1 舞浜空人という男
都立鶴亀高校の校舎裏にはゴミ集積所と焼却炉がある。集積所のゴミは分別されてうず高く積まれ、焼却炉は頽廃的な黒色の鉄扉を厳重に閉じて佇んでいる。
この校舎裏、という空間。
テニスコートや用務倉庫、木々といったものも校舎裏的空間も作り出しているが、ゴミ集積所と焼却炉という定番も、例外なく学校という生活空間における校舎裏的空間を作り出しているといえる。都内トップ校といわれる鶴亀高校とて、それは例外ではない。
その校舎裏に似つかわしくない姿が佇んでいた。
黒いコートを着込んだ制服男子だ。
生徒がいるのは別段不思議ではない。学校は生徒がいるべきところだし、校舎裏のゴミ集積所などゴミ当番で全クラスから最低一人来るものである。
似つかわしくないのは、彼が発する強烈なオーラのためだ。
寒々たる白く濁りし空の下、その立ち姿たるや、整美にして趣あり。背の高き、足が長き、姿勢のよきに調和せん。
そばに寄るなら、姿勢を正さずにはいられない。それくらい彼の立ち姿は、堂々とした風格を備え、校舎裏に緊張感を持たせていた。
着崩していない制服。仕立てのよいシックなデザインの黒いコート。鞄はつやつやした黒革。一見してレトロ風味。
そんな黒いシルエットを風格たっぷりに演出する彼が、ほんのり生ごみ薫る大して居心地がいいとは言えない校舎裏にいるわけといえば。
「舞浜くん」
声をかけ、ぱたぱたと軽い音を立てて走り寄るのは、この鶴亀高校の生徒たる制服女子だ。
駆け寄るものの、立ち止まると少女は思わずびしっと姿勢を正した。
「遅れてごめ・・・」
しかし、少女は、彼が振り返ると同時に思わず次の言葉を見失う。
さらさらな黒髪。奥ぶたえの涼しげな目元に、細い眉。鼻筋の通った、整った顔立ち。
この容貌を目にして、緊張しないはずがなかった。
何故なら、彼女は彼が恋しいのだから。
「あ、あのぅ・・・」
もじもじして必死に次の言葉を少女は探す。何故、同じクラスなのに、もう入学して一年経つのに、いつまで経っても慣れないのだろう。いつだって、この涼しげな目の下に少女は胸をときめかす。好きだ、と彼女は胸の内で甘酸っぱく呟いた。
一方、何事かを言い澱んでいる女子と向き合って、男子・舞浜空人は『何故告白されるときは校舎裏と決まっているのだろう』と考えていた。
身も蓋もなくいえば、舞浜空人は、モテた。それはよく告白されるのと同義だ。女の子に「二人で話したいことがあるの」と言われて、校舎裏に来るよう呼び出されたら、告白だろうと断定できるくらいの経験則はあった。
彼は入学してから通算十回の告白を、パターンを分類し、集計して、傾向を頭の中で把握していた。同じようなことが何回もあると、つい分析するのが彼の思考回路の癖だ。今のところ校舎裏のシチュエーションが八割である。十回中八回はかなりの確率だ。一体恋する乙女の何が校舎裏に掻き立てるのだろう。校舎裏に呼び出しといえば、不良による暴力沙汰のイメージがあった少年思考の空人にとって、その心理はまったく不可解だった。
しかし、何故、自分はよく告白されるのだろう。空人は自分という人間を正確に認識していたが、それはいつも疑問だった。
刺すような冷たい風が容赦なく吹き付ける。
ぶるりと腹の底から身体が震えた。
同級生である女の子を見下ろす。女の子も身を縮めてぶるりと震えた。「さむっ」
空人は整った眉をひそめた。何より不可解なのは、この寒風吹く真冬の午後に校舎裏にわざわざ呼び出す戦略的根拠だ。うだるように暑い夏の日に呼び出されたときも不可解だし、というかいつも校舎裏に呼び出されるのが不可解だし。告白する場面として相応しいメリットがまったく不明だ。
まず、学校という生活空間に必需のゴミ集積所と焼却炉は告白のムードに適していないように思う。今日に至っては自分も告白相手も風邪をひく可能性が高くなる。真冬の外での待ち合わせは過酷だ。相手への配慮が欠けているといえないか。女の子は冷えたらいけないというから、本人にとっても良くないだろう。
しかし彼女たちは、「校舎裏で」と言う。
