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第十話

 年末も間近になったある日曜日の昼下がり、玄関から母さんが僕を呼ぶ声が響いた。

「そろそろ行くわよ。準備できた? 悠希」

 どうやら学校のなんとか係とやらの話し合いがあるらしく、そのうちの一人の家に集まるそうだ。それなりに広い家らしく子供も一緒に連れてきていいとのこと。

 親からしたらありがたいことなんだろうけれど、それなりに人見知りな僕からしたら知らない人の家に上がって知らない生徒たちと半日過ごすというのだけでそれなりにストレスだ。ちなみに妹は幼稚園のイベントで既に父さんと出かけていた。

 軽く憂鬱な気持ちを抑えながら僕はふと目線をベッドサイドテーブルに置かれた本に目を向ける。

 蒼井との不思議な繋がりが生まれて以降、僕は学校と家の往復でこの本を肌身離さず持ち歩いていた。あんまり僕から声をかけられても鬱陶しいだろうから自発的に使うことはあまりないが、いつ蒼井から声がかかってもいいようによく本を開いて彼女のことを想ったりしている。

 ……本人にはとても恥ずかしくて言えないけれど。

 とはいえ今日はそういうタイミングもないだろうし、下手になくしてしまったら大変だ。そう考えた僕は本を手に取らず、寝室の電気をオフにし、玄関で待つ母さんの元に向かった。


 ……唐突だが、みんなは驚いて転んだ経験はあるだろうか。

 僕はある。というかたった今経験した。

「一ノ瀬くん⁉︎」

 まさか母さんについて行った先が蒼井の家だなんて、思わなかったから。

「奇遇だね、蒼井」

 すぐに立ち上がった僕は軽く上着の埃を払うと何事もなかったかのように蒼井に話しかける。

「……流石にあんな綺麗な横転をしておいて何事もなかったかのように振る舞うのは無理があると思うよ?」

 スルーしてくれずに少し呆れたように首を傾げる蒼井の視線に居た堪れなくなった。

 恥ずかしい……。

「でも私も驚いたよ、まさか一ノ瀬くんが来るとは思わなかった」

「……うん」

 運命、なんて陳腐な言葉が頭に浮かぶ。大人からしたらこんなことでしょうもないかもしれないけれど、僕にとってはそれくらい衝撃的な出来事だった。

 例えるなら、席替えで好きな女の子の隣を引き当てたような感じだ。

 ……真っ先にこんな例えが出てくるあたり、そろそろ僕も観念した方がいいらしいな。

 でも、まだ、少しだけ。


 蒼井が待っていたのは大きめのリビングで、そこに設置された大きめのテレビでは古めのポケモン映画が流れていた。

 親たちは一個手前の同じくらいの大きさの部屋で歓談しているので、母さんに僕の痴態を見られることがなくてホッとする。僕んちが一番乗りだったようで、他の子供達もいなかった。

 ダイニングテーブルの上に置かれたチョコレートを一つ口に含んだら、動揺でバクバクだった心臓が少し落ち着いたので僕は蒼井の方に向き直って口を開く。

「ここが蒼井の家ということは、さっき出迎えてくれたムキムキな人ってお父さん?」

「あー……うん、そうだよ」

 玄関で随分と筋骨隆々な男性と母さんが挨拶していたが、あの人が蒼井の父らしい。

 半端なく大きい右手と握手しながら「君が一ノ瀬君か……」なんて言われてちょっと怖かったが、蒼井の父なら僕のことを知っていてもおかしくはないのか。……蒼井が家で僕の話してると思うとちょっと嬉しいというか恥ずかしいというか。

「あんまりムキムキだと恥ずかしいのに、『男ってのは筋肉の大きさで決まるんだよ』とか言ってずっと筋トレしてるんだよね……」

「……それは困ったね」

 じゃあひょろひょろな僕は気に入らなかったりするのだろうか、なんて不安になる。いや、蒼井のお父さんに気に入られなかったからってなんだっていうのかという話はあるが。

 そこまで考えて、僕はこの家に来てから抱いていた些細な違和感に気づく。

「そう言えば、お母さんは?」

 今までの経験則では大体の場合、招かれた家では母親が応対してるイメージがあったが、今のところ蒼井のお母さんの姿は見当たらない。休日にひとりで出掛けてるというのもなんとなくしっくりこない。

