第十七話
本屋を出てすぐに渋谷のJR線ホームから飛び乗った湘南新宿ラインで、俺は乗り換えることなく鎌倉に到着した。所要時間も片道一時間かからないくらいで、思っていたよりも全然近かった。
蒼井に言われたように若宮大路を南に十五分歩くと広い砂浜と一直線に続く水平線が現れる。
沈みゆく西日に照らされた夕方の由比ヶ浜は、想像していたよりも人が少なかった。
釣りやマリンスポーツに興じている人もこの時間にはもうおらず、カップルが広い砂浜に数組戯れているくらいだった。
だから海風にたなびく髪を抑えながら水平線を見つめる少女は、すぐに目に入った。
ポニーテールではなくストレートになっていた黒髪も、身に纏っているセーラー服も、追い越してしまった身長も、何一つ俺の知る姿ではなかったけれど、それでもその少女が六年間追い求めてきた人だと理解できた。
一歩、一歩、砂浜に足を取られながら彼女に近づく。スニーカーの隙間から紛れ込む砂粒の不快さすら、今は気にならない。
「蒼井……?」
呼びかけに反応したその少女は体を半回転させてこちらを振り向き、俺の姿を確認してこう言った。
「久しぶり、一ノ瀬くん」
そう告げた女の子は、間違いなく成長した蒼井穂波その人だった。
「……あぁ、久しぶり。蒼井」
名前を呼ばれただけで思わず感極まってしまう。
目に入った砂を取り除くふりをしながら、溢れそうになった涙を拭う。この再会で涙を見せるのは、あまりにも情けなさすぎると思ったから。
その後砂浜に並んで座った俺たちは他愛ない雑談をしてから蒼井と別れて以降に何があったかを話し始めた。
蒼井が日本に帰国した直後に自分も帰国することになったこと。そのどさくさで蒼井の手紙と連絡先を紛失してしまっていたこと。今は東京に住んでいること。
そこまで話した俺は、隣に座る蒼井に頭を下げた。
「約束したのに手紙を送れなくてごめん」
「一ノ瀬くんが謝ることないよ。いきなり帰国になって手紙なくしちゃうなんて想像つかないし」
「それでも、約束破ったから」
「真面目だなあ。……それで、確認なんだけど手紙は読んでないんだね?」
「え? うん、読む前に」
「ふーん、そうなんだ」
「……?」
何か裏のありそうな様子を不思議に思ったが、一旦は脇において帰国してからの蒼井のことも教えてもらった。
ついこの間まで父と東京に住んでいたそうだが、高校生活を機に鎌倉で一人暮らしを始めたとのことだった。
蒼井の父親(今でもやっぱり筋肉ムキムキらしい)はビジネスマンで家にいることが少なく、元から家事は蒼井自身がやっていたからせっかくなら高校の近くに住めば良いということになったらしい。
「自然と歴史、海と山、街の雰囲気。遠足で来るたびに好きだなって思ってたから、自由に進学先を選んでいいって言われた時は真っ先に思い浮かんだんだ」
「観光地のイメージがあったから人混みが多いかと思ってたけど案外そんなことないね」
実際駅前は混んでいたが、大通りを下っていくと歩道が広いのもあって混雑は全く感じなかった。
「そうそう住宅街もあるし意外に静かなんだよね ……あ、昼の小町通りは除いてね。あそこ昼だと電波も繋がらないんだよ?」
そう言って笑う蒼井の横顔に、俺の胸は強く締め付けられる。
小学生の頃から可愛かったけれど、今の蒼井は美少女と言って差し支えないだろう。
「なあ、蒼井」
「ん?」
「聞いて欲しいことがあるんだ」
「どうしたの、改まって」
お互い向き直って蒼井の端正な顔を正面から見つめる。
キョトンとした蒼井の表情に胸をくすぐられながら自分の状態を確認する。
緊張はしている。心臓も張り裂けそうだ。恐怖もある。
でも、震えはない。想いを伝えなかった後悔を俺は痛いほどよく知っているから。だからこそもう躊躇いはなかった。
あの時、伝えられなかった言葉を告げる。
「ずっと、好きだった。離れ離れになってからも。これからはずっと一緒にいたい。……だから俺と付き合ってほしい」
六年間、捻れ、歪み、呪いと化したその想い。それが今この瞬間だけは、正しく俺の力になって解き放たれた。
「……」
「……蒼井?」
黙りこくっている蒼井の様子を伺う。返答をもらうのは恐ろしいが、黙られたら何もわからない。
けれど蒼井の反応は想像の埒外なものだった。
「…………ふっ」
「ふ?」
「あはははははは!」
俺の一世一代の告白を神妙な面持ちで聞いてきた蒼井は、その数秒後なぜか我慢できなくなった様子で笑い出していた。
「ふふっ……ほんと。変わらないね、一ノ瀬くんは」
「……そんな反応されるとは思わなかったんだけど」
まさか告白して笑われるとは思わなかった。もしかして馬鹿にされてる?