「校舎裏で」と言われて、他にそれに相応しい場所があるかといえば、該当するのは自由に出入りできて閑散としているスペース、必然的にゴミ集積所と焼却炉のある空間しかない。
八割の彼女たちの選択肢は腑に落ちないが、それでも、空人は索漠とした校舎裏に、生ゴミの臭いや雰囲気の欠如や、直接的に寒風が吹き抜けることを考慮した上でもなお魅力的な、女の子たちが掻き立てられるような何かがきっとあるのだろうと理解することにしていた。
何やら頭の中が混乱し、空人は眉間に寄った皺を自らの節くれだった長い指で揉み解した。八回目にしても自分には理解し切れていない、彼女たちがこの場所を選択してしまう理由を。
まあしかし、考えても仕方が無いという物事はあるものなので、とりあえず頭の隅においておく。
「多田さん」
「はっ、はい!」
「大事な話があるって、何かな。この後、生徒会行く予定があるんだ。多田さんの用事なんだから、多田さんが話してくれないと分からない」
びくり、と肩を上げて、彼女は目を白黒させて頬を染める。思い切り首を縦に振って、息をついた。
言われなくても、統計的根拠と、経験的根拠に裏付けられて、空人には彼女の用事を確信に近い形で予想できていた。
そして、答えも決まっていた。
「舞浜くんのことが、入学してからずっと好きでした。つ、付き合って下さい」
「うん。そうか、でもごめん」
す、と頭を下げる。
「多田さんとは付き合えない」
「あ、ううううん、分かった!大丈夫だよ」
ぱたぱたと手を振り、顔を赤くして必死に首を横に振る。
空人の胸の内が、澱んだ水が貯まったみたいに、重たくなる。
告白されて通算十回目、などと機械的に数えて分析しているが、毎回断るたびに、相手が悲しい、落ち込んだ顔をするのは空人の気分を沈ませる。
だからといって、彼女たちが可哀相だとか思わない。彼女たちは勇気を振り絞って、自分の気持ちを伝えたのだ。それは敬服に値する。
可哀相がるのも、罪悪感にいつまでも浸るのも、彼女たちに失礼で、こちらが振るのだから憎らしいくらいでいいと思う。
だから容赦なく空人は「じゃ、僕はこれで」と立ち去ろうとする。
と、足を止めて、振り向いた。
通算十回目。どうしても、気になることがあった。
肩を落としている彼女に訊いてみる。
「多田さんは」
「え?」
「もしかして、僕の恋愛について耳にしたことない?」
「や。噂は・・・聞いたことあるけど」
あるのか。空人は面食らう。
目を丸くしてこちらを見てくる彼女。思いも寄らない、という反応に、空人はまた頭の中が混乱するのを感じた。
「・・・それでも、告白したってことか。なんで?」
「・・・え、あの話って、本当なの?」
今度こそ、空人は衝撃を受けた。
*
都立鶴亀高校の生徒会室の室内は木調で、格調高さを演出している。
が、資料第一の生徒会。壁の棚にはぎっしりファイルが並んでおり、長卓の上には喫緊の案件に関するプリントがまとめて置いてある。事務運営に徹した生徒会室の趣がそのままにある空間だ。
木調の室内は、二年前に改装した際、校長室のあった場所をそのまま生徒会室に転用することになったから、校長室の内装の名残を受け継いだだけ。
しかし、生徒会室は威圧感があるくらいで良いと思う。
鶴亀高校生徒会副会長、新田克晃は長卓についたパイプ椅子に座って資料を見ながら、そう断定した。
「この内装、ほかの生徒も緊張しないか」
さっき生徒会の顧問の先生がそう言ってきたのだ。
そんなの気にするやついないよ~と笑顔でタメ口利きながら、何を言っているんだ、と克晃は内心、彼の発言を嗤った。生徒会の顧問の癖に、権力の使い方を全く分かっていない。
克晃は、生徒会は全生徒の総意であると同時に、全生徒を相手取った権力機構であると考えている。自主自立を重んずる鶴亀高校では、それくらいの認識でないと生徒会が生徒会として機能しなくなる。
四か月前に選挙で当選した新生徒会メンバーの許には、提案や嘆願が毎日のように届く。
自主自立を重んずる、それゆえ、何か問題が発生すると、手を変え品を変え生徒たちは自分たちの力で問題解決しようとする。部費を増やせ、売店に菓子類を増やせ、文具の貸し出し所を作れ。
