Undoing,the『World's』
瞳を閉じれば思い出す。
あの人のことを、誰よりも弱かった母のことを。
『ホルス、もっと近くで顔を見せてください』
『はい、お母さま』
ホルスは、自分が夢を見ている事を自覚した。
質素ながらも清潔感に満ちた部屋。
壁に埋め込まれた本棚と、溢れるほどの書物。
煌びやかな調度品と、部屋の中心に配置された魔法陣。
部屋の端に置かれたキングサイズのベッドと、そこに横たわる白髪の少女。
その側に控える自分。
彼女にとっては過去の出来事で、そして今となっては遥か未来の光景だった。
今よりも一回り若い…………いや、幼いホルスは、少女に顔を近づける。
白髪の少女はその頬に手を当て、力無く微笑んだ。
その様子を、今のホルスは壁際から眺めていた。
元々その少女は体が弱く、本当ならこのような場所にいるべきではない。
それなのに、ホルスという存在を匿うため沢山の人々の協力を得て、側仕えも連れずにここへと逃げ出してきた。
誰よりも戦うための力を持たず、それでも人々から生き延びる事を望まれ、自らの役目に向き合ってきたその姿勢の、なんと強く気高い事だろうか。
在りし日の二人の姿を、ただ静かに眺める。
これは、旅立ちの前の光景。
『ホルス、時代の創り出した寵児よ。あなた一人に全てを任せること、本当に申し訳なく思っています…………しかし、これはあなたにしか出来ない事。身勝手な私たちを許してください』
『いえ、わたしは嬉しいです。お母さまの役に立てること、お父さまのために生きれることが』
少女はいつも謝罪していた。
責任ある者として、人の上に立つ者としての力を持たなかった彼女は、それでもその心だけは高潔であり続けた。
だからこそ彼女はいつも己の無力を嘆き、そして力がありながら何も出来なかった自分達を責め続けていた。
哀しい人だった。
だからこそ、戦う事なく生き残れた。
生き残ってしまった。
彼女は先に死んでいった人々に申し訳ない気持ちを抱いていた。
なぜ、自分のような無能が生き残ってしまったのか。
いつもそうやって頭を悩ませていた。
『あぁ、ホルス…………ごめんなさい。本当は…………私たち大人がなんとかするべきだったのに…………私が、私があの人の支えになれていれば、こんな事態にならなくてすんだかもしれないのに…………』
記憶の中の彼女は、言葉の最中に口を詰まらせ、さめざめと泣きだす。
彼女の言っていることは事実だったが、間違ってもいた。
人類は滅亡の危機に晒されている。
しかし、それは何も彼女一人の責任ではない。
いうなれば、無責任に生き続けた全ての人々にこそ、責任があるのだ。
彼を、ファラオを止めることができず…………『不死王』へと変えてしまったことへの責任が。
その侵略を止めることができず、結果として国を滅ぼしてしまった責任が。
『ホルス、聞いてください』
『はい』
幼きホルスが差し出した布で涙を拭いた少女は、その瞳に決意の色を乗せ、ホルスを見つめた。
ホルスは覚悟を決めていた。
これからただ一人、孤独な戦いに挑んでいくことへの覚悟を。
『この時代は、沢山の英雄が存在していました…………そしてあの人は、その中でも最も優れた力を持ちながら……誰よりも運命に恵まれず、別離に愛されてしまった』
それは今まで何度も聞いた話だった。
この少女から、彼に関わった様々な人々から。
そして、僅かな時間だけでも共に過ごし、父と呼び慕った彼自身からも。
『あの人が一歳の時、彼は自分の母親と、そのお腹の中にいた双子の胎児と永遠に会えなくなってしまいました。力ある魔人の手によって、その命を奪われてしまったのです』
それは、とある男の一生についての話。
誰よりも優れていながら、不幸と悪意と巡りの悪さによって、全てを手からこぼしていった彼の物語。
『七歳の時には…………魔物討伐の際、自分から求めた初めての側近の命を目の前で奪われ…………』
本人から何回も聞いたことだった。
彼が最も悲痛な顔を見せ、何度も何度も後悔した出来事だった。
未熟ゆえの、油断と慢心からの誤ちだったと。
自分があの時死ぬべきだったのだと。
彼は誰にも見せた事のない心の弱さを、ホルスにだけは打ち明けていた。
その話を聞くたびに、ホルスはどうして自分が彼の従者でなかったのかを嘆いた。
自分だったら、絶対に彼にそんな顔をさせないと誓えるというのに。
ホルスは産まれた時間の壁という運命の隔たりが、何より憎らしかった。
『八歳の時、将来切磋琢磨して歩んでいくはずだった貴族の子供と、当時婚約関係にあったネフェリ王女を殺され…………』
王国を襲った、魔人の暗躍による最低最悪の事件。
彼という存在を目的に行われたその蛮行は、あらゆる犠牲を出しながらも、彼を殺す事は無かった。
彼を庇って倒れた王女の命を、代わりに奪って行く事によって。
彼は時折、その事についても話していた。
せめて、彼女の好意を正直に受け取っていたならば、と。
