揺蕩う
頭を走る鋭い痛みに顔を顰めた。唇から毀れたため息はいつものよりも生臭い。
けだるい感覚に、身を起こすことすら億劫だった――別段、そうする必要があるわけでもない。
空き巣に入られても、ここまでひどい状態にはならないだろう部屋を横目に見る。菓子の袋や、ファーストフードの残骸――投げ出した本、おそらくはその内のいくらかは重要なものなのであろう書類。空になった酒瓶――その中から琥珀色の中身の入った一本を手に取る。蓋をゆっくりと開き、口をつける。口の中に広がるねばつくような苦味、喉を通り過ぎる熱、腹の中に納まる頃には、頭の働きが鈍くなり、ようやくに身を起こす気分になった。
不味いな。
顔を顰める。さっさと酒の後味を消したい。酒が好きなわけじゃない。ただ、酩酊状態になるには、酒を吞まなくてはならないから呑むだけだ。酩酊状態にならなければ、まともに身体を動かそうとさえ、思えない。
頭痛は止まない。身体のだるさも晴れない。靄がかった視界は緩やかに明瞭になっていくが、はっきりとみたいものなど、何もない。1Kの部屋は広かった。もっと、手狭でも良い。
本を踏みつけながら、シンクの傍により、蛇口を捻る。冷たい水で口を漱ぎ、ついで、顔を洗う。頭痛の間隔が遅くなっていく。次第に収まるだろう。
何かを腹の中に入れなければいけない。昨晩は何も食べていない。さっきと同じように酒を吞み、そのまま寝てしまった。腹は空腹を訴えている。が、何も食べる気にはならなかった。
「めんどくせえ…」
もう一度寝るか。と、元来た部屋に足を伸ばそうとした時、部屋のチャイムが鳴った。誰も訪ねてこないので、久々に聞いた気がする。周囲を見回した。通路には、出し忘れたゴミ袋がいくつも転がっている。その奥は、より酷い惨状だった。とても、他人に見せられたものではない。
何よりも、俺自身の姿が酷い。
足音を立てないよう、すり足で通路を歩く。――のぞき穴から、来訪者の姿を見る。
…そこには、不機嫌そうな女の姿があった。
見覚えはない。二十前後の女。黒髪に眼鏡。顔の造作は悪くない――と思う。
無視しても問題はないだろう。
ゆっくりと部屋の中に戻る。またチャイムが鳴らされた。――セールスか宗教の勧誘か、どうせ、そんなところだろう。放っておけば帰っていくに違いない。
布団の中に戻った。身体を横たえる。睡魔はいとも簡単に、俺から意識を奪っていった。
「くぉらぁぁ!! 坂崎! 起きなさい―――!!」
――そして、いとも簡単に、奪われた意識は返還された。
恐らくは、契約しているこのマンションの住民全員の耳に、はっきりと騒音と感じられる程度の大きな声が、ドアの向こうの女の口から発せられたようだった。慌てて、もう一度、ドアの傍に寄る。
そこには、今にも、大きな声をあげますよ、と言わんばかりに、掌でメガホンを作った女の姿があった。
ため息を吐きつつ、ドアを開く。
「うるせえな、近所迷惑だろうが!」
自分でも驚くほど、どすの利いた声が毀れた。
彼女は作ったメガホンを解体すると、ふふん、と得意げな顔を浮かべて、俺を見上げる。
「ようやく出てきましたか、坂崎」
どうやら、彼女は、俺に用があるらしい。
ドアにくっついている名前入れの中に差し込まれた苗字だけのプレートを見て、そのように呼んでいるだけで、彼女は俺が坂崎かどうかなんて知らないのかもしれないが。
ともかく。
「呼び捨てされる覚えはねえ。てか、誰だよ、あんた」
「私は、こういうものです」
鞄をごそごそと探り、差し出したのは一枚の名刺だった。
○○女子大学3年、水原美湖――最近の学生ってのは、わざわざ名刺を所持しているらしい。
「みずはらみこ?…聞いたことねえけど」
「みずはらよしこ、です」
「読みづれえ名前だな」
「亡くなった両親が考えてくれた名前です。悪く言わないで下さい」
重い。
何とも言い難く、別段良い名前とも思えないので、そこで話を広げようとも思えない。
考えてみれば、別に、彼女に対して、フォローをする必要などどこにもなかった。
「で、その美湖ちゃんが何しに来たんだ?」
「少しなれなれしいんじゃないですか?」
「じゃあ、ちゃんと坂崎さん、って呼べ。…いや、呼ばなくても良い。何か面倒くさそうだからさっさと帰れ。俺は今から寝るんだ」