当然それらの要望は、学校運営に一枚噛んでいる生徒会にぶつけられることになる。猫も杓子も生徒会から予算を捥ぎ取ろうとするのだ。
そんな魔の手と格闘しつつ、珠玉の提案と屑のような嘆願が玉石混淆、舞い込む生徒会では、必然的に合理化が求められる。それは、権威を傘に突っぱねることも時に重要であることも意味していた。
鶴亀高校は生徒会が強いとは聞いていたが、まさかこれほどまで攻防が激しいとは思わなかった。
克晃は生徒会に入り、忙殺されて三日で悟った。自分たちを当選させた生徒たちに、ナメられたら運営組織としての生徒会は終わると。生徒会のメンバーの精神は病み、予算は食い潰され、後には何も残らないと。校庭に人気アニメの銅像を作れというそんなアホなと思うような提案をして、突っぱねたら本気で怒ってきた生徒もいたことさえある。毅然とした態度で応じ、上手く制御して生徒会がバランスをとっていかなれば、自主自立を重んじる生徒たちが集まったこの学校でならば、好き勝手されてしまうのと紙一重。若さゆえに生徒会への革命さえ起こってもおかしくないのだ。
だから、例え雰囲気だけでも、自分たちのホームである生徒会室に威厳があることは良いことだった。
話し合いを設けなければならない場合、決定権が生徒会にあることをまず示さなければならない。
その上での、〝話し合い〟だ。正確な論理で相手を喝破し、より有利な条件を引き出すための、学校内の魑魅魍魎と渡り合うための大切なカード。
少しくらい傲慢でないと、頭からバリバリ食われてしまう。
克晃たち生徒会のメンバーは、自分たちの学校の特性を、よおく理解していた。
そのため、彼らは権威を纏うことに躊躇がないのである。
とはいえ、権力を傘に着て暴虐の限りを尽くそうというつもりはない。学校という場所は常に問題が山積みなのだ。それが生徒のエネルギーによって高められ、生徒によって昇華されている。それだけ。権力の使い方を誤ってはならない。
生徒たちの暴走を抑えるのも権威であり、また、生徒たちの要望や提案を羽ばたかせるのも権威なのである。
克晃は入学式の進行スケジュールを確認して、うん、と納得して頷いた。これなら大丈夫だろう。吹奏楽部が提案する曲目も、放送委員が提出した入学式音響のプログラムも、入学式に華を添えるであろう。自主自立、自分たちで相談して決めた提案だ。これは、支持すべき案件である。
吹奏楽部と放送委員への依頼を正式に奴に送るよう言おう。と、克晃は資料がぎっちり詰まっている棚の横にある、丸い銀縁の時計を確認して、溜め息をついた。件の人物は、急な用事がまだ終わらないらしい。どうせ、いつも答えは同じなのに、何故律儀に話を受けるのか謎だ。
いや、謎だけれど、その律義さが奴の人望に繋がっているのは分かっている。
ガチャ、と扉が開いて、黒に身を包んだ背の高い人物が入ってきた。
克晃は肘をついていた長卓から身体を起こし、背筋を伸ばす。
「遅かったな。うまいこといったか?」
「悪い、遅くなって」
黒革の鞄を椅子に置き、黒のロングコートをその上にばさりと置くのは、木調の内装にそれ以上の格調を与える存在感の男。
生徒会長、舞浜空人だ。
おいおい、俺の質問に答えろよな。問答無用の態度の空人に、克晃は肩を竦めた。いつも通りだだ漏れのカリスマ性を発揮している空人を眺めて、女ってこういう顔した男が好きだよなぁ、と思う。
涼しげな切れ長の目に、ノンフレームのシャープな眼鏡。白い肌に真っ黒な髪の毛がよく映える。例え空人が男であろうと女であろうと、この容貌は美しいといえるものだろう。中性的な美とは、なんと罪深いことか。
生徒会に入る前から、一目置いていた存在だったから空人にまつわる噂はさまざま知っている。中でも入学当初より女の子から受ける人気が際立っている。辿れば、それは中学、小学校の頃から変わらないものらしい。曰く、その容姿に目眩を起こす女の子が累々だとか。玉砕覚悟でぶつかってみようと思わせられるくらい、それは魅力的なのだ。
克晃を待たせた今日の『用事』だって、ほとんど断定的に、空人は告白されてきたのであって、またこれも断定的に、告白してきた女の子を振ったのだと、克晃は空人が何も言わなくても予想はつく。