憮然とした顔をしていると蒼井は手を合わせて謝ってくる。
「ごめんごめん、でも今でもやっぱり駆け引きとかできないんだなあと思って」
「駆け引き?」
「あれからもう六年経ってるんだよ? 私に彼氏が出来てるとか思わなかった?」
「うっ」
交際相手の有無。
そんな告白する前に当たり前に確認すべき事柄を、焦った俺はすっかり見落としてきた。
いや、見ないようにしていたと言うべきか。
「あーあ。待っても待っても届かない一ノ瀬くんからの手紙に痺れを切らして私、彼氏作っちゃったんだよねー」
俺をバッサリと袈裟斬りするかのような鋭い言葉が蒼井から発せられる。
冷静に考えれば、小学生の時からモテていた蒼井に高校生になっても彼氏がいないなんて都合が良すぎる。
「……」
青褪めて黙り込んでしまった俺を見た蒼井は、少し慌てたように口を開いた。
「なーんて、ウソウソ」
「は? 嘘⁉︎」
「ウソウソ、彼氏なんていませーん、いたこともありませーん」
おどけた蒼井の言葉に俺は、怒るよりも前に心の底から胸を撫で下ろす。彼氏がいないのならもしかしたらまだチャンスがあるかもしれない。
「タチが悪いよ、蒼井」
そんな心情を悟られないように軽口を叩くと、蒼井は含みのある表情で俺を見つめてきた。
「ねえ、一ノ瀬くん。さっきの私の言葉の意味、わかってる?」
「え? ……彼氏がいるっていうのが嘘ってことじゃないの?」
言葉通りの意味以外受け取れないけれど……。しかし俺の答えを聞いた蒼井は呆れたように嘆息する。
「はぁ。ほんと……変わらないな、一ノ瀬くんは」
蒼井はそう言いながら一歩波打ち際に近づく。波が来ないギリギリなラインを見極めながら波打ち際に沿って歩く蒼井を、俺はゆっくりと追いかける。
「昔から嘘つけなくて、言葉の裏を読めなくて、素直で、でもひねくれてて……」
「褒めてるのか貶してるのかどっちなんだよ……」
「褒めてるよ。褒めてるんだよ、一ノ瀬くん」
そう言った蒼井はくるりと俺の方に向いて一歩近づき、上目遣いでこう問いかける。
「一ノ瀬くん。私はね、痺れを切らしてって言ったんだよ?」
ちゃんと言葉の意味を考えて。そんな蒼井の目線に俺は頭を回転させる。
痺れを切らす。長い間待たされて我慢できなくなること。
我慢? 何を? 俺からの手紙が届くのをだろう。
蒼井は俺からの手紙を待ちきれなくなって彼氏を作った、なんて冗談を言った。
それはつまり手紙が届いていたら彼氏を作ってないということで――
思索に耽って俯いていた顔を、バッと蒼井に顔に向ける。
「ふふっ、やっと気付いた?」
昔と同じようなからかい混じりの笑みを浮かべた蒼井の顔は真っ赤に染まっていた。
それが夕陽に照らされているからなのか、それとも別の要因なのかを、次に告げられた言葉で理解する。
「私もね、一ノ瀬くんのこと、好きだよ。……ずっとね」
打ち付ける波も、吹き付ける風も、空を飛ぶ鳥も、その全てが静止する。
時よ止まれ、お前は美しい。そんな言葉が現実で頭に浮かぶことがあるなんて、今この時まで想像だにしなかった。
これから先、どんなことがあってもこの瞬間を忘れることはないのだろうなと、俺は甘く痺れた脳の片隅でぼんやりと思った。