彼を庇い、沢山の血を流しながらも微笑んでいた王女の顔が、忘れられないのだと。
ホルスはその話を聞くたびに、怒りを抑えられなかった。
死してなお彼の心を縛る、その少女に。
その時彼の側に仕え、共に戦う事の出来なかった自分自身に。
ホルスは遣る瀬無い気持ちで潰れてしまいそうだった。
『九歳の時には苦しむ領民達を救う事ができず…………その後も不幸は続き、幼い頃から立て続けに『死』を目撃してきました』
そう、これはあくまで一例に過ぎない。
彼はあらゆる試練に立ち会いながらも、生き延びて勝利してきた。
そして人々は、その度に彼の事を褒め称え、賞賛を贈った。
彼が代償として何を失い、どれだけ苦しんでいたのかを知る気もないくせに。
ホルスはそんな有象無象が、何より嫌いだった。
身勝手な期待によって彼の心を追い詰めた、そんな人々が。
少しも彼の事を理解しようとしなかった、愚かな者どもが。
『存じております』
そう、この少女ですら知らない彼の後悔を、ホルスは知っているのだ。
記憶の無い放浪者だった自分を拾い、愛情を持って接してくれた彼。
自分にだけはその心中を語ってくれた彼のことを奪った世界を、ホルスは許せない。
『魔人の襲撃によって相応の被害を受けていた王国は、あの人を…………次世代を導く者として据えるために、私を宛てがいました。あの人は私を…………隣人を失う事を恐れ、私を愛する事を拒みましたが…………それでも私はあの人の孤独を埋められれば、その心の傷を癒してあげられればと…………ただ、それだけが望みでした…………無能な私には、それすら…………出来ませんでした』
『お母さまは、無能なんかではーーーー』
ホルスは少女の言葉を止めようとした。
どこの馬の骨と知れないホルスを、自分の子供のように愛してくれた少女が、自分自身を責めるのを、ホルスは聞きたくなかった。
彼の心の虚無に、唯一気がついていた少女。
自分がその席に居たならば。
そう思わなかったといえば、嘘になる。
それでもホルスは、少女の事を母親として愛していた。
誰よりも誠実に彼と向き合おうとし、報われなくとも献身をやめなかった彼女の事を、尊敬すらしていた。
『無能だったのです! 一人では何もできず! 自らの足で歩くことすらできず! 唯一……彼の助けになれるはずだったこの力ですら、全てが終わった後に目覚めました! ……………………一番近くにいながら、何も出来なかった…………あの人の心の中には、いつだって彼を置いていった人達の居場所しかなかった…………私は、私はそれが悲しくて…………悔しくて…………』
『お母さま…………』
ホルスは何も言うことができなかった。
その無力感に苛まれているのは、ホルスも同じだったからだ。
ホルスは、自分のことを優秀だと思っているわけではない。
この乱世に産まれた王、英雄、勇者たち。
彼らと比べたならば、一歩どころか数歩劣るということを、ホルスは自覚していた。
しかし、それはこの時の話。
今のホルスには、彼を救う手段と、そのための力がある。
魔法。
世界の破滅を防ぐために、世界の意思が直接与えてきた、救済のための力。
しかしそれは、彼がホルスの目の前から居なくなった後に手に入れた力。
何もかもが遅かった。
『不死王』という脅威が産まれ落ちて、初めて世界はその力を貸そうとしたのだ。
彼を助けようとは、しなかったというのに。
ホルスはこの力が嫌いだった。
それでも、頼るしかなかった。
たとえ、それが彼との思い出を無かったことにしてしまうとしても。
時のらせんの彼方に置き去りにしてしまうとしても。
自分の歩んできた道を、否定することになっても。
『…………怒鳴ってごめんなさい、ホルス。私たちの希望よ…………あなたには教えるべき事、やるべき事を全て伝えました…………あの人のため、そして世界を救うため…………どうか、よろしくお願いします』
『任せてください! お父さまがわたしを助けてくれたように、今度はわたしがお父さまの力になります!』
本心からの言葉だった。
生き残った人類が稼いだ時間の中で、ホルスと少女は入念な計算と推測を繰り返し、一つの答えを見つけ出した。
それは少女の持つ『覚醒魔法』によって、ホルスの『時空魔法』の力を暴走させ、彼の生きていた時代に渡り、歴史を変えること。
幾つもの転換期を乗り越え、彼が正しく成長する未来を創り出すこと。
すなわち、『運命再編』。
それこそがホルスの使命。
最大の目的にして、生きる意味。
『余は…………いや、僕はね……ファラオになりたかったんだ。他の誰でもない、自分のために。誰かを導き、その行く末を照らすための…………理想の王になりたかったんだ。結局、本当に救いたい人は……みんな死んでしまったのにね』
彼はホルスにそう語った。
寂しそうに、懐かしむように。
だからホルスは言ったのだ。
あなたは自分のことを救ってくれたと。
こうして導き、道を示してくれていると。
自分は、生きていると。