「今って、午前八時ですよ? 普通の社会人なら、もう会社にいる時間です」
「お前はお前の生活リズムがすべての人に適応されると考えてるみたいだがな、それが大間違いだぞ。世の中には午前八時に目を覚まして、再び寝る、と言う生ぬるい生活リズムで生きている人間もいるんだ」
「それは完全に甘えじゃないですか!」
「お前、世の中厳しさばかりじゃ回らないんだぞ」
「そんなんで、厳しい社会の荒波を越えていけると思っているんですか!」
「俺は厳しい社会で生き抜こうとは思ってない。優しくぬるい世界で生きていくんだ。…て、てか、あんた何しに来たんだ」
そうだった。――彼女はコホン、と咳払いを一つした。
「実は坂崎…さんに、用事があって来たんです」
「そうか。じゃあ、さっさと済ませろよ」
「あなたの弟さんの残した借金を、返済して頂きたいのです」
「…は?」
「つまり、何だ。俺の弟は、あんたに金を借りて、逃げ出したわけか」
「彼の住んでいた寮からは荷物も何もなくなっていて、ただ、これだけが」
差し出されたのは一枚の紙切れだった。
『借金、返せません。ここにいる兄貴に払ってもらって下さい』
その次の行に、この部屋の住所が書き込まれていた。
「なるほど。確かに、ここの住所だな」
溜息を漏らす。目の前の女は、頷いた。
「てか、あんた、弟…とやらとはどういう関係なんだ?」
「…弟とやら、と言うのはどういうことです?」
「とりあえず、聞かせてくれ」
「…弟さんは、バイト先の先輩でした。金を貸してくれ、と言われたので、貸したんです」
「額はいくらだ?」
「10万円です」
10万円――学生時代の10万円と言ったらそれなりの額だと思うんだが。
「それを、バイト先の先輩に?」
「ええ」
「お前、馬鹿じゃないのか?」
「今は、後悔しています。でも」
あなたが返してくれれば、全て解決する。
皆まで言わずとも解るだろう。水原美湖はこちらの答えを待っている。
分かりました。馬鹿な弟の不始末は、兄である俺が片づけます、と。
だが、その答えは俺の答案用紙には書き込まれない。
当然だ。
――俺は頭を振った。
「俺には、弟はいない」
「…え?」
「弟どころか、身よりはいない。親類もな。…こいつが何で俺の住所を書いたのかは分からんが、兄貴、なんて言って、俺を慕う奴に心当たりもないな」
「そんな、でも、確かにこの紙には!」
この紙に書かれている住所は、確かに、この部屋のものだった。
そこに間違いはない。
「よしんば、こいつが俺の弟だとしても、あんたに金を払う義務も義理もない。いきなり部屋に怒鳴り込まれる理屈は立たないな」
「信じられない」
「戸籍謄本を見せようか? 正直死ぬほど面倒くさいが、そうしろ、ってんなら、してやるよ。少し時間をくれ。身支度を整える」
――コメカミを揉みつつ、ドアを閉める。
玄関のすぐ右手に洗面所がある。その左手にバスルーム。
鏡の中の自分を見つめる――目の下に深い隈を刻み、無精髭を生やした、顔色の悪い男がこの世の全てを呪っているかのような目で、俺を見つめ返してきた。
見慣れた顔の筈だった。それでも戸惑いはある。
「社会は厳しいもの、か」
彼女がその本質に気づいているのかどうかは甚だ怪しいところではあるが。
その言葉は、紛れもなく、事実だった。
「いや、本当に戸籍謄本見せる、ことになるとは思わなかった」
「…」
彼女はその場に愕然と膝をつけている。
市役所の近くの公園まで歩いては来たものの、どこの時点でかは定かではないが、彼女の膝は限界に来てしまったらしい。
「お金が…10万円が…」
「10万程度なら、そこまでショック受けることもないだろ」
「…両親のいない大学生の10万円ですよ?」
「てか、そう思うなら、そんな大金を何で貸したんだよ。お前、そいつの女だったのか?」
激しく、頭を振る。
どうやら、男女関係には潔癖な方らしい。――或は、借金を放って逃げるような男と、そういう関係だったなどとは恥ずかしくて認めることが出来ないのだろうか。
「違う…違います」
「…それか、利子つけて返す、って言葉に引っかかったのか?」
「…」
図星なのか。
金に汚い割に金に弱い。何と言うか、残念な子だ。
――これ以上何を言っても追い打ちをかけることにしかならない。
「どうしよう…」
