第二話
蒼井穂波が男女どちらからも好かれる人気者だということは、三日も学校に通えばすぐにわかった。
「穂波ちゃん、鉛筆貸してー」
「もう、奏はいっつも忘れ物するんだから。次からは気をつけなよ?」
「やったー、穂波ちゃん好きー」
「はいはい、ありがと」
……こんな会話がまあ頻繁に聞こえてくる。
彼女は隣の二組に所属していたけれど、授業の合間にある十分そこらの休み時間の二回に一回はこちらの教室に来ており、友達と歓談していた。
忙しなくあっちへ行ったりこっちへ来たりするたびに、トレードマークのポニーテールがぴょこぴょこと跳ね回っている。
「蒼井、昨日更新された最新話見た?」
「あー、見た見た。すごかったよねー。でもまだ見てない人がいるかもしれないからネタバレ注意ね?」
女の子同士でばかり会話している、というわけではなくて、男子ともよく雑談をしていた。それも男子側の話題で盛り上がれていて、男子側も女子だということを意識しすぎずに会話していた。
「蒼井ー、今日の昼休みドッチボールしよーぜ」
そんな中、休み時間は毎回校庭で球技遊びをしている山本くんが、何気なく誘いをかけていた。その言葉に僕はぴくっと反応する。「昼休み」という言葉に。
「あー、ごめんね。昼休みは予定あるんだ」
蒼井は困ったように誘いを断っていて、僕はその返答にどこかほっとしていた。
「いつもの図書室通いかよー。たまには外で遊ぼうぜ、運動神経いいんだからさ」
「あはは、考えとくー」
蒼井は笑顔で手を振って答えた後、「そろそろ休み時間終わりだから」と言って自分の教室に戻っていった。
蒼井と出会ってから毎日昼休みに図書室で顔を合わせてはいるものの、それ以外の時間や場所で彼女と言葉を交わすことはない。なので普段の蒼井は一体どんな人なのか、少し気になった。
「あのさ、あのポニーテールの女子って知ってる?」
僕は隣の席の奏多にそれとなく探りを入れる。彼女の名前は当然覚えているけれど、あの図書室での出会いはなんとなく話したくなかったから知らないふりをした。
「あー、蒼井? そりゃ知ってるけど……おい、悠希」
「な、なに……?」
奏多が急に声のボリュームを下げて声を近づけてきた。
「お前、蒼井に惚れた?」
「……何だよ急に」
「いやー、あいつは倍率高いぞー? オレが知ってるだけでも五人は蒼井のこと好きだからな」
「そんなんじゃないって」
そんなんじゃない、少なくとも今はまだ。
奏多は僕の言うことをあんまり信じてなさげだったけど、そこをつつくタイプでもなかったから一旦スルーして話を続けた。
「蒼井は……まあ三年生の人気者だよ。明るくて友達も多いし、性格もめちゃくちゃいい」
「性格がいい……って具体的には?」
「そうだな……困っているやつがいたら絶対放っておかない、って感じだな。というか、そういう困っているやつを見つけるのがすごくうまい」
「困っているやつを見つけるのがうまい? どういうこと?」
困っている人を助けたがる、というだけであればまあ酔狂なやつというだけだけれど、困っている人を見つけるのがうまい、という論評は何か不自然だ。
「例えばその日の教科書を忘れたとするじゃんか。で、運が悪いことに忘れた教科はフランス語で担当はあのフランソワーズ先生だ」
「あー、あの怖そうな……」
まだ一度しか対面したことはないけれど、常時しかめっ面をしている女性の先生だ。日本語が堪能というわけでもないので、怒らせてしまったときに意思疎通できるか不安だなと思っている。
「悠希、一つ訂正させてくれ」
「なに?」
「フランソワーズ先生は怖そう、じゃなくて怖い」
奏多は心底から震えているような表情を浮かべながら僕にそう告げた。肝に銘じておこう。
「あー、うんわかった。わかったから続けて」
「よし。で、忘れたことに気付くと血の気が引くわけだ。でもだからといって同じクラスのやつからは教科書を借りられない」
「授業同じだからね」
「ああ、でも隣の教室に行って教科書を貸してくれ、なんて言える相手もいなかったりする。そうなると普通は詰みだ」
「なるほどね」
