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第十五話

「悠希、桜。いきなりで申し訳ないんだけど、一学期からは日本の学校に通ってもらうことになりました」

 春休みが始まって一週間後、母さんの実家のリビングに呼び出された僕と桜は母さんからいきなりそんなことを告げられた。

 話は一週間前にさかのぼる。

 終業式の翌日、物凄く焦った表情をした母さん叩き起こされた僕と桜は身支度も満足にできないまま空港に向かうタクシーの中にいた。

 まだ読めていない蒼井からの手紙はなくすのが怖くて持っては来れなかった。その代わり鍵付きの棚の奥に大切にしまいこんで帰ってきてから読むことにした。

結論から言えば、おじいちゃんが倒れたらしい。

今まで身内を亡くしたことがない僕にとって、その事態は初めてのことで僕の心臓は飛行機の中で鳴りっぱなしだった。

「おう、悠希。元気だったか?」

だから病室に入った時元気そうに手を振るおじいちゃんの姿を見た僕は拍子抜けしてしまった。

胸を撫で下ろし、春休みを満喫しようかと思っていた矢先の先ほどの母さんの言葉だ。おじいちゃんがそんな状態だったから四月からはまたパリに戻ると思ってばかりいた僕は、おじいちゃんが倒れたと聞いた時以上に驚いた。

どうやら命に別状はないにしろ定期的な通院が必要な状態には変わりないらしく、それをおばあちゃん一人で請け負うのは中々難しいそうだ。母さんに兄弟姉妹はいないからおばあちゃん以外に面倒を見る人と言えば母さん以外はいないことになる。

父さんの会社も半年単身赴任すれば日本に戻ってこれるように取り計らってくれたとのことで、たった一週間の間に僕の知らないところで僕のことまで勝手に決められたことに気持ち悪さを感じた。

そりゃあ大人の仕事やおじいちゃんの介護に比べれば僕の通う学校のことなんて大したことないかもしれないけれど、当の僕本人からすれば一大事だというのに。

「それでいい? 二人とも」

「……うん」

とは言えそれで文句を言えるほど子供じゃなかった僕は渋々納得して両親の言うことに従った。桜は駄々をこねにこねていたけれど。

それに日本に戻るということは蒼井との距離が近くなるということでもある。もしかしたらばったり会うなんてこともあるかもしれない。そんな妄想をしていたらちょっと楽しくなった。

「じゃあ、わたしは引っ越しのために一旦パリに戻るから二人はおばあちゃんの言うことをよく聞いておとなしくしてなさいね?」

 母さんはそう告げて再びパリに飛んで行った。付いていきたくないと言えば嘘だったけれど、僕は黙って母さんを見送った。

 一週間後に帰ってきた母さんと一緒に届いた僕の持ち物は、段ボール三箱だった。その中に蒼井からの手紙を見つけられなかった僕は絶望のあまり三日寝込んだ。

 後から振り返れば当たり前のことだった。海外から日本に荷物を送る料金や引っ越し作業をほとんど一人でやっていた母さん、そして子供部屋の鍵付きの棚をわざわざ開ける労力を考えれば処分してしまう家財道具の中に僕の棚とその中の手紙が含まれることはさほどおかしいことじゃなかった。

 とは言えそれを小学三年生の自分に予想できたかと言えば無理だっただろう。

 どちらにせよ、この時僕は蒼井の手紙と連絡先を永久に失ってしまったのだ。

 手がかりなしの状態で蒼井の連絡先を見つけられるほど大人でもなく、八つ当たりするほど子供じゃなかった僕は……諦めた。

 後から振り返ればいくらでも連絡をつける手段はあったのだろうが、当時小学生のガキだった僕には全く手の及ぶところではなかった。

(いや……言い訳だな)

 それ以上に、僕は楽観的だったのだ。

 僕と蒼井の繋がりがこのくらいで途切れるわけがない。きっと小説の主人公とヒロインのようにまたどこかで必ず巡り会う。

 そんな誇大妄想で、僕は蒼井へとつながるかもしれなかった細い糸すら投げ捨ててしまったんだ。

(バカバカしい)

 現実はそんな都合がいいものじゃないと、僕はよくわかっていたはずなのに。

 中学に上がる頃には、その見通しがいかに甘かったか理解できていた。けれどその頃にはもはや僕と蒼井を結びつける繋がりは何一つ残っていなかった。

 僕の胸の内には、後悔と哀愁と焦燥感だけが残された。

 蒼井のいない人生なんて無意味だと思っていたけれど、無意味であっても僕の人生は続いていく。複数回の転校や受験など様々なイベントに揉まれていたら、気づいた頃には蒼井と別れてから六年が経っていた。

 六年。それは青春時代にはあまりにも長すぎる時間で、少年が青年へと変わるのに十分な長さだった。例えば高校生になったり、声変わりをしたり、一人称が僕から俺に変わったり、だとか。

 中学時代、周りの同級生が部活や色恋沙汰に浮かれている中、俺はどうしても同じ輪に入ることができなかった。

 小学生の頃の度重なる転校の経験で人間関係を構築するのが億劫になったというのはあったかもしれないけれど、より明確な理由はもし一度でも青春や恋愛をしてしまったら、いよいよ俺は蒼井のことを忘れてしまうのではと思ったから。

 かつての初恋は終着点を見失ったまま空を漂い、残った執着心だけが重たい鎖となって俺の心を過去に縛り付けていた。

 けれど俺の記憶はそうはいかなかった。一日経るごとに蒼井の記憶が薄れていくことを強く感じていた。

 蒼井のあの優しげな表情も、隣で本を読んでいた時に感じたあのゆずの匂いも、肩を貸した時の柔らかな質感も、俺をからかって楽しげに笑うあの声も、今はもう記憶の果ての果てにしかなく。それはいまや風前の灯だった。

 まるで画用紙に滲んだ色水がじんわりと広がって、最後には色の判別がつかなくなるかのように不可逆で、止めることのできない絶望が俺を蝕んでいく。

 曖昧になっていく記憶が、それでもこれはかけがえのない大事なものだと叫んでいる。これがどれだけ苦しいことかは、きっと俺にしかわからないんだろう。

 雨に溶けて原型を失った砂の城をいまだに大切に抱えている子供のような、他人からすれば理解できないような行為。

 小学生の頃の初恋にしがみついていることがいかにみっともないか、多少なりとも自覚はあったからこの想いを他人に話したことはなかった。だから数少ない友達にも真に心を開けたことはなかったし、それを薄々感じ取った相手からも本当の意味で心を開いてもらったことはなかったように思う。

 そういう意味で、中学時代は灰色だったと言っていいだろう。致死的退屈症、というのは何の本で読んだ言葉だっただろうか。

 はっきり言えば自業自得だったが、これは俺の望むところでもあった。

 もし薔薇色の中学時代を送っていたら、相対的に蒼井との思い出が薄れてしまっただろうから。俺にはあれ以外の思い出なんか、いらない。

 瞳を閉じて自分の過去を振り返る。瞼の裏に映るのは、蒼井のことばかりだ。


 よかった。まだ俺の中では蒼井との半年間が、一番大事な思い出だ。


 そうして俺は中学での灰色の三年間を終え、おそらく追加で無価値な三年を過ごすであろう高校生活を始めることになる。

 けれどそんな色彩の欠けた日々は、ある日唐突に終わりを告げる。

 その日は、部活の勧誘を避け、友人を作ろうともせず、放課後すぐに帰宅するような、桜舞い散る四月初週の金曜の午後だった。


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