「いや、お前、言うても10万だろう。それくらいは何とか…」
「アパートの家賃、滞ってて…」
何故そんな環境の奴が金を貸す、と言う選択をすることになるのだろうか。
そんな奴から金を借りて逃げた奴は、どうしようもない屑だが、この子も大概だと思わざるを得ない。
「…金借りれば?」
「どこで、です?」
「そりゃ…。いや、それこそ、バイト先の友人とか」
「バイト先に、友人とか、いないんで…」
「大学の友人とか」
「…」
触れてはいけない話題だったらしい。
軽く泣きそうな顔になっている。
もしかしたら、借金を放って逃げた奴は、彼女の唯一の友達だったのかもしれない。
「…最悪、サラ金とか」
「…サラ金に手を出す人間は、屑です」
「いや、実際に金が足りてない状況だろうに」
「父も、母も、サラ金の連帯保証人になって…」
目の前の彼女に触れていいところなんてないのではないだろうか。
昨日、何食べた? と聞いて、『芝生です』なんて答えられたら、もう何も言えない。
「…奨学金の返済もあるのに、サラ金まで借りたら、もう、私の未来は…」
丁度その時、電車が通り抜ける音がかすかに聞こえた。
高台の上に築かれた公園からは、街の景色が一望できる。
彼女の視線の先に見えたのは、どこまでも続いているように見える線路だった。
彼女の脳内の未来の線路は、栄光に向かっているのだろうか。
終電は酷く近くにありそうだった。
「今は法定金利を守ってる会社が多いそうだし、大丈夫なんじゃないか。案外と」
「軽く言わないで下さいよ…」
「…じゃ、水商売とか」
「…いつも、夜にお化粧して働きに出て、朝に帰って来たなぁ。お母さん。…どんどん痩せていったんですよねぇ…」
そろそろ嘘を疑っても良いのではないだろうか。
嘘じゃなかった時が怖いので、言わないが。
「あれですかね…。やっぱり、どこの企業も採用する人材には、清廉性を求めるんでしょうか…」
「女子アナになろう、なんて考えがないなら、大丈夫なんじゃないか?」
「…」
女子アナになろうとしてるのかよ。
てか、もう、何なんだろう、この子。
俺の部屋に乗り込んできた時の気迫は、一体何だったんだろう。
今やまるで幽鬼の如く青ざめた顔で、地面に向かってぶつぶつと何やら呟いている。
聞けば余計に面倒そうだったが――耳を澄ましてみた。
「お父さん、お母さん、私、一人でも立派に生きていこうと思ってたけど、もう、無理みたい…」
聞かなければよかった。やっぱり面倒くさい。
「本当に良いんですか? 奢ってもらっちゃって」
「ははは」
正直、もう放り出して、帰りたい気持ちでいっぱいだった。
でも、放り出して、インターネットのニュースに、『悲劇の少女、困窮の結末』なんて見出しが出てたら、罪悪感で酒量が増えそうだ。彼女自身にほぼ、非はないのだ。――これ以上酒量が増えたら痛風になるかもしれない。
申し訳なさそうに、ハンバーグ定食と、デミグラスハンバーグ定食と、ドリンクバーと、デザートのケーキを頼む彼女。本当に申し訳なく思っているのなら、もう少し態度で示せと思わざるを得ないが。
「美味しいです。美味しいです」
幸せそうな顔でぱくつく姿は、大変可愛らしい。
娘を猫かわいがりする男親の気持ちが今なら良く分かる。
「はぁ。まぁ。遠慮せずに食べればいいさ」
コーヒーを啜る。他のファミリーレストランよりもコーヒーが美味い、と言う話を聞いた覚えがある。正直言って、そこまで美味いとは思わない。不味いとも思わないが。
――と、彼女は手を止め、先ほどのメモを開いて、小首を傾げた。
「でも、どうして、坂崎さんの住所を書いたんでしょう?」
「…そうだな。俺も、そこは不思議に思ってた。嫌がらせかとも思ったんだが」
「坂崎さんのことを知っていて書いたんでしょうか」
「多分…。とは言え、俺は、俺以外の坂崎なんて知り合いはいないんだが…」
「あの人が一方的にあなたのことを知っていた、ってことですか」
「そういうことになるな」
知りもしない男が、勝手に自分のことを『兄貴』と呼んでおり、メモに住所を書き込み、借金を押し付けている。――想像するだに身が竦む話だ。
ただ、同姓と言う繋がりだけで、そんなことをするとは思えない。そこには何かしらの理由があるはずだ。
