番外編一 ヒエログリフを書こう
「うーん、難しいなぁ」
「ラムセス様、何をしているんですか、にゃ?」
初めての魔物討伐から、一ヶ月が経っていた。
いつも通りに勉強をこなし、訓練を済ませたラムセスは、自分の部屋で机に張り付いていた。
勿論、今日もその美しい腹筋は晒されたままである。
冷たい飲み物を持ってきたバステトが、ラムセスの背後から机の上を覗き込む。
机の上に置かれている紙を見て、バステトは感嘆のため息を漏らした。
「わぁ〜……これは、猫ですか? にゃ」
「うん、中々うまく書けなくて…………」
「え? とてもお上手です、よ? このまま屋敷に飾ってもいいと思います、にゃ」
そう、それは奴隷であるバステトから見ても、中々のレベルの絵画だった。
オリシス家にきて以来、バステトは毎日勉強漬けになっている。
それは自分が無学を晒し、ご主人様であるラムセスに恥をかかせないため。
そして、将来ラムセスの隣に立ち、自分の力を最大限彼の役に立てるためだ。
そんなバステトは、最近芸術関係も学び始めている。
それは、自らの土属性魔術の造型センスを磨き、ラムセスを喜ばせるため。
そのバステトは、様々な絵画に目を通しているため、目が肥え始めている。
そんなバステトが賞賛するほどに、その絵は見事なのだ。
芸術家としても生きていける、そう確信させるほどに。
だが、当のラムセスは納得がいかないのか、絵を目の前にして云々と唸っている。
バステトは不思議に思い、何が気に入らないのかを訪ねた。
「いや、本当は文字を書こうと思っていたんだ。でも、気がついたらこうなってて…………」
「えっ」
「ん?」
「…………えっ?」
バステトは意味が分からなかった。
目の前の紙に描かれているのは、どう見ても猫の絵だ。
毛の一本一本に至るまで、丁寧に描写されており、その様は生命すら感じさせる。
もう一度いうが、どう見ても猫の絵だ。
バステトは混乱した。
聡明にして思慮深く、全てを見抜く自分の主人が、猫の絵を指して文字と言ったのだ。
もしかしたら、自分の聞き間違いかもしれない。
もしくは、自分が無知なのかもしれない。
そう思いながら、バステトはもう一度、ラムセスへと訪ねた。
これは、何を描こうとしたのですか? と。
「うん、実は神話を書き残そうと思ってね」
「神話…………って、なんですか、にゃ?」
「あっ、そこからか…………えっとね、うーん…………なんて説明すればいいかな。この世界の誰も知らない、世界の真実、かな?」
「ほえぇ…………凄いです、そんな事も分かるなんて。流石です、にゃ」
「うん、ありがとう」
心からの賛辞を受け取り、ラムセスは頬を薄っすらと赤らめ、指で掻いた。
基本的にラムセスは、褒められることを好んでいる。
ファラオたるもの、この程度は当然。
そう思っていても、他の者から認められることが、たまらなく嬉しいのだ。
ラムセスは気分が乗ってきたのか、そのまま続ける。
「それで、そんな神秘的で、偉大で、大切な事を書き残す訳だから、やっぱりそれ相応の残し方があると思ってね。新しい言語を作ろうと思ったんだ、そう…………名付けるならば、「神聖文字」かな」
「なるほど…………つまり、選ばれし者にのみ、その真実を伝えよう。そういう事ですか、にゃ?」
「だいたいそんな感じかな。で、その肝心の言語を書こうと思って、こうやって紙に向かって見たんだけど…………」
「それで、この絵はなんの関係があるんですか、にゃ?」
「…………もっと、こう。記号的なものにしようとしたんだ。そしたら、こんな絵になっちゃって…………」
「え?」
「うん、絵になっちゃったんだ」
「…………え?」
バステトは更に混乱した。
ラムセスは基本的に説明が上手い。
相手にも分かるよう、なるべく難しい言葉は使わず、よく噛み砕いて説いている。
筋道を立て、どのようにして、その結論に辿り着くのか。
それを伝えるのが、とても上手いのだ。
