アルファとオメガを抱えて
姉ちゃんが家をでていってから、はや一週間。
月曜日だが大学を自主休講にするときめて、俺は佳月のてのひらを撫でていた。早朝の冴えた風がすこしだけ開けた窓から流れてきて、佳月の腫れたまぶたをすべる。彼女は床にすわりこんだ俺の足のあいだに身体を置き、そのまま俺に身をまかせている。うしろからその華奢なかたを抱えて、そのまま何十分も佳月の左手を撫でていた。
「お姉さん、どうなったの」
ちいさなちいさなこえで、佳月が尋ねる。
姉ちゃんはずいぶん前から、社会人3年目の節目に、恋人との同棲を計画していたらしい。一週間前、ふだんぼーっとしている姉ちゃんに恋人がいることを初めて知った両親は驚き、姉ちゃんがその恋人と同棲するつもりであることを知ってさらに驚き、ついでに相手が、そのとき姉ちゃんと並んで座っていた姉ちゃんの女友達(だと思われていた人物)だと聞いて、まさに青天の霹靂、藪から棒、これ以上ないほどタマゲていた。親父は呆然としたのもつかの間、立ち上がって姉ちゃんを殴った。そのまま勢いで姉ちゃんの恋人を殴ろうとしたので、俺が親父を殴って止めた。親父は卒倒し、母さんは肩をすくめた。
恋人がいることだけは本人から聞いて知っていたが、俺も驚いたことは驚いた。でも、妙に納得してもいた。姉ちゃんが高校1年のころからうちに出入りしていたその人の、洗練されたふるまいと、ふんわりした空気、そしてなにより、姉ちゃんを大切にする、しみこむようなまなざし。あれは、そういう意味だったのか。
はたから見てても姉ちゃんはそのひとに(それはもう色んな面で)頼りっぱなしだった。姉ちゃんの性格的にまぁそうなるだろうが、単に友達とも言えない、なんというか、慕い合っているふたりの関係を、当時中学生の俺は純粋に不思議だなぁと思いつつふつうに受け入れていた。友達づきあいのしかたが男女で違うだけなんだと思っていたけれど。
ある日、高校生になった俺は、ふと思い付いて姉ちゃんに聞いたことがある。
「姉ちゃんって、彼氏いるの?」
夜、テレビでやっている洋画を並んで見ていたときだったと思う。両親はなんかの用事でいなくて、家には姉ちゃんと俺のふたりきりだった。姉ちゃんは夕方帰宅したときから既に目を腫らしていて、テレビを見ながらもたまに鼻をかんでいた。聞いても「なんでもない」と言うだけだった。俺はその泣き方を見て佳月のことを思い出したので、いままでそんな話をしたことはなかったのだが、本当になんとなく、そう聞いた気がする。
「だいじな恋人はいるよ」
ずびっ。
「だいじなのに……バカーーーッッ!!!」
急に力を取り戻した。ふぅん、なんだ、そういうひとがいるのか。
姉ちゃんはバカだし短気だし感情的だ。こんなふうに急に爆発することはしょっちゅうある。しかし、俺は密かにシスコンだから(自覚はしているのだ)、そういう姉ちゃんをみているのは好きだ。生来無感動屋で屁理屈な俺とは違い、姉ちゃんは感情と直感で生きている。そして俺は、そんな姉ちゃんの判断に間違いはないと考えている。
つまり、姉ちゃんの恋人はなるほど、姉ちゃんの言う通りバカなのだ。
どうせ相思相愛なのだ。いますぐ抱き締めに来ればいいのに……まぁ来たら来たで門前払いしてやるが。
姉ちゃんが選ぶひとが、ほんとうに姉ちゃんを手放せるわけがない。
俺だって佳月を手放せないんだ。
ピンポーン、と、唐突にインターホンが鳴った。恋人登場かと思って見に行くと、姉ちゃんの友達だ。おおかた姉ちゃんがヘルプを出して駆けつけてくれたのだろう。姉ちゃんに告げると、なぜかいっそう泣きそうな顔をして立ち上がった。ぐいぐい涙を拭って、しばらくたたずむ。俺は足早に玄関に行って靴だけとり、引き返して財布と携帯と家の鍵だけ持って、ベランダから外に出た。おれが靴を履いたとき、姉ちゃんはやっと玄関に向かって歩き出した。その後なにがどうなったかは知らないが、俺が佳月の手を取って昏々とことばをつくして、しばらくふたりで話し合ってから帰宅すると、姉ちゃんは元気になっていた。
つまり、その出来事も、そういうことだったらしい。
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恋人を殴られそうになったことにキレた姉ちゃんは、家出同然で家を飛び出していった。親父はしばらく拗ねていたけど、母さんは基本的に姉ちゃんたちがよければいいというスタンスだったし、結局すでに同棲するマンションも決めていた姉ちゃんたちの勝ち(?)で、約一週間後の昨晩には決着がついた。姉ちゃんの恋人に懇切丁寧に謝罪と(姉ちゃんへの愛の)告白を聞かされて、親父も納得したようだった。
「よかったねぇ」
佳月がねむそうに言う。おでこにくちびるを落とす。
「うん、でもごめんな。気づくの遅れて」
「……ゆるす。」
なんとか円満解決して、5人でわいわいしながら夕飯をとっている間、佳月は俺に電話をかけていたようだったのだ。だいたい普段メールも電話もよこさないこいつが俺に電話してくるのは、もう随分限界なときだ。なんとなくそろそろかな、と思っていたのに、うっかりその日に限って姉ちゃんたちが事件を起こすものだから、電話をとりそこねた。
着信に気付いたのは、午前2時過ぎ。すぐに折り返した。
佳月は、涙声で、こわい、と言った。
「アキヒくん、」
ん、と相槌を返すのと同時に、佳月の身体を反転させる。清潔な白いタンクトップをまとう青白いからだ。正面からかかえなおして、染まる頬やふるえるまつげ、やわらかいくちびるをゆるくついばむ。
「今日、ラーメン屋連れてってくれる?おひる。」
「いいよ」
「午後はちゃんと講義行こうね。」
「……」
「行けよ」
佳月は口が悪い。意外に。
ごまかすように肩胛骨を撫でていると、佳月は満足そうなためいきをひとつついて、ぽつりとこぼす。
「みなつさん、しあわせになるといいね。」
「たぶんもう幸せだよ、あのひと。」
(121112-21)(加筆修正130215)