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夕食時、頭が冷えたらしい小雪が「さっきはごめんね」と謝ってきたが、俺は素直にその言葉を受け取ることができなかった。刃物を突き付けられた後に、その相手の言葉を信用しろという方が不可能だろう。俺は生返事を返しただけで、それ以外、口をきくことはなかった。
そんな、壮絶に気まずい夕食を経て。
「――というわけなんだが」
誰にも言うなと言われても、言わないわけにはいかない。
食事の時間外は飲料水を無料で提供してくれる、入所者にとっては自室以外の憩いの場、食堂にて。小雪が自室へ戻るのを確認してから、隅のテーブルに陣取り、俺は亜希さんと広木に全て話した。小雪が自傷行為をしていたことも、カッターを突きつけてきたことも、その後の様子も、全て、だ。
予め、『夕食後、話したいことがあるから部屋に戻らず食堂に残って欲しい』とメールを送っておいたので、二人ともしっかり話を聞いてくれた。
「ふむ……」
「あー……」
話を聞き終えた亜希さんと広木の第一声はそれだった。
小雪が病気を話していないと分かった時と同じような、「なにやってんだ」という感じの反応だった。
その反応を不審に思って、「驚かないの?」と聞いてみると、「まあね」という返答。
「小雪のそれは、始めてじゃないからな」
「どういうこと?」
広木は一瞬、亜希さんと目を合わせてから語る。
「小雪はたまに、不安定になることがあるんだよ。はっきり理由を聞いたことはないが、ここは、そういう場所だ。いくらでも推測できるだろ? で、そういう時、小雪は自傷行為に走ってる。腕をよく見りゃすぐ分かるんだが、物凄い数の傷が残ってる。俺も亜希姉もやめた方がいいとは言ってるんだが、本人だって良くないことだって理解してるだろ。やめろと言われてやめられるなら、とっくの昔にやめてるはずだ。小雪のそれに関しては、しゃーないの一言だよ」
しゃーない、か。
俺は自傷行為などやらないし、している人を見たのも始めてだ。自傷行為をする人間の思考など理解の範疇じゃない。が、ここは初雪荘だ。広木の言葉通り、いくらでも推測はできる。特に、小雪はずっと長い間、死と向き合ってきている。上手く説明できないが、そういうことをしてしまう、不安定な気持ち、というのは分かる気がする。俺だって、正直な話、ここに来て、間接的にとはいえ『死』を目撃してからぐっすり眠れたことはない。面倒くさがりで引きこもりの小雪にも、やはり思うところはあるということだろう。
でも。
「じゃあ、俺にカッターを突きつけてきたのは? 広木も亜希さんも知ってるんだろ? だったら今更隠す必要なんてないじゃん。どうして、誰にも言うな、なんてことを要求してきたんんだ?」
自傷行為についてはなんとなく分かった。けど疑問が残る。
むしろ、自傷行為よりもそっちが問題だった。自分を傷つけるだけなら、『勝手に一人でやっていろ』と言ってもいい。もちろんそんな風には思えないが、実際、自分に害はないのだから、放っておけばいいという見方も可能だ。しかし、先ほどの場合は違う。カッターを突きつけられて、脅迫されたのだ。監視されるようにちらちら見られているのも精神的によろしくない。どうして、広木も亜希さんも知っている事柄を、小雪は言うなと脅迫してきたのか、そこが分からないと安心できない。
「あー、それは――」
「それは、僕に知られたくなかったからかもしれないね」
広木が説明しようと口を開きかけた矢先、唐突に、上から声が落ちて来た。
「やあ、こんにちは」
びっくりして顔をあげると、そこには白衣を着た細面の男性が一人。メガネをかけ、いかにも学者かですという風貌だ。というか、中身も見たまんまの人だ。
「えと、こんにちは」
「ども」
俺と広木は声で、亜希さんはぺこりと頭を下げて挨拶をする。
トモヤという名前で、俺もこの間の健康診断で顔を合わせている。初雪荘を管理する側にいる人の一人だ。医師でもあり、学者でもある。
俺が診察をしてもらった時の印象は、優しい人、だ。医者というのは基本そういうものだろうが、そこらの診療所にいる医師よりよっぽどにこやかに、しっかりと話を聞いてくれた。
「それより、彼女の話は本当なのかい?」
挨拶もそこそこに、トモヤさんは直球で用件をぶつけてきた。
「食堂でなにか飲み物でももらおうかと来てみたら、自傷行為なんて言葉が耳に飛び込んできたものでね。悪いとは思ったが、聞かせてもらったよ。体の不調はもちろんだが、入所者の精神状態の管理も我々の仕事の一つだからね」
にこりとトモヤさんは笑う。
俺は即答で「本当です」、と答えようとしたのだが、ふと、横に視線を滑らせると、
「……」
どこか不機嫌そうな表情の広木と亜希さんの姿がある。なにか、問題があるのだろうか。
「えーっと、この前来たばかりの、夏希君、だったかな? 小雪さんの同室だったよね。君が一番事情を知っているのだろう? ここは他の入所者も頻繁に訪れる場所だ。もし良かったら、ゆっくり事情を聞かせてもらえないかな?」
迷っていると、トモヤさんが笑顔のまま、そんな提案をしてくる。
場所を変えたいというのは、プライバシー保護のため、だろう。……ひょっとしたら、広木と亜希さんの雰囲気にトモヤさんも気付いていて、二人きりの方が話しやすいと思っているのかもしれないが。
「分かりました」
頷くと、トモヤさんはほっとしたように「じゃあ行こうか」と手を差し出してくる。
手を握って立ち上がりつつ、再度、広木と亜希さんを見ると、先ほどとは打って変わって不安そうな表情で俺を見つめていた。
「さ、行こうか」
「……はい」
何故か、ぞくりと嫌な予感を肌で感じつつ、分かりましたと言ってしまった以上、ここでやっぱり無理ですとは言い出せず。トモヤさんに従う。
広木と亜希さんに見送られて、俺は食堂をあとにした。




