第十三話
その日の夜、僕はいつもの時間に「モモ」を開いて蒼井との交信を待っていた。子供部屋の電気はすでに消えており、隣のベッドでは妹の桜が静かに眠っている。暗闇と静寂が部屋を包む中、何度も聞いた女の子の声が僕の内にだけ響き渡った。
『一ノ瀬くん、いる?』
『うん、いるよ』
僕は安心して蒼井に思念を返す。不安だったのは遠足での蒼井の様子から今日は来ないんじゃないかと思ったから。彼女は僕の不安を知ってか知らずか、
『よかった。お礼が言いたかったから。今日はありがとう。一ノ瀬くんが来てくれてすごい嬉しかったし、安心した』
蒼井のストレートな言葉に僕の頬は熱くなる。
『いいよ、お礼なんか。僕だっていつも蒼井に助けられてる。それはみんな同じだと思うけど』
『私がしてることなんて大したことじゃないよ。助けられる余裕があるときに目の前で困ってる人がいたら助けたくなるでしょ? なりふり構わず助けに来てくれた一ノ瀬くんとは違うよ』
そう褒めてくれる蒼井に僕は歯噛みする。僕がなりふり構わず動けたのは、困っていたのが他ならない蒼井だったからだ。でもそれを伝える勇気は僕にはまだなくて、代わりにひとつ蒼井に聞くべきことを尋ねようと思った。
『じゃあ、お礼がてら一つだけ聞いてもいい?』
『いいよ。一ノ瀬くんには助けられたから、何でも聞いて』
『蒼井は……なんであの時謝っていたの?』
僕の肩を借りながら「ごめん」と繰り返していた蒼井の姿は、そのまま見過ごすことはできなかった。蒼井は困ったように言葉を返す。
『あー、それね……やっぱり、気になるよね?』
『できれば、教えてほしい』
『そっかぁ……』
蒼井は悩んでいる様子でしばらく沈黙した。この問いで蒼井に嫌われるかもしれないという不安とそれなら聞くことをやめておけばよかったという後悔が、僕の頭の中に湧いては追い出しながらその沈黙を辛抱強く待った。
『……うん、一ノ瀬くんにはちゃんと伝えておこうかな』
沈黙を破って伝わってきた言葉は嬉しかったけれど、蒼井の次の言葉に僕は思わず閉口する。
『私はね、誰からも嫌われたくないんだ』
その蒼井の返答は、僕にとって驚くべきことではなかった。かつて僕が蒼井にからかわれて怒ったふりをした時の蒼井の焦り様は尋常じゃなかった。蒼井が人に嫌われることを極端に恐れていることはなんとなく理解できた。
とは言えたかが遠足ではぐれたぐらいで蒼井のことを嫌いになる人なんて、いないと思うけれど。それに蒼井がはぐれた原因は同じ班の子を探しに行ったという褒められるべきものなのだから尚更だ。一人で行動したという判断は間違っていたとしても、蒼井の行動が高潔なものだったという事実は変わらない。
僕が必死にそう伝えても、蒼井から首を横に振るような気配を感じた。
『ううん。そうじゃないんだ。正しく言えば私は幻滅されたくない。私のことを知ってるみんなからずっと好きでいてほしいし、私もみんなのことをずっと好きでいたい』
蒼井の想いを知った僕は、思わず言葉に詰まる。彼女の想いは決しておかしいことじゃない。人に嫌われることは僕も怖いし、みんな同じだろう。
でも……。
『それは……傲慢だよ』
お腹の奥底から絞り出した僕の言葉は否定の言葉だった。
どんなに歩み寄っても気が合わない奴はいるし、そいつの振る舞いが悪役としか思えない奴もいる。
僕が何しても僕のことを敵対視する奴はいるし、それは蒼井だって同じはずだ。
そんなことは蒼井だって知っているはずで、全ての人間から好きでいてほしい、なんて願望はあまりにも高望みなんじゃないだろうか。
本当はもっとオブラートに伝えたかったが、貧弱な僕の語彙では蒼井のその想いを「傲慢」としか形容できなかった。
しかし蒼井は僕の言葉に怒ることはなく、静かにテレパシーを返す。
『……うん、そうだろうね。でも私には誰かに嫌われる勇気を出すことよりも誰にも嫌われないために努力する方が楽なんだ』
『……』
どう考えても茨の道であることを、蒼井は楽だと言い切った。それくらいの何かが蒼井の過去にあったのかもしれないが、僕はそこに踏み込めない。
そこに真っ直ぐ踏み込めばきっと蒼井を傷つける。それはわかっても、どう触れれば彼女を傷つけずに済むかはわからなかったから。
だから僕は別の質問に逃げてしまう。自分の、都合のいい質問に。
『なんで、僕にはそんな弱音を吐いたの?』
蒼井は誰にも幻滅されたくないと言った。それなのに、僕にはこんなふうに自分の心の柔らかいところを露出させている。
それには、いったいどんな理由があるんだろう。
『私ね、三月に帰国するんだ』
しかし、蒼井から飛び出したのは僕の想定外の言葉だった。
『えっ?』
『お父さんの仕事がひと段落してね、新年度からは日本に戻れるんだって』
頭の中が真っ白になる。そりゃパリニチのほとんどの生徒はいつか日本に帰ることくらいわかっていたけれど……僕はまだ蒼井と半年も過ごしていないのに。
『そう、なんだ……』
あまりのショックに僕は一言、そう返答することしかできず、二人の間に沈黙が降りる。
居た堪れなさに僕は何か話を続けようと混乱した頭をフル稼働させる。
まとまらない思考がたどり着いた先は、結局のところ蒼井は僕の質問に答えていないということだった。それに気づいた僕は震える声で、蒼井に問う。
『それが、僕には弱音を吐くことと、何の関係が?』
『……』
返答に、間が空く。
もしかして蒼井は本を閉じてしまったのか。そう思ってしまうくらい長く感じられる時間が経ってから、蒼井からのテレパシーが届いた。
『最後くらい、一ノ瀬くんには正直でいたかったから』
最後。その言葉が僕の胸を強く強く締め付ける。
そんなこと、言うなよ。
その言葉が僕の喉から発せられることはついぞなく。そして葵の言葉がどういう意図を持つのかを理解する感性も足りず。僕は当たり障りのない言葉を吐く。
『そっ……か。元気で、ね……』
それが今の僕が口に出来る精一杯の言葉だった。
『やだなあ、一ノ瀬くん。まだあと二ヶ月くらいあるよ? それにさ、転校しても一生のお別れってわけじゃないって最初の頃言ったでしょ?』
戯けたように僕をからかう蒼井の声。けれど今の僕にはいつものように憎まれ口を返す余裕はなかった。
『じゃあ、私そろそろ寝るね。おやすみ、一ノ瀬くん』
『……おやすみ、蒼井』
蒼井との交信が途切れ、隣のベッドで眠る桜の静かな寝息だけが寝室を満たしていた。
蒼井との会話で動揺した心を落ち着かせようと僕は目を閉じたけれど、その瞬間本棚からバタンと大きな音が鳴る。
びっくりして音のした方を見ると、端に立てかけられていたハードカバー本が重力に負けて崩れただけだった。けれどたったそれだけのことに僕の心は無性に掻き乱される。
その夜は、あまり眠れなかった。




