4
「フフフ……この風、肌触り! これこそが異世界よ!」
第6偵察隊偵察オート班に所属する伊勢 心太郎陸士長は、どこぞの青い人のような台詞を吐きながら、勿体ぶった手つきでゴーグルを装着した。
「ここに! ここに、俺の求める巫女さんが居る……!」
万感の思いを込めて、伊勢は厳かに呟いた。
伊勢は、自他共に認めるミコハカマスキーの変態紳士である。
「日本は皇室と巫女さんにより成り立っている。このどちらが欠けても、日本という国は成り立たないのだ。なぜなら、神道の最高神である天照坐皇大御神自身が巫女さんだからだ!」
そんなわけの分らない論理を展開しては、同僚や上官をドン引きさせることもしばしばだった。
彼がこんな変態に成り下がってしまったのには、わりと深刻な理由があった。
伊勢の両親は共に自衛官で、部内恋愛の末の結婚だった。
今では考えられないことだが、伊勢が幼少の頃の自衛隊や警察への風当たりは凄まじいものがあった。
小学校では、組合の手先のアカで馬鹿な教師や、氏名が左右対称の素性がモロバレな教師(もちろん組合員)に、自衛官の息子ということで、日常的に公然と苛めを受けていた。
ホームルームの朝の挨拶のたびに、クラスの生徒全員の前で、「両親が税金泥棒でごめんなさい」「両親が人殺しでごめんなさい」という謝罪を強要されるなど、常軌を逸していた。
教師がそんな事をやっていれば、当然周りの生徒も同調する。
理由は分らないが、自衛隊の子供は苛めてもよいのだ。
何しろ、先生が率先してやっているのだから、むしろ自分達も積極的にそうすべきなのだ、と。
両親は当然のごとく学校に猛抗議するが、校長は薄ら笑みを浮かべながらのらりくらりと言い逃れするだけで、まともに取り合おうとしない。
そして、伊勢に対する苛めは日を追うごとに、より陰湿なものへと変貌していった。
「ひっく、ひっく……」
その日も、教師とそれに同調する同級生達から、不当極まりない苛めと嫌がらせを受け、逃げるように学校を後にしていた。
気が付くと伊勢は、近所の神社の境内で、うずくまって泣きじゃくっていた。
どうやって、この場所まで来たのかは覚えていなかった。
「どうしたの? 何を泣いているのかしら」
優しげな声に顔を上げると、そこには、笑みを浮かべて自分を覗き込んでいる、髪の長い美しい女性の顔があった。
着ている白衣と緋袴から、神社の巫女であることが分った。
巫女の笑顔にほだされ、自分の境遇を洗いざらい告白した。
「どうして、やられっ放しで黙っているの? 君、本当はケンカ強いでしょう?」
痛ましい表情で話を最後まで聞き終えた巫女は、伊勢に尋ねた。
巫女の言うとおり、伊勢は決して喧嘩が弱くはなかった。
格闘徽章持ちの父親より、心身を鍛えるためと称して格闘技の手解きを受けていたからだ。
そのため、同年代の少年程度であれば、問題にならない程度には、体力も腕力も秀でているのだ。
「でも、喧嘩に使うのは良くないって、お父さんから言われているんだ……」
伊勢は悔しそうに俯き、唇を噛んだ。
「じゃあ、我慢して一発だけ殴らせてやりなさい」
少し考え込んだ後、巫女は言った。
「その後、反撃してブッころ……コホン。泣いたり笑ったり出来なくしてやれば良いのよ」
「で、でも……」
「良いこと? それが専守防衛というものよ。君は自衛官の息子なのだから、自衛官の息子らしく、専守防衛で対処するの」
巫女は伊勢の両肩に手を置き、優しく微笑みながら言い聞かせた。
「殴られた後、ただ殴り返すだけじゃ、相手がまた同じことを繰り返すかもしれないでしょう? そうさせないためにも、ぐうの音も出ないほどに、完膚なきまで叩きのめして、二度とそんな気を起こさせないように徹底的に無力化しなくては駄目よ。それが、専守防衛。それが真の平和主義というもの。国を守る自衛官としての責務よ。わかった?」
「う、うん……」
その異様な迫力に、伊勢は気圧されるようにして頷いた。
「そうでなくともアカでバカな連中に言葉なんて通じやしないんだから、話すだけ時間の無駄無駄無駄。アカと畜生は力ずくで躾けてなんぼよ」
「そ、そうなんだ……」
実際のところ、幼い伊勢には巫女の言っていることの半分も理解できていなかったが、一発殴らせた後は、何をやっても許されるということだけは、おぼろげながら理解できた。
そしてその日以来、伊勢は外圧に対して、徹底した専守防衛で対応することを決心した。
「おい、人殺しの税金ドロボー。何か言ってみろよ!」
次の日。クラス一の苛めっ子に伊勢は難癖を付けられていた。
苛めっ子の腰巾着達が、一斉に「人殺し」「税金泥棒」と囃し立てる。
直接苛めに加担していないクラスメイト達も、それを見ながら意地の悪い視線でそれを眺めていた。
伊勢のクラスでは日常的な光景だった。
「我慢して一発だけ殴らせてやりなさい」
巫女の言葉を思い出し、伊勢は相手が先制攻撃を仕掛けてくるのをじっと待った。
「おらぁ! 何とか言ってみろよ!」