それを聞いた彼は、力なく笑ってから、ホルスを抱きすくめた。
そして、ホルスに聞こえるギリギリの声で、呟いた。
『だから、取り戻すんだ』
「そう、私が取り戻す。あの人の…………ファラオの、お父さまの栄光を、幸福な人生を…………そして、その夢を」
記憶の中の思い出を見つめながら、大人になったホルスは夢の中でそう呟いた。
今のホルスには、力も、地位も、そして何よりも、時間がある。
かつてのホルスと少女のいる部屋に、慌ただしく人が入ってくる。
それは嘗て少女に仕えていた、今は世界の情報を集めていたはずの、一人の従者。
『急報です! 三国連合が彼の王と相対し、敗北! 「統率王」バベル様は戦死! 「怒涛王」アヌビス様は行方知れず! 「未来王」マフデト様と「奇蹟王」モーセ様は魔物化を免れるために自害! また、『不死王』の軍はこちーーーー』
その従者の声は、そこで途絶えた。
背後から現れた襲撃者によって首を刎ねられ、その命を終えたからだ。
襲撃者は二人。
どちらも同じ見た目をしており、そしてその瞳には理性の色が残っていた。
『お妃様、お迎えに参りました。我らが王は貴女の命をご所望です』
そういうとその場に跪き、頭を下げる。
その頭部は人のものに非ず、まるで獣人のようでありながら、その実全くの別物。
『不死王』は自身が魔人となってから、とある能力を身につけた。
それは、『自身が殺した相手を強制的に魔物へと変える』という、悍ましい力。
彼はその力を活用して自らの配下を増やし、人々を恐怖で支配した。
彼の元に残された人々は『試練』と呼ばれる様々な儀式を受け、その実力を伸ばしてから命を奪われる。
力のある者が死ぬ時、強力な魔物が産まれる。
そしてそれは、魔人という存在へと進化するのだ。
その過程を経て、意図的に創り出された魔人が、この獣の頭部を持つ者。
その名を『従者』。
『あの人は…………私の命を欲しいと、そう言ったのですね?』
震える声で、少女がそう質問した。
二人の『従者』は顔を伏せたまま頷くことで、その答えとする。
『あぁ…………なんということでしょうか。私は今、喜んでいるのですか? あのような姿になってしまった彼に求められていることを、それでもいいと思ってしまっているのですか…………?』
『お母さま…………』
震えは、歓喜からだった。
生前の彼に避けられていた少女は、もう別人になってしまったとしても、求められる事が嬉しくて仕方がなかったのだ。
『ホルス…………後は任せましたよ? きっと次の私も、私と同じように無能なのでしょう。世界に力を与えられなかった頃の私は、ただそこにいるだけでした…………きっと、それは変わらないのです』
『お妃様? いったいなにを…………』
魔人は訝しみながらも、顔を上げる。
理性のない魔物と違い、魔人は人間と同じように思考能力を持ち、話をする事ができる。
その知能が、不穏な何かを感じ取ったのだ。
『あなたが魔法を使った事によって、次の世界のあなたは存在ごと抹消されるでしょう。あの人の拾い子として進む運命も、きっとなくなってしまう…………それでも、それでもいいというのならば!』
少女が魔法を発動し、ホルスを全能感が満たした。
『いきなさい!! あなたが未来を変えるのです!! この間違ってしまった世界を救い、あの人の事を導くのです!! 他でもない、あなたが!!!』
ホルスは滝のような汗をかきながら、目を覚ました。
そこは王都アリストクラット。
その貴族街に存在する、オリシス家の持つ別荘の一室。
ホルスは気怠さに包まれながら、部屋を出た。
貴族街の屋敷らしく、この建物には浴槽が用意されている。
ホルスはそこを目指した。
朝から贅沢な話だか、少しだけ汗を流したくなったのだ。
廊下を進み、目的の場所へと目指す。
その途中で、ラムセスの寝室を通り過ぎる。
いや、通り過ぎる事なく、扉の前で立ち止まる。
彼女は突然、ラムセスの顔を見たくなった。
かつて父と慕った男の寝顔は、子供の姿であっても変わらないままだったから。
音を立てないように、ゆっくりと扉を開く。
そこには、寄り添って眠るラムセスとバステトの姿があった。
バステトはどこかで手に入れたのか、やけに透けているネグリジェを身につけている。
ラムセスは半裸だ。
これが数年後だったら、きっと過ちが起きていたのだろう。
それこそがきっと、彼の幸福であり、彼が望んだ未来なのだ。
だから、ホルスはそれだけで満足だった。
たとえ、ラムセスが何も知らず、自分の事を嘗てのように愛してくれなくとも。
彼が幸せでいてくれるならば、それだけでいい。
だけど、どうしてだろうか。
ホルスは自分に問いかけた。
本当にそれで良いのかと。
自分も愛してもらえなくて、本当に良いのかと。
ホルスはその場を後にした。
彼女の頬を伝っていった涙は、誰にも知られることなく消えていく。
ホルスはきっとこう言うのだろう。
汗が流れただけなのだ、と。
「Undoing」
意味:やり直し・破滅




