第三話
蒼井の人助けを身をもって体感する機会は思いの外、早くやってきた。それはその日の四時間目、図工で一組と二組が合同で行う授業の一つだった。
「新学期になったということで今日からみなさんに新しい図画工作に取り組んでもらうんですが、口で説明するより見たほうが早いと思うので……ちょっと待っててくださいね」
そういうと先生は準備室の奥に一度引っ込んだ後、大きめの工作物を両手で抱えながら現れた。その工作物は段ボールや画用紙で作られた迷路のようなもので、底のポケットのようなところにはいくつかのビー玉が転がっていた。
先生はそのうちの一つを持ち上げ、工作物の上部の「スタート!」と書かれている部分に移動させ、手を離した。
先生の手から離れたビー玉は画用紙で作られた坂道を下りながら段々と加速をし、カーブや一回転、果てにはその勢いでジャンプしたりして、最終的に「ゴール!」と書かれたポケットに飛び込んだ。
「おー!」「スゲー!」「かっこいいな」
色鮮やかなビー玉が飛んだり跳ねたりする度、同級生の声が沸き立っていた。僕も声は上げなかったものの、こういう工作物は結構好きだからワクワクしながらビー玉の行方を目で追っていた。
僕たちのざわめきがひと段落したところで図工の先生が口を開いた。
「ということでね、みなさんにはピタゴラスイッチを作ってもらいます」
ピタゴラスイッチという割にはただビー玉が道筋に沿って転がっていっただけのように思うけれど、言わんとしていることはわかる。
図工の先生は再び準備室に戻り画用紙や段ボールなどの資材の入った箱を運んでいると、一人の女の子が席からトコトコと歩いて行った。
「先生、手伝いますよ」
「あら、ありがとう蒼井さん」
ハサミなどの工作道具が入った箱を受け取った蒼井は、少し重そうな様子でゆっくりと運んでいた。
「穂波が手伝うなら私もー」「しょうがねーなー、オレも手伝うか」「僕もやるよ」
「他の子もありがとう。でも二、三人くらいでいいですよ」
普通だったら「いい子ぶりやがって」なんて他の子から疎まれかねないような行動だったけれど、この学校ではそんなことは全くなくて、むしろ彼女に感化された子が何人も手伝いを買って出ていた。
誰がやったかより何をやったかが大事、みたいなことをどこかの本で読んだ気がするけれど、実際は「誰がやったか」の方が大事だよな、とその様子を見てぼんやりと思う。まあ少なくともそんなことを考えながらボケっと座っている僕よりも蒼井やそれに感化されて動いた子たちの方がよほど立派な人だと思うけれど。
「はい、みなさんの協力のおかげですぐに準備が整いました。ありがとう」
それぞれの机に資材と工作道具が行き渡り、先生が再び話し始めた。作業の流れやコツを一通り説明した後、注意事項をしゃべりながら黒板に列挙していく。そして最後に、と先生は区切りをつける。
「ハサミ、カッターを使うときは十分気をつけるように。画用紙同士をくっつけるときにセロハンテープだとごちゃごちゃしそうなところはホッチキスを使うと綺麗に出来ますよ。では始めてください」
先生の合図で作業がスタートする。ほとんどの子はいきなり画用紙の切り貼りから始めていたけれど、ちょっと賢い子たちはどういう模型にするかをイメージした下書きみたいなものを描いていたりした。僕も普段ならそうやっていたかもしれないけど、今日は他の大多数の子たちと同じようにハサミを手に取って紙を切り始めた。
少し作業が進むと、紙の道、線路みたいなものがいくつか出来上がっていき、それを繋げる工程に入った。みんなは基本的に紙を留めるのにセロハンテープを使っていたけれど、僕は基本的にホッチキスを使っていた。
小学校で使う文房具の中で、ホッチキスは飛びぬけて複雑な構造をしている。僕は中で何が起こっているかわからないミステリアスなこの道具がかなり好きだったけれど、小学校の授業でホッチキスを使う機会というのはそう多くはない。
前に特に留めるものもないのにホッチキスをカチャカチャとしていたら一箱分の芯を使い尽してしまい、こっぴどく怒られたことがあった。なので今日のように自由にこの道具を使える機会は貴重で、どうせなら出来る限りいじっていたかった。
「そのカーブみたいなやついいなあ。どうやって作ったの穂波?」
「これ? これはね、片側だけ縦にいくつか切れ込みを入れるとうまくいくよ。亜衣ちゃん、先生がちゃんと説明してたの聞いてなかったな~?」
「エ、エーソンナコトナイヨー」
黙々と作業を進めていたら、二組の机の方からそんな会話が聞こえてきた。そちらを見ると、蒼井の工作物は明らかに他の子たちより完成度が高い。蒼井は勉強も運動もできる、というのは岩崎くんが言っていた気がするけど図工もそうらしい。最近読んだ小説に出てきた「才色兼備」という四字熟語が思い浮かぶ。
そちらに気を取られながらホッチキスを閉じたとき、その感触に違和感を覚えた。さっきまで画用紙に対して使っていた感触と全然違う、やわらかな触感。恐る恐る目線を手元に向ける。
「あっ」