けれども、実際のところ、俺とその男とは、苗字が同じ、と言う共通点しかない。
彼女が不思議に思うことは無理もないことだ。残念ながら、彼女の疑問が氷解することはない。
――メモを手に取る。
「ちょっと聞きたいことがあるんだが」
「何ですか?」
初対面の時には、喧嘩腰の口調だったが…。これが本来の彼女なのだろう。
その目の前に、紙切れを置く。
「このメモは、一枚だけだったか?」
「ええ。私が見つけたのは、この一枚だけです」
「そうか」
――眉根を寄せる。一枚だけ、か。
「何か、彼の手がかりでもあるんですか?」
「いや、そいつの居所は分からない。ただ、面倒くさいことにはならないかと思ってね」
「どういうことです?」
「君は、10万円程度で夜逃げするか?」
「え…いえ、夜逃げまでは、考えてません」
――さっき、両親の後を追おうとしてた気がするんだが。どうやら、心理状態は正常に戻りつつあるのかもしれない。
そうだ。彼女が彼に貸した金は少ない金額ではない。
けれども、人生を諦めてしまうほど、大きい額でもない。
「つまり、その男も、そうだってことだ。夜逃げするってことは、奴の借金は、10万どころじゃない筈だからな。君以外の連中からも、随分と借りてる筈だ」
「なるほど。…そうなると、このメモは、取ってきたら不味かったんでしょうか?」
彼女の表情がやや暗くなる。男の部屋に借金の取り立てに行く者は少なくないかもしれない。彼女がそのメモを部屋から持ち去ったことで、彼らが困りはしないか心配しているのだろう。
或は、男にとって、彼女が数多くいる頼れる誰かの、一人に過ぎないことにショックを受けているのかもしれない。
それは、少々、うがった見方かもしれないが。
「俺としては助かったよ。君と同じように俺に借金を請求してくる人が押し寄せても困るしな…。それに――」
「坂崎さんにお金を返してもらえるわけでもないですしね。…何のためにこんなメモを残したんだろ…」
「時間稼ぎかもしれないな。俺のところで足止めさせて、その間に遠くに逃げる、とか」
「そこまで切羽詰っていたんでしょうか…」
「いや、本当かどうかは分からない。ただ、君のように個人ならともかく、ある程度の組織になれば、興信所なんかを使って探したりするだろうし、それなら出来る限り早く動いた方が良いだろう。――最も、そういう場合は逃げた借主は置いて、連帯保証人から請求するんだろうけどな」」
「…本当に、夜逃げする奴って、最低ですよね」
また彼女のデリケートな部分を抉ってしまったようだった。
連帯保証人のくだりは、言わない方が良かったかもしれない。
「はぁ…」
デザートの最期のひとかけを口の中に放って、すっかりと綺麗になった食器を眺めて、彼女は物憂げなため息を漏らした。
「もう、かえってこないんでしょうか…」
先ほどまで食器に載っていた料理のことだろうか。
などと一瞬考えてしまった。そんなわけはないのだけれども、彼女の見事な食べっぷりを見ると、そんなことを言い出しても、不思議ではないが――。
コーヒーのお替りを頼む。快く応じたウェイトレスの手がソーサー毎、カップを持っていく。
彼女の前にメニューを差し出す。どうもいけない。まだ出逢ったばかりの子だと言うのに、本当に俺も甘くなったものだった。――彼女はほんの少し暗くなった表情を明るくし、微笑を浮かべて、手のひらを振った。
「かえってきてほしいのは、男の方? 金の方?」
「お金ですよ。あの人は、彼氏でも何でもないんですから」
馬鹿なことを聞かないで下さい。
と、言いたげだった。
ウェイトレスからコーヒーを受け取り、啜る。火傷しそうなほど熱かった。
「現実的に考えれば、戻ってくることはないだろうな。まぁ、案外、金を手に入れたら、律儀に返しに来るかもしれない。…もっとも、その可能性は低そうだが」
「はあ。そうですよね」
「…まあ、いいことあるさ。多分な」
「軽く言わないで下さいよ…。はぁ、本当にどうしよ」
「家賃の件か?」
「バイト、増やすしかないですよね。就職活動もしないといけないし。本当、困ったなぁ…」
彼女は頬杖をついて、外を見る。
すっかりと暗くなって、昼間よりもずっと存在感を増した車が、信号の前で列を為している。
「…お金って、本当に、大切なものですよね」
