオンという魔人は、どれだけ彼女を苦しめれば気が済むのだろうか。
ラムセスは怒りに身を任せ、魔術を行使した。
いくつもの熱源が発生し、彼の周囲を埋め尽くす。
サンリルオンとベンニーア、そして闘技場を埋め尽くすほどの魔物の大群。
それらの脅威を前にして、ラムセスは全く引くつもりはなかった。
むしろ、今までの人生の中で最も戦意に溢れていた。
死は苦しみであってはならない。
誰もが自分の人生に心満たされ、不安を抱く事なく今を生きてほしい。
そんな思想を持つラムセスにとって、サンリルオンは許されざる存在となった。
ベンニーアを苦しめた上で殺し、その魂を魔に堕とし、死後を好き勝手に利用している彼女だけは、どうしても許す事ができない。
『王都に襲撃が行われました。市民の皆さんは取り乱さず、速やかに室内への避難をお願いします。繰り返します。王都に襲撃がーーーー』
魔術によって、王都全域に避難警報が出される。
王都に在中している魔術師団が、事態に対応を始めたのだ。
しかし、それがラムセスの助けになるかは分からない。
サンリルオンが自信満々に主張していた以上、襲撃してきている敵戦力はかなりのものであるはずなのだから。
そして、その声が戦闘開始の合図となった。
避難を促されているのは、市民のみ。
すなわち、貴族は立ち向かわなければならないのだ。
王国を襲う、脅威に対して。
それはラムセスも同じ事。
この悪意の顕現を、人の命を弄ぶ魔人を。
彼は命がけで、打倒するつもりだった。
「みんなが邪魔している間は、ここへは誰も訪れないわ。大人しく私たちに降伏してくれれば、彼女みたいな最期にならなくてすむのよ?」
「囀るなよ外道、ファラオの神威を見せてくれる…………貴様はここで滅べ、余が許す!!」
「その口調、凄くいいわ! 傲慢で、勇敢で…………そして、とても愚かなおうさま!! 私があなたの願いを叶えてあげる!! 永遠に消えることのない私の中で、永遠に輝き続けるの!!」
「『殺す』」
一人の魔術師と、二人の魔人。
その衝突する瞬間を眺めながら、そっと。
ホルスは一人、涙を流した。