隣のクラスに仲のいい友人がいる、なんていうのは普通の学校なら当たり前にあることなんだろうけど、転校生からすればそんなことは滅多にない。パリニチはその特性上、転校生ばかりなので隣のクラスに友達が誰もいない、なんてことは珍しくもなんともない。
「どうしよう、そう頭を抱えるけど誰にも相談できない。そんな時に現れるのさ、ヒーローみたいに」
「ヒーロー?」
奏多の口から、女の子を形容する言葉としてまるで適していない単語が飛び出る。そこはヒロインとかではないのだろうか。まあヒロインと言われたらどちらかと言えばお姫様のように助けられる側を思い浮かべるから適切ではないのだろうけど。
「そんでこう言うんだ『教科書忘れたんでしょ、貸してあげるよ』ってな」
なるほど、ピンチな時に現れて助けてくれる、という人物を形容するのにヒーローという言葉ほど適しているものは他にないだろう。でも、少しおかしいことがある。
「でも、おかしくないか。その人は何に困ってるかなんて誰にも何も言ってないんでしょ。どうやってフランス語の教科書を忘れたってわかるのさ」
担任の先生だって、困っている子がいたとしても何も声を上げなければ気づいてなどくれないだろう。それを小学三年生の一人の女の子が網羅できるなんてちょっと異様だ。
「だから言ったろ、困っているやつを見つけるのがうまいって」
「答えになってないけど」
「オレだってわかんねえよ、でも蒼井はそういうのを嗅ぎつけるのがうまいんだ」
「なるほど、確かにヒーローだ」
路地裏で悪役に襲われている女の子の前に現れて助け出すヒーローを思い浮かべる。ああいうシーンを見るたび思うけれど、ヒーローはどうやってみんなのピンチを察知しているんだろうか。というかヒーローはあらゆるピンチを察知して駆けつけてるのではなく、たまたま助けたシーンだけ切り抜いてるだけなんだろう。
「……ヒーローに助けられる人って運がいいだけなんじゃないかって思わない?」
「……なあ、悠希。お前の頭の中で何が起きてるかはわかんないけど、話が飛びすぎだ」
「あっ、ごめん」
僕はあんまり話すのが得意じゃないのに、頭の中ではいろいろ考えてしまうからこういう会話の齟齬が良く起きる。岩崎くんは呆れはするものの気にした風もなく話を続けた。こういうところが僕にとってはありがたい。
「まあいいけどさ。んでさ、蒼井は他にも体育でこけて泣くのを我慢してるやつ、石ころ蹴って遊んでたら窓ガラス割っちまって焦っているやつ、宿題が終わってなくて頭抱えてるやつ、そんなやつらの前に颯爽と現れるのさ」
「そりゃすごいね……」
底抜けに優しい女の子、と言ってしまえばそれまでなんだろうけど、何も言わずとも助けてくれてしかも違うクラスでもお構いなしなんていうのは、言い方は悪いがちょっと異常だ。
「まあそんなわけでうちの学年のやつらは、全員蒼井と大なり小なり仲がいい。でそういうところに加えて成績もいいわ、可愛いわでまあ何人かはあいつのこと好きになっているわけだ」
「……ふーん」
「というわけで、アタックするなら覚悟しとけよ?」
「だからそんなんじゃないって」
しつこい奏多をあしらっていたら、先生がやってきて騒がしい子たちの雑談を諫め始めた。いつの間にか次の授業が迫っていたようだった。
蒼井が人気者というのは彼女の明るさや人懐っこさを見れば明らかだったけれど、ヒーローみたいな女の子、というイメージは持っていなかった。そもそも僕に人のイメージを正しく見抜く能力なんてないのだからそのこと自体は別に不思議でも何でもないけれど。
でも、いろいろな学校を渡り歩いていた中でも、男女両方からヒーローと称されるような女の子は初めて見た。
「まるで、主人公みたいだ」
困っている人をいち早く見つけて助けてしまう、正義の味方。物語にそんな人物が出てきたら十中八九、主人公を張っているだろう。僕にはなれない、なれるわけがない、そんな存在。
算数の教科書をカバンから取り出しながらふと窓の外を見る。今日のパリの空は僕と太陽を分断するかのような、厚い、厚い、灰色の雲に覆われていた。