「あっ……そうだ」

 けれど蒼井は僕の質問が聞こえなかったのか返答しなかった。その代わりに僕の右手を取ってこう囁く。

「私の部屋、見る?」

「……え?」

 彼女の言葉に、僕は直前まで考えていたことが全部頭から吹っ飛んでしまった。


 蒼井に手を引かれて部屋に入った僕は思わず口を滑らす。

「なに……この部屋……」

 初めて女の子の部屋に入った第一声としては最悪もいいところな感想だけれど、流石にちょっと弁解させて欲しい。

 蒼井の部屋は四面ある壁のうち、窓とベッドで塞がった壁以外の三面ほとんどが本棚で覆われた異様な部屋だった。たまにアニメや映画で出てくる、大きなお屋敷の書斎のようにぐるりと本に囲まれている部屋。

 僕もこの歳にしてはそれなりの数の本を読んできたと思うけれど、それでもこの本棚のひとつが埋まるかどうか程度だろう。

「もしかして、この部屋の本全部読んだの?」

「まさか」

 蒼井はこぼれ出た僕の疑問に手を振って否定する。……さすがにか。

「半分くらいだよ」

「半分!?」

 十分異常だよ! と声を張り上げそうになる。

 とは言え本好きとしてはこれだけの本の山には興味がそそられるものがある。

 ……図書館にはもっといっぱいある、だって? 人の家の本棚には図書館とはまた違った魅力があるんだよ。個性というか、色というか。

「触ってもいい?」

「もちろん」

 蒼井から許可をもらい、彼女の本を物色する。棚をぎっしりと埋める本の多くは児童文学や小学生向けにわかりやすく書かれた小説、もっと小さい頃に読んでいそうな絵本などだった。

 そんな中、そういった本とはちょっと雰囲気の異なるハードカバー本を見つけ、手に取った。


 ある仮初の翼への憧憬 盈


 作家の名前は……なんで読むんだ?

「え……? いや、み、か?」

「みちる」

「え?」

「その本の作家の名前でしょ? みちるって読むんだよ、それ」

 そう答える蒼井はなぜか機嫌が悪そうで、何か勘に触ることをしてしまっただろうかと不安になる。せっかく蒼井の部屋に入るなんてイベントに遭遇したのに、その代償で険悪になるなんて最悪だ。

 どうにか状況を打開しようと、僕は会話を続けようとする。

「好きなの? この作家」

 唐突なようだが、こんなことを聞いたのには理由がある。この盈という作家の本が本棚の一列を端から端まで占めていたからだ。カバーの折り返し部に書かれた作品一覧を見た限り、ここには全作品が揃っているように見える。

 しかし――どうやらこの質問は蒼井の地雷ど真ん中だったらしい。

「まさか!」

 鼻で笑い飛ばす蒼井の顔からは嫌悪感が隠しきれていなくて、誰にでも優しいいつもの彼女からは想像もできなくて。

「この人は……私が、この世界で一番嫌いな作家」

 そう吐き捨てる蒼井の顔は、ハードカバー本を取り落としそうになるくらい、恐ろしかった。

 その後リビングに戻って以降の蒼井は普段と変わらない様子で、僕も普段通り振る舞うように心がけた。リビングにはもう他の子供たちも揃っていたが同じ学年なのは僕と蒼井だけだったから、話し合いが終わった親たちが帰宅を促しにやってくるまで二人で学校や本の話をして過ごした。

 帰宅の際に後ろ髪が引かれるような気持ちで振り返ると、玄関から手を振る蒼井も名残惜しげな表情をしていてこんな蒼井の顔が見れるなら悪くないかな、なんて思った。


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