しかし、そんなラムセスの説明にも関わらず、バステトは全く理解できなかった。
まるで、数式を証明している最中に「◯◯の法則から〜」と、内容を知らない別の式を引っ張ってこられた時のように、理解が追いつかなかった。
結論が飛躍しすぎているのだ。
ラムセスの言っていた事を、バステトなりに言い換えると、こうなる。
「文字を書こうとしたら、絵画になっていた」
完全に理解できている。
しかし、バステトは認めたくなかったのだ。
こんな、正直訳の分からない出来事が、現実に起こっているなんて。
バステトは机の横にグラスを置き、ラムセスの隣に立つ。
そして、口を開いた。
「ラムセス様…………ひえろぐりふ? を書いてるところを、見せてほしいです、にゃ」
「うん、分かった。ちょっと待ってね」
バステトのお願いをきくと、ラムセスは机の上の紙をぐちゃぐちゃに丸め、部屋の隅にある屑入れに放り投げた。
バステトはその蛮行に内心で「にゃぁあああああああ」と悲鳴をあげていたが、とりあえず何も考えないことにした。
屑入れの中に沢山入っていた、丸められた紙など、バステトは見なかったのだ。
その全てが今のレベルの絵画だと思うと、その勿体無さに頭が沸騰しそうになってしまう。
そんなバステトを他所に、ラムセスは机の中から新しい用紙を取り出した。
そして、筆をとると、少し手を止める。
集中しているのだ。
バステトは、無意識のうちに、唾を飲み込んだ。
ラムセスの部屋を、静寂が満たす。
そして、ラムセスが筆を紙に付けた。
次の瞬間には、バステトの絵が紙に描かれていた。
バステトは、思わず叫んだ。
「にゃんでえええええええ!!??」
「わっ、うるさっ」
「あ…………ごめんなさいです、にゃ」
ラムセスの声を聞き、バステトはすぐに口を閉じた。
「こんな風に、絵が出来ちゃうんだよね。なんでだろう…………」
正直なところバステトは、もう思考を停止していた。
マバタキをした、一瞬のうちだったのだ。
その僅かな間に、白紙が絵画になっていた。
バステトは自分が正気を失っているのかと思った。
しかし、現実として絵が残っている。
バステトは察した。
ラムセスは、絵心があり過ぎるのだ。
無意識のうちに作品を完成させてしまうほどに。
創造力が高過ぎるのだ。
絵心がどうこうってレベルではないが、バステトはその事実から目を逸らした。
「うーん、とりあえず休憩するかな。バステト、飲み物ありがとう」
「勿体無いお言葉です、にゃ」
「…………っていうか、勝手に部屋に入ってきちゃダメじゃないか。せめてノックくらいしなさい」
「あ、ご、ごめんなさいです。で、でも、扉が開きっぱなしで…………」
「あれ? そうだったかな。うん、ごめん。それは僕が悪いね。でも、ちゃんと入る前に確認はしないとダメだよ?」
「はい、分かりました……あ、そ、それと…………」
「ん? どうしたの?」
「そ、その絵……良かったら頂いても…………にゃ…………」
「ああ、良いよ。僕の絵でよかったら」
「あ、ありがとうございます! 一生大事にします、にゃ!」
「えっ、そんなに」
「そんなにです、にゃ!」
二人の時間は和やかに過ぎていく。
そして結局、この日ラムセスは「神聖文字」を書くことができず、その場には幾つもの絵画が積み重なっていった。
後に、この絵も含めたラムセス個人の絵画展が開かれ、彼を慕う人々によって大盛況となるのだが、それは未来のお話である。
「あ、危なかった…………バステトさんは妙に勘が鋭いから、下手したらバレてたかも……えへ、それにしても…………ファラオはこの頃から絵がお上手だったんですね。一枚くらい私とファラオが隣り合った絵も…………きゃーーー! 大胆です!」
今回のファラオ'sキーワード
「神聖文字」
古代エジプトの文字の一つ。他には「神官文字」なとがある。
神聖と付いているように、神やそれに匹敵するファラオについて記すために使われた文字。