そこには、深くホッチキスの芯が刺さった左手の親指があった。よそ見をしていたために画用紙ではなく、親指を挟んだままホッチキスを閉じてしまったようだ。
後になって冷静に考えてみれば、先生に声をかけ保健室に行って処置をしてもらうだけでいいような他愛のない出来事。でも小学三年生で、それまで怪我らしい怪我をしたことがなく、注射も苦手だった僕は……パニックになってしまった。
「はあ……はあ……はあ……」
過呼吸に陥って声を上げることもできず、震えた手では挙手することもできない。隣の同級生は自分の工作に夢中だ。
自分の窮地を誰にも気づいてもらえない。それは夢の中で溺れた時のような苦しみで、悪夢と違うのは目が覚めれば解放されるわけじゃないところだ。
どうすればいいか全く頭が働くなって左手を抑えて塞ぎ込むことしかできない僕は、このまま死んでしまうのかなんて考えてしまう。
その時だった。
「一ノ瀬くん、大丈夫?」
背後からそっと声がかけられるとともに、ぽんと肩に手が置かれた。混乱する頭を整理できないまま後ろを振り向くと、そこには心配そうな顔をして僕を覗き込む蒼井の姿があった。
「なにか、あった?」
落ち着いて、と語り掛けるような彼女の透き通るような瞳に見つめられ、動揺していた心が少しだけ落ち着いた。
「……ホッチキスの芯を、指に刺しちゃった」
パニックを抑えながら、ゆっくりと蒼井に自分の状況を伝える。それを聞いた彼女は僕の手を上から握り、そっと開いて親指を確認した。
「うわ、ホントだ。保健室に行かないと!」
そう言うと蒼井は僕の肩をそっと抱いて、「先生!」と声を張り上げた。先生だけでなく周囲の子たちの視線も一斉にこちらに集まって来て、いたたまれない気持ちになる。
「一ノ瀬くんがホッチキスの芯を指に刺してしまったみたいで、保健室に連れて行ってもいいですか?」
蒼井が僕の代わりに先生に事情を話す。この程度のことすらできずに女の子に介抱されている自分に対し、情けない気持ちやら恥ずかしい気持ちやらで顔が真っ赤になる。蒼井の言葉を聞いて駆け寄ってきた先生が、僕の傷口を見て困った様子で口を開いた。
「保健室じゃないと処置できなさそうね……。蒼井さん、お願いできる?」
「わかりました。一ノ瀬くん、行こっか」
そう言った蒼井は足元が覚束ない僕の肩を支えながら、ゆっくりと廊下へと誘導した。
こんな出来事があれば今までの学校なら囃し立てられるのが必至だったけれど、ここではそうではなかった。おそらくみんな、今の僕と似たように蒼井に助けられた経験が大なり小なりあるんだろう。「ああ、いつものか」といった雰囲気が伝わってきた。
保健室に向かう道中でも、蒼井は励ましの言葉をかけながら、ずっと寄り添ってくれた。
「もうすぐ保健室だからね、痛くない?」
「うん……大丈夫」
親指には少し血が滲んでいたけれど、あまり痛みを感じなかった。それがアドレナリンだとかそういった影響によるものなのか、それとも僕に寄り添う蒼井の柔らかな感触に気を取られているからなのかは、考えてもよくわからなかった。
蒼井からふわりと漂ってきたゆずの香りに「どんなシャンプーを使っているんだろう」などと益体もないことを考えることで僕の頭の中はいっぱいだった。
保健室に到着してからは、保険の先生が「あらあら大変ね」と全く大変そうに見えない様子で僕の左手を見ると、慣れた手つきでピンセットと消毒液を取り出してさほど時間も要さずに処置が終わった。
「びっくりしちゃったみたいだし、この時間は保健室でお休みしましょうか」
保険の先生は僕の親指に絆創膏を貼りながらそう提案してくる。その言葉は正直ありがたかったので、僕はこくりと頷いた。
「……はい」
僕の返答を聞くと、隣に座っていた蒼井が尋ねてくる。
「じゃあ教室に戻るけど、大丈夫?」
蒼井は僕を保健室まで連れてきた後も残っていて、処置を見届けていた。そこまでしてもらわなくても大丈夫なのに、と呆れる気持ちと彼女が横にいることにどこか安心感を覚えている自分がいて、乖離する二つの自分の感情がまとまらず、思考がふわふわとしていた。
「うん……」
「よかった。お大事に、一ノ瀬くん」
かろうじて応答すると、蒼井は安心したような笑顔を浮かべて保健室を後にしようとした。そこでようやく頭の混乱が落ち着いてきた僕は、何かを言わないと、という気持ちで口を開いた。
「あ、あの……蒼井」
「うん?」
僕は、あまり話すのが得意じゃない。特に自分の心がまとまっていないときに適当にしゃべるのが苦手だ。だから今も、まとまらない思考では何を言っていいのかわからず、たっぷり五秒は考えてからやっとの思いで一言だけ言葉を発した。
「……ありがとう」
「ん、どういたしまして。また今日図書室でね」
僕がなんとか口にした感謝の言葉を聞いた蒼井は、にこっと笑って保健室の引き戸をそっと閉じた。
僕はまだまとまらない頭で、彼女の閉じた引き戸をボーっと眺めていた。先ほどまで支えられていた肩には蒼井の暖かさが残っている気がして、そこに少し熱を感じた。その熱が彼女の体温によるものなのか、僕自身の体温上昇によるものなのかは、わからなかったけれど。




