第一幕 ハシバミ act.2
その日、柊は年に1度あるかないかの外出をしていた。
大学に通い始めて既に4年。
授業は自宅から電脳世界を使ってログインできるし、衣食住に関しては大学寮に住んでいるため建物内で全て完結できる仕組みになっている。
そのため、これまで本当に必要に迫れた時以外は外出することなど無かった。
これまではそれでいいと思っていたのだ。
今朝方発表された、一つのニュースを見るまでは。
この世界で『普通の』生活していくためには、演算機というものに適合することが必要になる。
演算機には適合率というものがあり、平均値は30%程度だと言われている。
適合率が50%を越えることは珍しく、そうした人間は俗にエリートと呼ばれていた。
柊は、そのエリートだったのだ。
小学校入学時に初めて手にした演算機が、彼を『適合率80%』と判じたのである。
この世界において、彼は限りなく特別な存在だった。
そのはずだった。
今朝のニュースに『彼女』が出ることは、事前の情報で知っていた。
『適合率97%』
およそ不可能だろうと言われていた適合率90%越えをした少女は、両親を演算機研究者に持ち、彼らの研究の成果として、生まれた直後から演算機と共に成長してきた。
ことあるごとに彼女の行動はニュースとして注目され、適合率97%とはどういう存在なのかを、常にこの国全体へと発信されていたため、この国で彼女の事を知らないものはいないし、彼女に憧れて日々演算機への適合率を上げるために試行錯誤を繰り返す者も増え続けている。
その彼女が、今後一切、電脳世界に関わることはないだろうと宣言したのだ。
国中の人間が困惑をし、その理由を求めた。
将来に期待される重圧に耐えられなかったのか。
両親からの研究に嫌気がさしたのか。
幼いころから演算機を使用してきたことが、体に負担を生んだのか。
彼女の宣言は、多くの国民を当惑させた。
そんな彼女が、ニュースに出るという。
国民は皆、その放送に注目していた。
「私は、両親から『失敗作』なのだと言われました」
ひどく衝撃的だった。
適合率97%といえば、誰もが憧れるも、手の届かない存在だ。
しかし、彼女の両親は「適合率が100%に達しなかった」彼女を失敗作だという。
生まれた時から両親の行う研究のためだけに生きてきたというのに、それを失望したと、100%でないならば必要ないと言われることは、どれほどの痛みを伴うのだろうか。
そして、いつかそう言われるだろうことを「ずっと昔から、わかっていた」と語る彼女は、何を思い生きてきたのだろうか。
適合率97%の彼女ですら不必要ならば、適合率80%の自分はいったい何なのだろうか。
少女は「ここで必要とされないならば、私は、私を必要だと言ってくれる人の元へ行く」と、そう言っていた。
ここではないどこかとはどこなのか。
気づいたら電脳世界からログアウトしていた。
部屋の中を見渡すと、そこは全て、電脳世界に基づいて制作された諸々によって埋め尽くされており、今まで感じたことのない恐怖に襲われた。
そして彼は、実に久しぶりに、外へ出るという選択をしたのだった。
久々に外出したものの、行くあてなど無かったため、目的もなく散策をした。
そうして行き着いたのが、町の高台に位置する公園だった。
人工的に作られた風が吹き抜ける中、錆びれたベンチに腰掛ける。
そのまま、ゆっくりと時間が過ぎていった。
どれくらいいたのか、気が付くと日は西へと傾きかけていた。
公園の様子は相変わらずだが、柊が来たばかりの頃とは違い、今はもう一人、高校生くらいの少女がいる。
少女は街を見下ろすことのできる場所から、長い間、静かに柵の向こう側を見つめていた。
その姿に、柊は既視感を覚える。
流れるような黒い髪に、綺麗に整い日本人離れした顔。
そして、少し変わった榛色の瞳。
しばらく眺めていて、気が付く。
それは、今朝のニュースで見た顔だった。
驚きに目を見開くと同時に、嫌な予感が胸中を駆け抜ける。
知らず、ベンチから立ち上がり、少女の方へ歩を進めていた。
そして少女は、地と空を隔てる柵の向こう側へ、身を乗り出した。
驚いたのは一瞬で、あとはひたすらに地を蹴っていた。
普段部屋に閉じこもっている身とは思えない速さで公園を駆ける。
少女の身が手すりを乗り越える。
手を伸ばす。
届かない。
少女が柵から手を放す。
心ばかりが急き、体はそれに追いつかない。
手は、まだ届かない。
少女の体が宙へ踏み出す。
ようやく柵に手が届いた。
しかし少女は、すでに落下を始めている。
柵から身を乗り出す。
手を伸ばす。
少し触れる。
しかしそれは、たった一瞬のこと。
少女は落ちていく。
とても幸せそうな顔で。
そして突然の光柱。
視界が真っ白に埋め尽くされた。