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第七話

「ちゃんと手洗いうがいしなさいね」

「はいはい」

 いつも帰宅時に口酸っぱく繰り返される母さんの言葉を聞き流しながら、洗面所で手洗いを適当に済ませると、僕は早々に自室に駆け込んだ。いつも通学に使っている紺のリュックサックを開いてがさがさと中を漁ると、「モモ」が出てきた。

「よし」

 僕はこの分厚い本を両手に持ちながら、自分のベッドにごろんと寝ころんだ。図書室ではちゃんと椅子に座って本を読んでいるけれど、家で本を読むときの定位置はここだ。行儀よく椅子に座って本を読むよりも、ベッドでだらっとしながらの方が集中できる。そういう意味では僕は図書室が殊更好きだというわけではない。学校の中で静かに、集中していろんな本を読める場所があそこくらいだから通っているだけだったりする。

 ふと、蒼井のことを思う。彼女は家で本を読むとき、どんな様子なんだろうか。

 初めて会った時のようにぴしっと背筋を伸ばし、勉強机に向かって本を読む姿を想像する。いつものように目を輝かせながら食い入るようにページをめくる蒼井は想像にたやすい。

 でももしかすると学校での様子と違い、家ではちょっとだらしなかったりするのかもしれない。僕みたいにベッドでごろごろしている蒼井を想像する。かわいいパジャマでぬいぐるみを抱えながら楽しそうに本を読む姿をイメージして……ちょっとドキドキした。

「……いけないいけない」

 首を横に振って頭を冷やし、本を開いた。

 ページをめくるに従って、文章が頭に入ってくるのがスムーズになっていく。僕はこの、頭の中にある読書を司る装置が段々と回転数を上げていくかのような感覚が好きだ。白い背景とそこに記された黒い活字だけが視界を支配し、五感のすべてが本から得られる情報に置換されていく。ページをめくる触感や本の匂い、作中で描写されるワインの味や風の音など、実感覚でもイメージでも頭の中が本でいっぱいになる。

「悠希ー、夜ご飯よー」

 半分くらい読み終わったところで、母の声で意識が現実に急浮上させられる。意外に思われるかもしれないけど、僕はこの瞬間も嫌いじゃない。自分の意識が本の中に吸い込まれるくらい今読んでいる本が面白いということを実感できるから。

「今行くー」

 食卓にはホワイトシチューとフランスパンが並んでいた。スプーンですくったシチューを嚥下し、ジャガイモをぱくつくとその熱で体が温まっていく。十月に入ってだいぶ寒くなってきたのにもかかわらず、本に熱中しすぎていて暖房をつけるのを忘れていたから僕の体はすっかり冷えていたみたいだ。

 ひとしきりジャガイモを咀嚼したので、次はフランスパンに手を伸ばした。

 余談だけれど、フランスではフランスパンを買う時に「フランスパンください」では通じず、「バゲットください」と言わなければならないらしい。パン屋に行ったとき、言葉が通じず母さんがあたふたしていたのでよく覚えている。ちなみにパンが日本と比べて特別美味しいかと言われると、僕にはよくわからなかった。まだ僕が子供だからかもしれないけど。

 食事を進めながらさっきまで読んでいた本について考えを巡らす。月曜日にまた蒼井と会ったときに感想を言い合うことになるだろうから今のうちに考えをまとめておこうと思ったんだ。

 「モモ」のメインの登場人物は、主人公のモモとその友人の道路掃除夫のベッポ、観光案内のジジ、カメのカシオペイア、そして時間を管理するホラだ。

 モモは、特別な子だ。特に何かに秀でいているようなことはないけれど、ただいるだけでみんなを楽しい気持ちにさせ、喧嘩をしている二人の大人を仲直りにさせてしまうような、不思議な引力を持つ女の子。

 食事を終え、再び本の世界に戻るためにいそいそと子供部屋に戻った僕は、少し思ったことがあった。

「なんだか、モモって蒼井みたいだな」

 そこにいるだけでみんなのことを幸せにする存在。話すのがうまくない僕でも、不思議といろいろしゃべってしまう雰囲気。モモに似てるね、などと言ったら蒼井は怒るだろうか、喜ぶだろうか。

 そんなことを考えて本を開いた瞬間だった。

『カシオペイアって、なんか、似てる気がする』

 突然、どこか聞き覚えのある穏やかな声が僕の体を通り抜けた。びっくりした僕は、バタン! と大きな音を立てて本を閉じる。

 今の声は……なんだ?

「どうしたの? 悠ちゃん?」

 たった今子供部屋に入ってきた三つ歳下の妹、桜が不思議そうに目をぱちくりとさせて僕のことを見ていた。そうだ、桜は今の声を聞いただろうか? それなりに大きな声だったから聞いていてもおかしくない。

「なあ、桜。今……なんか声が聞こえなかったか?」

 僕の問いに対し、桜はきょとんとした顔で首を振る。

「ううん、悠ちゃんが本を閉じた音しか聞こえなかったけど……。悠ちゃんがそんな風に本を扱うなんて、珍しいね」

 本を閉じた音は聞こえたのにそれより大きなあの声が聞こえなかった……? 不可解だ。

 疑問を解消するためにさらに質問をしようとするも、桜は僕の様子に興味を無くしたのか自由帳にお絵かきを始めてしまった。能天気な妹の様子を見て、僕もすっかり気が抜けてしまう。

「とりあえず、一旦別の本読むか……」

 謎の声のせいですっかりビビってしまった僕は「モモ」の表紙の白黒のイラストにすら不気味さを感じてしまい、その後の土日、「モモ」をカバンの奥底に突っ込んで一度も開くことがなかった。

 蒼井にはなんて言い訳しようか。せっかくの土日は、そんな憂鬱な思考と漢字書き取りの宿題だけで潰れてしまった。はぁ……。


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