第十六話
渋谷駅井の頭線の高架下にある書店チェーンは、俺が中学時代からよく時間を潰すのに利用している場所のひとつだった。
利用者数の少ない井の頭線の西口を出てから車道を渡ってすぐの場所にあるガラス張りの入り口。外からは地下へ続く階段しか見えない奇妙な内装だが、その階段を下ると一面本棚で埋め尽くされたフロアが広がっている。
立地も品揃えも悪くない割に客の数がそれほど多くないから、人混みに辟易することもない。
いつものように小説を物色しようと一般文芸が揃っている棚に向かうと、その一角に平積みにされた本とその周りのカラフルな装飾が目に入った。
「なんだろ、これ」
なんとなく、一冊手に取って表紙に目を凝らす。黒一色の背景に白抜き文字で構成されたシンプルな表紙のその本のタイトルと作者を読む。
かの欺瞞的愛情からの解放 盈
そんなタイトルの本は「盈氏六年ぶりの新作!」「(個人的)今年の直木賞候補筆頭!」だの、ここの書店員にファンがいるのかキャッチーな広告で彩られていた。
読んだことのない作家だけれど、何かひっかかる。まるで記憶の奥底をマドラーで引っ掻き回すかのような、そんなもどかしさ。
「この人、どっかで……」
海底に落として砂に埋もれたコインを探すかの如く、己の記憶をかき分けていくと正解の扉に行き当たった。
「そうだ……蒼井の部屋にこの人の本があったんだ」
あの一面本で覆われた蒼井の部屋。その一角をこの人の本が占めていた記憶がぼんやりとある。
「そう言えば、読んだことなかったな」
なぜだろう。たしか、蒼井が嫌がったんだっけ……。
どちらにせよ今は嫌がる蒼井はここにいない。あの誰にでも優しい蒼井が嫌悪感を示していた作家には興味があった。
買うかどうかは別にして、どんな内容だろうかと本を開く。
「蒼井も、読んでるのだろうか」
そう零した時、何かにカチリとつながったかのような、どこか懐かしい感覚を覚えた。
そして次の瞬間、聞き覚えのある声が体に直接流れ込んでくる。
『なんで今更こんな本を……』
その声の主を推測した俺は、瞬間冷凍機にぶちこまれたかのようにフリーズしてしまう。
まさか。
そんなことが、あるのだろうか。
『たしかあの人が最後に送ってきたのは、パリの……』
けれど本からなだれ込むその声は、どんなに記憶が薄れても胸の内から消えることのない、彼女の声だった。
『……蒼井?』
半信半疑の心の声が、漏れる。その声は現実に漏れた物ではなく心の空隙に消えるはずのものだったけれど、ビブリオ・テレパスの力によってたしかに向こう側へと繋がったようだった。
『え? ……もしかして……一ノ瀬、くん?』
向こう側から応答が返ってくる。
彼女の呼びかけが俺の内に至って、ようやく確信を得る。その声は恋焦がれた蒼井穂波のものだった。
『俺は……一ノ瀬悠希だけれど。君は蒼井なのか? 本当に……?』
確信を確定に変えるための質問は、緊張のあまり震えてしまう。一方で返ってきた彼女の答えは過去の記憶のまま、明るく輝く声色だった。
『うん……うん! 私は蒼井穂波だよ!』
「〜〜っ!」
嬉しさのあまり、思わずしゃがみ込んでしまう。足はガクガクと震えて動悸で胸が苦しい。けれど今はその苦しみすらも愛おしかった。
激しく拍動する心臓を必死に宥めながら、俺は彼女に思念を飛ばす。
『今、どこに……?』
今何よりも先に聞きたいこと。それは、彼女の所在だった。
『どこって……住んでる場所のこと?』
『ああ』
連絡が付いて早々住所を聞くなんてどうかしてるとは思うけれど、いつ切れてしまうかもわからない曖昧な力を信じられるほど今の俺には余裕がなかった。
本当のことを言えば今すぐ会いに行きたいが、そもそも関東圏に住んでるとは限らないし、昔住んでいたように海外だとか言われたらお手上げだ。
けれど彼女の答えは俺の想像の斜め上だった。
『えっとね……鎌倉なんだ』
『鎌倉?』
あの寺とか神社とかがある? 観光地の? いやまあそういう場所だって人は住んでいるだろうけれど。
ともあれ二時間も三時間もかかるところじゃない。スマホの時刻を見る。もうすぐ十六時になろうかという時間だった。
……会いに行けない時間じゃない。そう考えた俺は思うが先か、伝えるが先か、蒼井にメッセージを飛ばしていた。
『今から、会いに行ってもいい?』
蒼井から驚いて息を呑んだような気配を感じた。少し逡巡するような間を置いて、蒼井から返答が来る。
『……いいよ』
『ほんと……⁉︎』
嬉しさのあまり思わず声……というか思念が跳ねてしまう。ちょっと恥ずかしくなった俺は後頭部をぽりぽりとかくが、あいにく周囲の人間はその跳ねた声を誰も聞いていないし、聞いた当人は俺の仕草は見えていない。
『ふふっ……由比ヶ浜の海岸で待ってる。若宮大路をずっと海の方に歩けば着くから』
蒼井は昔と同じような笑い声を上げながら俺にそう告げた。
『じゃあ、また後で』
『あのさ……!』
交信を終えようとする蒼井を思わず引き止めてしまう。一度途絶えてしまえばもう二度とつながらないのではないかと不安になったから。それ故に俺は無茶振りもいいところな提案をしてしまう。
『……会えるまで、ビブリオ・テレパスを繋ぎっぱなしに出来ないか?』
会えるまでずっと話していたい。そうすればこの幻とも思える繋がりがなくなることはないから。
けれどそんな俺の提案に案の定蒼井は難色を示す。
『それは……無理、かな』
『そっ……か』
意気消沈した俺を慰めるためかどうかはわからないけれど、蒼井は茶目っ気たっぷりにこう言った。
『一ノ瀬くん、女の子にはいろいろ準備があるんだよ? ……すぐ会えるからさ』
その言葉の指す意味を俺は正確には理解できなかったけれど、なぜだか無性に顔が熱くなった。
交信が切れた後、俺は手に取った盈氏の本をそのままレジに持って行った。会計を済ませようと本を差し出した時、受け取った店員が不可解な顔をした。
「あの、バーコードを読み取るので本から手をお離しいただけると……?」
店員は本から手を離そうとしない俺に対して訝しげにそう言ってくる。けれど俺は申し訳ない気持ちを抱えながらも、その申し出を断った。
「……すみません、このままお願いできますか」
「はぁ……」
不審そうな目で俺を見ながら会計手続きを行う店員。列の後ろに並んでる他の客もおかしな奴を見る目をしていた。当然だ、同じ状況なら俺だってそうなるだろう。
それでも俺は怖かったんだ。今この本から手を離してしまったら、やっと通じた蒼井との繋がりまで雲散霧消してしまうのではないかと。




