第一の従者 バステト
「いいかい、魔術というのはね…………」
ラムセスはバステトに魔術を教えていた。
バステトがオリシス家にやって来てから、既に一ヶ月。
ラムセスは教育というものの難しさを感じていた。
そもそも、人に何かを教えるということは、自分がその物事に対して充分な知識を有している必要がある。
ラムセスはファラオになるための努力を欠かさなかったとはいえ、未だ七歳。
常識的に考えれば、単純に時間が足りていない。
しかし、思い込みの力とは素晴らしいものだった。
自分をファラオだと信じて疑わない彼は、貴族として求められる能力を高水準で修めている。
勿論、理路整然と説明する事だって得意だった。
だが、種族の壁はあまりにも大きかった。
獣人と人間の使う言語が、そもそも別だったのだ。
初めて出会った時にバステトが少しだけ言葉を喋っていたが、それは他の奴隷が言っていた言葉を覚えたにすぎない。
よって、ラムセスはまず人間の言葉を教えることから始めた。
特定のものを示して、その名称を言う。
相手がそれを復唱したら、頭を撫でる。
そんな極めて原始的な方法から始めていた。
将来のファラオであるラムセスをもってして、言語の壁は難敵だった。
言葉と、一般的な常識を覚えさせるだけで、この一ヶ月が終わってしまったのだ。
そして今、漸く他の分野にも手を広げている最中である。
まずはバステトが護衛もこなせる様に、魔術を教える。
ラムセスが元いた地球とは違って、この世界には魔術が存在していた。
大気中に存在する魔力と呼ばれる元素と、生命が有している魂のエネルギー。
その運用を理論立て、学問として成立させたのが魔術だ。
昔は呪いと呼ばれ、その方法ももっとずっと感覚的であったらしい。
それを、今の王家の祖先である黒髪の英雄が纏めたのだ。
ラムセスは、この歴史に時々現れる「黒髪の英雄」はファラオなのではないかと睨んでいた。
いつの時代も、歴史の転機や、何かしらの文明が進歩した時には、必ず「黒髪の英雄」が姿を見せるのだ。
きっと、自分も彼らのように。
王家の傍流である証明の黒髪を弄りながら、そう考えることも多い。
何はともあれ、魔術だ。
これは大別して四つの属性に分類されている。
即ち火、水、風、土の四つだ。
地球でも、昔から四大元素と呼ばれているため、ラムセスも馴染みやすい。
彼が前世に経験したゲームや漫画でも、割と一般的だった。
これは人によって、その得手不得手が決まっている。
原則として、一人につき一つの属性が向いているとされている。
しかし、ラムセスはこのうち二つの属性を得意としていた。
太陽神の化身である事を連想させる火は勿論、血筋から受け継いだ水の属性にも適性があるのだ。
得意な属性は遺伝する。
両親は共に水属性を得意としているため、それが得意なのは納得だった。
しかし火属性が得意というのは、遠い先祖まで遡っても、一人しか存在しない。
そう、「黒髪の英雄」だ。
ラムセスはこの運命を、偶然とは思っていなかった。
間違いない、自分はファラオになるべく生まれてきたのだ。
自分の得意な属性が分かった時、ラムセスはまた一歩、その確信を深めた。
「ラムセス様…………すこし休憩させてください、にゃ」
「ん? あぁ、もうこんなに時間が経っていたのか。じゃあ、少しだけ休憩を取ろうか」
言葉を覚えたバステトは、カタコト口調ではなくなったものの、何故か語尾に「にゃ」と付ける癖が出来ていた。
ラムセスは心の底から不思議に思っていたが、これも個性であろうと特に気にすることはなかった。
寧ろ、見ていて面白いと思っていた。
考え事をしながら勉強を進めていたのだが、余程集中していたのか、既に勉強開始から三時間が経過していた。
ラムセスはバステトを見る。
バステトは何か言いたげにラムセスの方をチラチラ見ていた。
いつものかな、そう思ったラムセスは「おいで」と両腕を開く。
バステトは隣に座るラムセスの膝へ向かって、頭を下ろした。
ゴロゴロと喉を鳴らしながらラムセスに甘えるバステトの頭を、ラムセスは撫でる。
いつからか、バステトの勉強がひと段落した後は、こうして彼女の事を撫でるのが、ラムセスの日課になっていた。
奴隷に対する態度ではないが、ラムセスは「まぁこんなもので満足するのなら」と思い、受け入れている。
初対面の時に撫でられた事が忘れられないらしく、バステトはよくこうしてラムセスに甘えた。
実質ペットみたいなものだし、飴と鞭を使い分けよう。出来る上司というものは、部下の要求をコントロールしてこそなのだ。
ラムセスはバステトを撫でながら、そんな事を考えていた。