ちぇっ。むかつくよなぁ。俺なんて女の子に告白されたことなんかねぇぞ。
克晃は内心そう思うが、口には出さない。色が浅黒く、短く刈った髪の毛は硬い。唇は分厚い。とんでもない不細工ではないにしても、克晃はせいぜいクラスの明るいムードメイカー。自分の分はわきまえているつもりだ。
せいぜい友人を妬みながら、「ほい、これ」仕事を増やしてやる嫌がらせをするくらいだ。
空人は資料を受け取って目を通し、「入学式か」と呟いた。
「もうそんな時期なんだな」
「俺たちも入学して一年経つってことだなー」
「ああ」
ん?と、克晃は首を傾げた。空人の表情に、陰が見えた気がしたのだ。
どんな表情をしていても、いつも美しく、堂々としていて、カリスマ性を放っている舞浜空人の顔に。
まさか。
克晃はおそるおそる、訊ねた。
「ソラ、もしかして何かに落ち込んでるか?」
珍しく浮かない顔をして資料に目を落としていた空人は、ちらっと克晃を見上げた。
「分かるか?」
ガタッ、と派手な音を立てて、克晃は立ち上がった。
「お前でも落ち込むことがあるのか!!」
「それくらい、あるだろう。」
呆れたように空人は克晃を眺め、ふっと溜め息をついて資料を長卓の上に置く。
克晃は珍獣を見るような心地で空人を眺めた。この憂いた表情も様になる、顔良し・頭良し・運動神経良し・性格良しの完璧人間が、落ち込んでいる。
『用事』で何かあったのか。
「告白されて、振ったら平手打ちされたとか?」
「振った女の子の平手打ちくらいなら、受け止めるのが男でしょ」
どこでそんな台詞を覚えるんだ。半ば感心しながら克晃は話を促す。
「じゃあ何だ、浮かない顔しているぞ」
空人は目をぱちくりとさせ、躊躇いがちに口を開いた。
「何故、信じてもらえないのだろう」
「は?」
「前から俺には婚約者がいると言っているのに、信じてもらえないのは、何故だ」
暫し、生徒会室に沈黙が満ちた。
考えあぐねた挙句、克晃は素直な疑問を投げかけた。
「お前、それ、本気で言っているの?」
「俺はいつも、本気で婚約者がいると言ってきた」
いやそういうことじゃなくて。
宝石のような黒い瞳は、真摯に訴えている。克晃は頭を抱えたくなった。空人は顔良し・頭良し・運動神経良し・性格良しの完璧人間だ。しかし、よく天才は馬鹿と紙一重とか、変わり者だとか言う通り、人とは感覚がずれているところがある。
良く言えば、人に流されず、独自の視点を持つ人間だが、周囲にいる人間にとっては常に彼の言動に振り回される、我が道をいく強引マイ・ウェイな人物なのである。
勿論、思いやりもあって、いい奴なのだが。
克晃は正面据えて、語りかけた。
「ソラ、婚約者がいるのは事実だろうけど、今の日本の高校でそれを言ったところでさ、物珍しいゴシップ程度だぜ。本当だろうが嘘だろうが関係ないっていうか、生徒会長舞浜空人にまつわる噂に過ぎないよ」
「本気で言っていても、か」
「冗談に受け取られたりする。〝婚約者がいる〟っていう言葉は、おもしろいだけで、それほど効力を持たないよ。だって、自由にさ、恋愛結婚したり、仕事しまくって晩婚したりする時代にさ、そんな奴、滅多にいないし、昭和大正の頃のイメージで絶滅している部類のもんだろうし」
「俺にとっては、現実だし、大事な彼女なのに」
「俺だって、お前の噂とかさ、聞いていたときは、なんだそりゃって思っていたぞ」
空人の目つきが鋭くなる。やれやれ、と克晃は息をついた。いつもそうだ。『婚約者』の話は、空人の地雷であるらしい。
「例えばさ、私立の坊ちゃん学校に通っている奴の話だったら、まだ信憑性あるよ。エスカレーターで進学しますみたいな。でもここは都立だから、まず一般家庭だしさ。そんな意識ねぇんだよ。結婚相手が小さい頃からいるような奴はいない。これから決めるもんだと思っている。『婚約者とかなくない?』とか、疑う奴の方が多いぜ、きっと」
弁解するように、ひとつひとつ説明すると、納得できないのか渋い表情をしながらも、空人は首肯する。
