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第一章 ハシバミ act.8

 コッコツッコツン。

 室内にはヒールの音が鳴り響いている。けして安定しているとは言い難い音をさせているのは、これまた拙い所作でドレスの裾を捌き歩く少女だった。

 部屋の端までよたよたと歩き、向かいの壁に到達すれば反転してもう一度元来た壁へ。

 少女は何度も何度も、その動きを繰り返していた。

 動いているのは手足だけでなく、口も絶えず何事かを呟いている。

 それはこの世界では誰もが当たり前のように話せる言葉なのだが、少女の発音には戸惑いが滲んでおり、スムーズとは程遠いものであった。

 その様子をじっと見続けているのは相変わらず不安げな表情のアディシエルと、憤懣遣るかたないといった空気を隠しもしないイリスの2人である。

 部屋の隅にはジリアもいるのだが、彼女は目下少女に合わせたドレスの直しに集中しており、少女自身へと目を遣るのは部屋に不審な音、つまり少女がドレスの裾に躓き盛大に転んで音を立てたりしたときだけだった。

「わぐなあ、スリジェ・アリシア・レイデン。こぬくにの、だい、ごじゅさんだいめ、ここうである」

「我が名はスリジエ・アレイシア・レイデン。この国の第53代目国王である。もう一度」

 少女が発音し、それをアディシエルが正す。

 何度も何度も同じことを繰り返しているうちに、ようやく正しい発音に近づいてきたものの、これは彼女が即位式で話さなければならない文章のうち序の序部分でしかない。

 こんなことで、6日後に控える即位式に間に合うのか、アディシエルは不安しか感じられず、先ほどから胃がキリキリと痛みっぱなしである。隣で不機嫌なオーラを隠そうともしないイリスも、この胃痛の原因の一つなのだが、そんなことは口が裂けても言えそうになかった。


 アディシエルは最初、少女にこの世界で使われている言葉を最初から教えようと考えていた。

 現に、部屋の文机の上にはこの世界の辞書や図鑑がうず高く積み上げられている。

 しかし、いざ言語学習のために本を見せ、一つ一つ単語を教え始めてみると、少女の発音があまりにも不自然すぎるということに気が付いてしまった。

 何度か正してみたのだが、一度で習得することができず、何度も手直しをするうちに、基礎単語をいくつか教えるだけでかなりの時間を浪費してしまったのである。これではいつまで経っても目的は達せられないと悟り、仕方なく必要な文章だけ覚えさせる、詰め込み方式に転換したのである。

 最初はカラモスやイクシオもこの場にいたのだが、彼らには王立兵団員としての仕事があるため途中から席を外してしまった。

 それと入れ替わりでやってきたのが、昨日不快感もあらわに部屋を出て行ったイリスだったのである。

 イリスはおたおたと言葉を繰り返す少女を睨むように眺めると、彼女が元から身に着けていた装飾品のうちいくつかを外し取り、代わりにスリジエのドレスや装飾品を身に着けるよう命じた。

 命じたところで少女がそれを理解できるはずもなく、結局は一から十までジリアが支度を整えてやったのだが。

 昨夜のうちにエルバとジリアが奮闘したためか、少女の外見はスリジエのそれと全く見分けのつかないものとなっていた。そこに更にスリジエの服や飾りを身に着けたことで、ますます差異は無くなっていったのである。

 そうして一通り装飾品を身に着けさせ、いざ歩かせてみると、ここにも問題があることが判明した。

 少女はドレスを着なれていなかったらしく、1歩踏み出すだけで体のバランスを崩し転倒しそうになったのである。その様子にイリスは一つ舌打ちをすると、少女を壁際まで引きずるようにして連れて行った。

 そしてイリス式スパルタ歩き方レッスンが始まったのである。

 苛立ちを隠そうともしない見知らぬ男から、言われもない態度で粗雑に扱われているというのに、少女が黙って自分やイリスに良いようにされている理由がアディシエルには理解できなかった。ジリアからは昨夜のうちにエルバがなんとか少女に状況を理解させたのだとは聞いていたが、少女はあまりに従順すぎた。自分の目に、不審に映るほどに。

 何も言いはしないもののイリスも同じことを考えているのは明確で、彼は少女が外した装飾をそれとなく回収していた。あとで調べさせ、身元の手がかりを探る気なのだろうという事は言葉にされずともわかる。