「まぁ、いい授業料を払った、と思って諦めた方が良いさ。他人に金を貸しても、良いことなんて、まずないからな。…他人に金を貸すなら、あげるくらいのつもりで貸すことだ」
「多分、もう人にお金を貸すことはないです」
「それがいいと思うよ」
彼女は最後に笑顔を向けてくれたけれども、どこか、固く見えた。
俺にとって、もう、少ない、と言えてしまうようになった金が、彼女の一生を左右するものになりうるのかもしれない。
店の前で別れる。時刻は七時半。すっかりと暗くなってはいるが、この辺りは治安が悪いわけでもない。少なくとも、女の独り歩きを心配するほどでは。
ふと、気まぐれな考えが浮かんだ。
それは、酷く傲岸な考えではあった。
「金、貸そうか?」
「…え?」
問いかけす彼女の声は、いささか、不審げだった。
当然だろう。こちらに他意はないが、それが伝わるとは思えない。
「10万。少なくとも、貸した分だけでも手元にあれば、そこまで困ることはないだろ」
「それは、そうですけど…」
「返してくれるなら、遠慮することはない」
「…」
財布から一万円札を十枚抜き取り、差し出した。
彼女は、手を伸ばし、受け取るのを、躊躇った。
「どうした?」
「…」
俺を見て、ころころと表情を変える。
それら全てが彼女の中の内面の全てだろう。
余りにも素直に見えて、後悔するくらいだった。
「…借ります」
逡巡は短くはなかった。
けれど、そう宣言してから、彼女はすぐに受け取った。
そして、さっき、『大切なもの』と言ったものを、乱暴に財布の中に入れた。
一人、部屋に戻る。
出し忘れのゴミ袋を蹴飛ばして、シンクの前に立つ。
蛇口を捻る。酷く冷たい水が流れ出す。口を漱ぐ。顔を洗う。
部屋の照明のスイッチを押す。――空き巣に入られた後よりも酷い有様の部屋を見回す。
首を回す。骨の軋む音が響く。適当な雑誌を掴み、パラパラとページを捲る。
センセーショナルな見出し、どうでもいい内容の記事、くだらなかった。
金がらみの話が多い。どこにでも転がっている悲劇を脚色する。どこか喜劇のように見えるのは、所詮、他人事だからなのだろうか。
それとも俺の頭が腐りきっているからなのだろうか。
朝に掴んだ酒瓶を上げる。振ると、底面の方で琥珀色が揺蕩う。
今日出逢った、あの女の子の姿が重なって見えた。
彼女は金を返すだろうか。
それとも、何事もなかったかのように知らないふりをするのだろうか。
どちらでも良い。
出来れば、ただ、あの子のままでいて欲しいと思う。
矛盾しているような、気もした。
酒を煽った。
――部屋の中で、甲高い機械音が鳴りだした。
携帯の着信音、ゴミの山から取り出し、応答する。
向こうから聞こえてきたのは、聞き慣れた、頭のユルそうな声だった。
『夜分すいません、坂崎さん』
「で、見つかったのか?」
『駄目ですね。逃げた奴の、連帯保証人だった、兄貴の方も駄目なんでしょ?』
「ああ。ここに踏み込む前には、もういなくなってやがった。金目のものも無くなってる。しばらくはここにいるわ。興信所の方に調査は頼んでるんだろう?」
『ええ。まぁ、あいつ、阿呆ですし、すぐ見つかるんじゃないすかね?』
「あいつが阿呆なら、夜逃げされる俺らも相当だな」
『あ…いえ、捕まえりゃ、いいんすよ』
「そうだな。捕まえられりゃあな」
――ゴクリ、と息を飲む音が聞こえた。
捕まえられなければ、自分がどうなるのか、解っているのだろう。
『…はは。そういえば、坂崎さん。逃げた奴と、苗字が同じなんすね』
「ああ、迷惑な話だ」
『はは…それじゃ、また、連絡します』
「おう」
――喉が渇いてしょうがない。
頭に鋭い痛みが走る。今日、一緒に過ごした女の子の顔が靄がかったように思い出せなくなる。
彼女は返しに来るだろうか。借用書もない。口約束だけで、利息も何も決めていない。
名刺を受け取っていたことを思い出す。部屋を出、シンクの中で、名刺を燃やす。
水原美湖。
みずはらよしこ。
ゆっくりと、名前が燃える。一文字ずつ、炎の中に消える。
蛇口を捻る。灰は排水溝の中に消えた。そして、俺の記憶の中からも消えた。
社会は厳しい。お金は大切。当たり前のこと。当たり前のこと。
それだけのことが、どうしようもなく疎ましくて、仕方がなかった。