納得できないのもそりゃそうだろう。生徒会に入ってから知ったが、空人はとんでもないお坊ちゃんで、基本的に〝私立のお坊ちゃん学校〟にいるような人間に近しいのだから。
克晃が「ソラ」と呼ぶほど、舞浜空人と親しい間柄になったのは、生徒会に入って彼の懐刀として働き始めてからだ。
『婚約者』の事実も、空人の背景も、知ったのはごく最近。
入学当初から、噂はたくさんあった。全科目満点で入試を通った、とか。身体能力測定でぶっちぎりの記録を残して、学内全ての体育会系クラブから入部の勧誘をされた、とか。そして、「婚約者がいるから」と女子からの告白を断った、ということとか。
いろいろと目立つ存在だから、なるほどそんな奴らしい、という認識を持つ噂が多かった。が、婚約者云々ばかりは、どんな都市伝説だよ、と克晃は鼻で笑っていた。いくらなんでもそんな時代錯誤はないだろう、誰かの悔し紛れの作り話が風聞として伝わっているのではないか、と思っていた。
しかし、生徒会のメンバーが決まって、初めて顔合わせをしたとき、それが鼻で笑ってはならないことなのだと知った。
何せ、完全無欠・普段は好青年の舞浜空人が、補佐役の生徒会の先輩から「お前、婚約者いるんだって?告白断るならもうちょっと上手く言えよ。意外と頭ん中メルヘンだな」と揶揄され、その麗しい顔に氷のような冷たさを乗せ、室内温度を氷点下に突き落とし、キレたのだから。
「僕に婚約者がいるのがおかしいですか。いますが。本当に、いますが。可愛くて大事で唯一無二の婚約者がいますが何かおかしいですか先輩」
その目は「ぶち殺しますよ」という物騒なメッセージを矢にして先輩を射竦めた。
生徒会室に集まっていた全メンバーは、その時、滅多に見ない舞浜空人の黒いモノを目撃し、一様に「今後彼の婚約者については触れないようにしよう」という認識を持った。それから「どうやら彼は婚約者にひどく執着しており、彼女に強い愛情を抱いているらしい」とも。
舞浜空人にとっては、とても大切に思っている『婚約者』の存在を否定されるのは、ひどく心外なことなのである。
否定されるのが嫌なのなら、隠しておけばいいものを、『婚約者』がいるからと堂々と女子からの告白を断る。自分で『婚約者』をいないことにするのも、嫌らしい。
都立高校に通ってはいるが、舞浜空人は一族めいめいが何かしらの経営者である、言わば財閥の御曹司だ。
だからか、そういった意味でも感覚が克晃とは少し違う。最初は天然なのかと思った。しかし、大真面目な顔をして入学するまで電車に乗ったことがなかったと言われたとき、克晃は驚愕とともに空人を追及し、あっさりと彼が「坊ちゃん」であることを聞き出した。
おいおいまじかよ。
完璧人間にどんどん上乗せされていく身の上は当たり前のように絢爛だ。
『婚約者』のことも、ただ単に訊ねるだけならば、空人は話した。
子供のときから婚約者が決まっていたということ。子供のときから、一つ年下のその女の子のことが大好きだったこと。昔も今も、お嫁さんは彼女以外に有り得ないと思っている、ということ。
婚約者がいるのが当たり前の環境で、子供のときからそう教えられてきて、自我が芽生えても変わらぬ思慕を抱いている。伴侶となる人間が子供の頃からいることを克晃は想像できないが、空人の反応を見れば、否定されたら怒りを感じるであろうことは、納得できた。
空人にとって、その『婚約者』がいない人生は、最初から有り得ないのだ。
空人の周りには、少ないとはいえ彼のように『婚約者』がいる人間もいるのだという。だから、その手の話もすぐに通じるし、納得してもらえる。
『婚約者』がいるとかいないとか、そういう話がすぐ広まるのは、社会的階層が違っても同じである。異なるのは、その話がどう捉えられるか、だ。
彼は毎回、「婚約者がいるから」と告白を断っている。その話が広まっていることも黙認している。なのに信じてもらえていない。『婚約者』を冗談だと認識されている。空人にとっては、それは全くもって、不可解な現象なのであった。
肘をついて、その掌に顎を乗せる。憂えたように顰められた眉と頬の角度に、黒髪がさらさらと縁取る。
「あくまで〝おもしろい話〟、〝くだらないゴシップ〟か。確かに、それだと事実だろうが、偽だろうが、関係ないな」