やがて、苛めっ子は伊勢の胸倉を掴み、床に突き倒した。
バランスを崩して尻餅をつく伊勢を見下ろし、苛めっ子と取り巻き達は、愉快そうに嘲笑した。
伊勢はゆっくりと立ち上がり、服についた埃を払うと、苛めっ子の目の前で、おもむろに腕を上げた。
苛めっ子は、彼が何をしようとしているのか理解できなかった。
それも当然だ。今までは、何をされても文句一つ言わず、されるがままになっていたのだから。
その腕が勢いよく突き出され、鼻っ柱に痛みと衝撃を感じ、床にひっくり返っても、それが現実と理解できるまで暫く時間が必要だった。
「え……? う、うあ……?」
何が起こったのかわからない苛めっ子は、ツンとした衝撃と痛みを感じる鼻を押さえた。
その手に感じるどろりとした感触。手の平についた赤黒い液体。それが鼻血であることをに気付き驚愕し、ぼろぼろと涙を零し始めた。
「えっ、えぐっ……いて、いてええ……!」
顔の下半分を鼻血で汚した苛めっ子は、パニックになって泣き叫んだ。
取り巻きやクラスメイトは、目の前の光景が理解できず、ぽかんとしている。
伊勢は、のた打ち回る苛めっ子を見下ろし、あまりの呆気なさに拍子抜けしていた。
こんなことなら、もっと早く専守防衛を行使していればよかった。
同時に、専守防衛の素晴らしさを教えてくれた巫女さんに、心の底から感謝した。
「いったい、オタクの息子さんはどういう教育をしているんですか!」
「人殺しの息子はやっぱり人殺しね! 親が親なら、息子も息子ね!」
苛めっ子を沈黙させたその日の夜。
苗字と名前が左右対称のクラス担任教師と、PTA会長でもある苛めっ子の両親が揃って自宅に怒鳴り込んできた。
対応した伊勢の両親は、教育者とは思えない罵詈雑言を浴びせかける二人を、無表情に見つめ返していた。
やがて、ひとしきり罵声を浴びせ疲れ果てた二人が肩で息をし始めた頃、伊勢の父親は、ゆっくりと口を開いた。
「黙って大人しく聞いていれば、全てうちの息子が悪いような言い草ですな。私の息子はそちらの方のお子さんをはじめ、クラス中から苛められていたのですよ。それを放置するだけでなく、苛めを推奨していたのはあなたではないのですか?」
「な、なななな、なんだとぉ!」
表向きの言葉遣いも忘れ、氏名が左右対称な教師は、怒りと驚愕で顔を赤黒く染めた。
「これ以上はこちらも我慢の限界です。私と妻、二人の職をかけてでも、あなたを教育の現場から追放する」
「な、なにを、馬鹿な。そんなこと、出来るわけが……」
両親の毅然とした態度に怯みながらも、教師は引きつった笑みを浮かべた。
しかし、おもむろに近づいた伊勢の父親が耳元で囁いた一言に、今度は顔を真っ青に染めてわなわなと震えだした。
「ごごご、ごめんなさい! 許して! 許してください!!」
教師は突然その場に土下座し、玄関の床に額をこすりつけて懇願した。
突然のことに、当事者である伊勢自身はもちろん、教師と一緒に怒鳴り込んできた苛めっ子の親もあんぐりと口を開け放っていた。
顔色一つ変えず、その様を見下ろしているのは、伊勢の両親だけだった。
「お願いです! お願いです! 組合の命令でしかたなくやったんです! 許してください! 許してください……!」
狂ったように、何度も何度も額を床に擦りつけ、哀願する教師の姿は、異様の一言に尽きた。
その後のことは、あまり良く覚えていなかったが、次の日から、その教師が学校に出てくることは無かった。
なんでも、どこか遠くの学校に転任になったらしい。
後年、父親と酒を飲みながら、その時の事を尋ねてみたところ、件の氏名が左右対称の教師は、以前の学校で自分のクラスの女子生徒に猥褻行為を働き、伊勢の通っていた小学校に転任していたのだという。
自衛隊独自の情報網を駆使してその事を突き止めた伊勢の父親は、その事をバラすぞ、と脅しを掛けたのだ。
「まさか、恥も外聞も無く、あんな土下座を披露してくれるとは思わなかったけどな」
伊勢の父親は、そう言って苦笑して見せた。
クラス一の苛めっ子をあっさりとのしてしまった事もあり、その後伊勢が苛められることは二度と無かった。
とはいえ、クラスメイトの殆どが苛めに加担していたようなものだったので、彼らと友人付き合いが出来るほどの関係になることも無かったが、伊勢にとってはわりとどうでも良いことだった。
むしろ、彼にとって気がかりだったのは、現状を打破するための魔法の言葉を教えてくれた巫女さんのことだった。
その教師が左遷された後、お礼を言いに神社に訪れたのだが、その巫女さんはどこにも居なかった。
たまたま参拝に来た近所に住む老婆に尋ねてみたが、この神社は別の神社の宮司が管理している神社なので、巫女さんは居ないと言われてしまった。
結局、再びその巫女さんに再会することは適わず、伊勢は大人になり、両親と同じ自衛官の道に進んだ。
そして、このときの一連の体験が、彼の心に、巫女さんと袴に対する、異常な偏愛と崇敬の念を植えつけることになったのだった。