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その日の夜、俺は早速就職のための勉強を開始した。
この初雪荘は基本的に自由に過ごして良いことになっている。食事だけは、点呼も兼ねてほぼ全員が食堂に集まることになっているが、他はすることがない。
「っし、正解っと」
昼間、亜希さんの熱に当てられ、引っ越し疲れも忘れて勉強に励んでいる。
高校で使用していた問題集をひたすら解き続けていた。直接就職に繋がるとは思わないが、だからと言って一般教養がない人間が就職できるとも思えない。亜希さんに頑張れと言われて火が付いてしまい、とにかく今できることをやろうと張り切っていた。
ちなみに、俺と小雪の部屋にはテーブル以外にモノを置いて作業できる場所がない。必然、なにかしようとするとそこで作業することになる。
「……」
小雪は先ほどから俺の正面の席に座り、ノートパソコンに向かっていた。
シャワーを済ませた後だから当たり前と言えば当たり前だが、昼間とは打って変わって味気ないジャージ姿だ。長い黒髪をアップでまとめ、ヘッドホンをしている。時折カタカタとキーボードを叩く音も聞こえているので、ひょっとしたら、なにか真面目なことをしているのかもしれない。
「小雪はなにしてんだ?」
尋ねてみる。
「ん? アニメ観たり動画サイトの生放送にコメントしたりしてるだけだよ?」
不真面目この上ないことをしていた。
「アニメ? なんか面白いのでもあるのか?」
「面白いのもあるし面白くないのもあるよ。年間二百作品以上は見てるから」
「二百作品って……萌え系?」
「そう。凄いでしょ」
「あー、うん」
自慢気に言う彼女だが、若干イメージが崩れたのは言うまでもない。
ちょっと前まで通っていた学校で、そういうのが好きなヤツが何人もいたから、気持ち悪いとか、そういう偏見は持っていない。ただ、そいつらは異様なまでの情熱を二次元につぎ込んでいて、感心すると同時に、自分には合わない世界だとも思った。そして――推測だが、そんなディープな連中の中でも年間二百作品以上見ているヤツなんていなかったはずだ。たぶん、小雪はどっぷりそっちの世界にはまっている人間だろう。
在学中、よく知りもしないアニメに対して迂闊な発言をした結果、昼休み全部使ってその作品はこれこれこうなってあそこがどうで云々と説教されたことがある。自分の知らない世界については、下手なことを言わないのが吉だ。
というわけで。
「そういや、今日なんか用事あったみたいだけどなにしてたんだ?」
潔く話題転換。
「なんのこと?」
「俺を放り出してどっか行ったじゃん?」
小雪はヘッドホンを外しながら、そのことねと説明してくれる。
ヘッドホンを外す際、ふんわりとした女の子独特の香りが届いてきて内心ドキリとする。
「健康診断だよ」
「健康診断?」
おうむ返しで聞くと、小雪はテーブルの端に置いてあった一枚の紙を指さす。
「それに書いてある通り、週一くらいでここにいる人間全員の健康診断があるの。人数が多いから、年齢でてきとーに時間ばらけさせてね」
「えーと、あ、なるほど」
小雪が指さしたプリントには「健康診断を実施します」と大きな文字で書かれていた。
一番手間のかからない高校三年以上が朝早くからで、それ以外は順々に、という感じの日程だった。亜希さんは学年的には高校三年だから、今日、ここへ来たのは自分が終わったことを伝えるためだったのだろう。
「夏希は今日来たばかりだから免除だったんだろうけど、次からは参加だよ。病気にもよるけど、それぞれで診断内容が違うから、回ってくるプリントよく読んで、ちゃんと参加しないとダメだよ」
「なるほどな」
ちょっと面倒な気もするが、しょうがないだろう。
ここにいる人間は他じゃ見られない特殊な病気を持っている。それを管理するとなれば定期的に個々の状態を把握する場が必要になるはずだ。文句を言える立場ではない。
「そう言う夏希は、さっきからなにしてるの?」
「うん?」
「勉強……だよね」
ノートパソコンを少し折りたたんで、覗き込んでくる。
「これか? そのまんま、勉強だよ」
「なんで? なにかしたいことでもあるの?」
「あー……」
一瞬、言い淀んだ。
亜希さんは同じ未来を見据えている人だったから良かったが、もしも、小雪がそうでなかったら、安易に将来を語ると不快な思いをさせてしまうかもしれない。そもそも小雪がどんな病気を持っているかまだ知らされていないのだ。
なんて思ったが、同じ部屋にいる以上、隠していてもいずれはバレる。変に隠して、互いに妙な気を使うくらいなら、ちゃんと話した方が良いはずだ。
そう思い、俺は小雪の目を見て、
「就職、したいからだよ」
はっきりと告げた。
それから、亜希さんにしたのと同じように、理由を話す。
小雪はかなり驚いていたようだが、口を挟むことなくちゃんと聞いてくれた。
「――てわけだ」
話し終えると、小雪はふーんと一息吐いてから、
「真面目だね~」
自分とは別世界に生きる人間に向ける視線を送ってきた。
「私は良いと思うよ。将来をちゃんと考えて、しっかりそうやって勉強するのは悪いことじゃない。応援するよ」
にこり。
「……」
この反応を、どう受け取るべきだろうか。
なんとなく『自分には未来がないから、応援はするけどそれだけしかできない』と言ってるように聞こえなくもなかった。
「小雪は、将来どうしたいとか、あるのか?」
ちょっと迷ってから、恐る恐る尋ねてみる。
と――
「ないよ」
きっぱりと、なんの躊躇いもなく彼女は、『将来』を切り捨てた。
そして、パソコンの画面に目を落として、こう言うのだった。
「私は、未来を見据えられる人種じゃないからね」