憂鬱そうな顔をして髪を押さえる。
「ただの噂、なら、好きだと告げるのも意味のない行為ではない、か」
そんな、ひとつひとつの仕草でさえ画になる同輩を、克晃は半ばげんなりしながら見やる。
この上なく美しい男子、空人は、髪を掻き上げ、身体を反らせ、嘆いた。
「俺が愛しているのは彼女だけなのに!!」
ほらきた。この、重たい主張。
告白されて、断るたびにこれだ。
空人は尊敬できる人物である。が、こればっかりは破綻している。
「お前さあ」
「なんだ」
「他の女に目がいったりとか、しないわけ」
「するわけないだろう」
「好きな女の子のタイプとか」
「彼女がいるから他の類型は関係ないだろう」
「お前、男としての性欲はどうした」
「彼女以外に向くものか」
こいつ気持ち悪い。
克晃は素直にそう思った。
「お前の婚約者は大変だなー。お前の濃度の高い愛情受けなきゃならなくて」
半眼で相手を見やって平坦な声で言えど、きりっとした表情でまともに返された。
「ああ、大変だろう。だけど彼女は応えてくれている」
すげぇ。『彼女』が。
「お前のその尋常じゃない性欲をか」
「何言ってるんだ。応えてくれているのは愛情だ。結婚するまで手を出すわけがないだろう」
「え?!」
小さい頃からずっと一緒にいる『婚約者』なのだから、またとっくに手を出しているものだと思っていた。
「そんな馬鹿な!!好きな人が婚約者でよく我慢していられる・・・」
「ああ」
また、大真面目な顔で答えた。
「俺が襲ってきたら容赦なくぶちのめすよう言ってある。それが可能なよう、護身も兼ねて彼女は合気道を体得している」
「前から思ってたけど、お前、気持ち悪い!!」
同性からの非難とも驚愕ともつかない叫びに、また、至極真面目な顔をして頷くのだ。
「俺の恋愛観は偏執的で偏狭だ。だから彼女を可能な限り大事にしないと、ただの変態になる」
舞浜空人は、自らの恋愛観や性癖をも、正確に把握していた。
完璧に見える人間でも、どこかしら欠陥があったり、おかしなところがあったりするという。
克晃が舞浜空人という同輩に抱く感想は、まさしくそれに一致している。眉目秀麗、強力なリーダーシップ、洗練された所作、他人を惹きつけて止まないカリスマ性、人望を集める率直な人柄。そんな完璧な高校生が唯一、壊れているのが、『婚約者』もしくは『彼女』のことについてである。
どんだけ大事にしているんだよ。
その純度の高い思いに、克晃は信じられない気持ちになる。
ご多分に漏れず、克晃は恋人や結婚相手は、それなりに出会い、付き合い、別れ、何人か経ていずれ本物と巡り合うものだと思っている。それが一人なのか、二人なのかはわからない。結婚相手は条件次第ということもある。もしくは恋は関係ないかも知れないと思う。少なくとも、好き合って結婚したいというささやかな願望はある。そして性欲はまた別物だろうという認識もある。でなければ世の大人ビデオはどうなるのかと思う。
だから、恋人と結婚相手が合致しており、宇宙からすべての周波数をキャッチする高精度アンテナのように、一点に女性への思慕が凝縮されている空人がとても奇妙に思える。
大変な偏愛だ。
が、少し羨ましい、とも思わなくもない。
もしも、そういう相手がいて、そして応えてもらえるのなら、とても幸せじゃないか。
しかし、あくまで〝少し〟そう思うだけで、克晃は基本的に女の子に興味のあるお年頃の男子である。
モテモテ美形のくせに、勿体ないとか、甲斐性ないとか、やっぱり変態じゃないかとか、そういうところに落ち着いてしまう。
生徒会女子たちが、一途に想われて羨ましいと言っていたけれど、それにも首を傾げてしまう。
・・・まあ、女の子たちもそう言っていたのは最初だけで、今は引いているけれど。
感服したような、呆れたような心地で、溜め息をついた。
「ソラの重たい愛を受けている涙ぐましい『彼女』に会ってみたいよ」
すると、空人は一瞬間を空けて、「まあ、今後すれ違うこともあるかも知れない」と呟いた。
「四月にうちに入学することになっているから」
「・・・・・・えっ?!」