 少女について不審な点は他にもあった。

 少女は腕や首、足などいたるところに装飾を身に着けていたのだが、そのうちのいくつかはつなぎ目がなく、外すことはおろか、どうやって身に着けたのか分からないものがいくつかあったのである。最初、イリスはそれらもどうにかして外せないものかと試行錯誤していたが、しばらく格闘した後に無理だと判じ諦めるに至ったようだった。

 それから彼女が身に着けていたピアスの形が、スリジエの着けていたそれとひどく似通っていたのである。パッと見ただけではその違いなど全く分からないほど詳細なところまで同じ作りをされていた。唯一の違いと言えば、スリジエのピアスが右の耳に通す物だったのに対し、少女が身に着けていたものが左の耳に通すものだったことくらいだ。

 イリスもそのことは気になったらしく、他の服や装飾は侍女に命じて下げさせたが、件のピアスだけはそっと上衣のポケットにすべり込ませていた。

 彼女はいったい何者なのか。

 自分の見えないところに何かがあるのではないかと不安に思うのは自分が小心であるせいばかりではないだろう、とアディシエルは胸中で呟く。

 しかし、それと同時に少女を利用すれば王位争いの復活という最悪のシナリオを避けることができるのも事実なのだ。それを理解しているがゆえに、良いとも悪いとも判じることができないまま、周囲に流されるように今に至っている。


 そうして少女が微々たる成長を見せる中、人払いをしてあった室内に転がり込むような勢いでマルグリットがやってきた。

 ひどく焦っている様子にアディシエルは不安を覚え、イリスは顔をしかめた。先ほどから知らぬ存ぜぬといった態度でドレスを仕立て直しているジリアでさえ、顔をあげマルグリットの方を見ている。

 マルグリットはしばらく荒く呼吸を繰り返していたが、一度大きく息を吸うと焦った様子で口を開いた。


「姫様が、回復されつつあると噂を聞いた王子様方が、この部屋に向かってるって、さっき、そこで・・・!」


 少々要領を得ない話し方であったが、まとめると昨日ヴィスキオが流した「姫君は流行病を退けられ、今は少しずつ快方に向かわれている」という噂をどこからともなく聞きつけたセルジュとアイルが、それならば顔を見に行こうということで、連れ立ってこちらへ向かっているという話をマルグリットが偶然耳にし、慌ててこの部屋へ知らせに来たようだった。

 報告を受けたイリスは小さく舌打ちをする。

 アディシエルも頭を抱えたい気持ちでいっぱいだった。

 少女は訓練を始めた当初よりは格段にマシになってはいるものの、あくまで当初よりは、である。本物のスリジエには程遠く、それどころかこの世界の人間かどうかさえ怪しいほど言葉遣いは拙い。

 こういった時にこそいるべきであろう、エルバやヴィスキオのように言葉が巧みな者は今はおらず、どうしたものかと内心盛大に焦りつつ、とりあえず少女を寝台に押し込める。

 こうしておけば、もしかすると「姫はまだ全快には程遠いため、現在は眠ることで体力回復に努めていらっしゃいます」と誤魔化すこともできる、かもしれない。

 セルジュだけであれば、穏やかな性格の彼のこと、この場は一端引いてくれる可能性もあった。しかし、今回はアイルも一緒なのだ。

 アイルは好奇心が強く、またどのような経緯によるのか分からないが、とにかくスリジエによくなついていた。病床に伏せるスリジエのことも、流行病だから危ないと窘める周囲の声に耳を貸すことなく、スリジエが起きていようが眠っていようが関係なく、幾度となく見舞いに来ては目覚めるまで居座り続けたのだ。そんな少年が、姉君は就寝中だと言ったところで聞き分けるとは到底考えられなかった。

 イリスの顔も心なしか険しく、マルグリットも落ち着きなく室内を動き回っている。

 ジリアでさえ、今までの無表情がさらに無表情になったように見えた。


 コンコンッ。

 部屋の戸がノックされる。

「姉さん、お見舞いに来たよー!」

 元気な声と共に、返事も待たずに扉が開かれた。

 目の前には、何も知らず無邪気に微笑む少年と、穏やかに笑顔を浮かべる青年がいる。

 何か言わなければと思うのに、緊張で喉の奥が引き攣ったように声が出ない。

 寝台に横たわる少女の姿を見つけ、嬉しそうに駆け寄る王子の姿を、成す術もなく見守るしかできなかった。

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