なお、ラムセスは今この瞬間も上半身裸である。
バステトはラムセスの剥き出しのお腹へ顔を押し付け、匂いを嗅いでいた。
ファラオたるもの、体臭にも気をつけているラムセスは、濃度の薄い香水を使用している。
今のラムセスからは、薄っすらとシナモンの香りがしているだろう。
バステトは、この香りとラムセスの体臭が混ざった匂いを好んだ。
嗅覚が優れている獣人にとって、香辛料は本来劇薬である。
しかし、このバステトはそんなそぶりを一切見せることはなかった。
寧ろ、そういった匂いを好んでいる節さえある。
それは今のバステトの醜態を見れば、容易に理解できるだろう。
バステトは、匂いフェチなのだ。
バステトは最初こそラムセスを警戒していた。
しかし、人間に捕まって奴隷として生きていかなければならなかった日々と比べると、オリシス家での暮らしは天国のようなものだった。
ラムセスが丁寧に扱うように告げたことにより、バステトは「公爵家長男の所有物」としての立場を手に入れたのだ。
そして、右も左も分からなかったバステトに、知恵と言葉を授けてくれた。
そのラムセスはというと、どうやらバステトが優秀な従者になる事を望んでいるらしい。
バステトは自ら積極的に学習に取り組むようになった。
ラムセスはこれを、条件付けと依存による洗脳だと思っている。
しかし、教育というものは元々洗脳である。
信頼の置ける従者として、ファラオの側仕えにしよう。
ラムセスはそう思っていた。
「じゃあ、そろそろ再開しようか」
「はいです、にゃ」
ラムセスとバステトの勉強会はまだまだ続く。
そして魔術がある程度形になったら、今度は別の学問を教え始めるのだろう。
それを、快く思っていない人物たちがいたのだ。
ラムセスの一つ歳下の双子である。
その名を、アトムとアンナ。
弟なのがアトム、妹なのがアンナだ。
双子は偉大な兄の事を尊敬している。
兄に向ける視線が、二人揃って怪しげであるというのは、父レムリットの意見だ。
アトムとアンナは、幼い頃からラムセスの背を見て育った。
ファラオを目指しているだけあって、ラムセスは優秀である。
それでいて傲慢になる事はなく、家族に愛情を向け、誰に対しても慈悲深い。
双子は、そんな兄の事を心の底から敬愛していた。
いつもラムセスの事を遠くから見つめているくらいである。
ラムセスは特に疑問に思っていないが、地球では双子のような存在をストーカーと呼んでいる。
そして、その敬愛する兄に、最近泥棒猫が付きまとい始めた。
あの奴隷が来てから、兄はずっと獣人の相手をしている。
しかも羨ましいことに、兄に勉強を見てもらっている上、抱きついて撫でられているではないか。
少し前まではそこは自分たちの居場所だったのに。
双子は揃ってハンカチを噛み締めていた。
はしたない真似なので、あくまで喩えだが。
「ねぇねぇアトム。あの猫、頭が高くない? もっとお兄様を尊敬して一歩離れたところから遠慮して接するべきじゃない?」
「アンナ、あの奴隷……太陽よりも頭が高いと思う。僕たちですらあんな風に甘えさせてもらったこと、殆どないのに」
「ああっ! あの猫、兄様の匂いを嗅いでるわ! なんてはしたない! 羨ましい!」
「僕たちだって兄様に面と向かって抱きついたこと、殆どないのに。羨ましい」
そう言っている双子だが、ラムセスの前では両方シャイな性格をしているため、殆ど甘えた事がない。
同じ部屋に長時間一緒に居られるほど精神が強くないので、勉強を教えてもらった事もないのだ。
それを、突然現れた奴隷が独り占めしている。
公爵家の子息であり、ラムセスの兄弟であるこの双子は、特に差別意識などは持っていない。
立場が上だからと言って他者を見下したりもしない。
それは、尊敬する兄がそうしているからだ。
だがそんな二人も、あの奴隷だけは見逃すわけにはいかなかった。
かくなる上は。
「アトム、私いい事考えたの。耳を貸して」
「ふむふむ…………ええっ! それはちょっと…………いや、かなり大胆だよ!」
「でも、お兄様に私たちを見てもらうためには、こうするのが一番よ。あの泥棒猫だけに、いい思いはさせないわ」
「…………分かったよアンナ。今夜決行だ!」
そんな二人の不穏な会話をよそに、ラムセスとバステトの勉強は続く。
事件が起きたのは、その日の夜の事だった。
今回のファラオ'sキーワード
「シナモン」
古代エジプトは香辛料が栄えていた。
有名であるミイラ作りの際にも、死体を保存するために防腐剤として香辛料が使われていたのだ。
シナモンはその代表的な例である。